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第40話 やさしい静寂の内側で、その声だけが確かだった





 夏の光は、容赦がない。


 侯爵家の庭に落ちる日差しは白く、葉の影はくっきりと地面に焼きついた。噴水の水音さえ、どこか熱を含んで聞こえる。風はあるのに、涼しくない。肌の上をすり抜けるだけで、熱の膜を破れずに戻っていく。


 そんな季節の中で、ルイの顔色だけが、少しずつ“季節に追いついて”きた。


 最初に気づいたのは、匂いだった。


 あの甘苦い魔法薬の香りが、段々と薄れていった。完全に消えたわけじゃない。けれど、衣服に染みつくほどの濃さではなくなる。廊下ですれ違っても、胸の奥がざわつかない程度の距離にまで、後退していた。


 それは、薬の勝利ではなく、別の何かが彼の中で“落ち着いた”気配だった。


 ルイは相変わらず几帳面に動く。朝の時間割、茶の温度、窓の開け方。全部が以前と同じなのに、どこか違う。視線が、過剰に泳がなくなった。瞬きの回数が戻った。口元の力の入り方が、少しだけ柔らかい。


 庭先で、彼が片膝をついて植木鉢の土を整えているのを見たとき、アイリスは思わず立ち止まった。


 土は黒く湿り、指先に素直に従う。ルイの手は汚れを嫌うはずなのに、その小さな泥は気にしていないようだった。ほんの少し、何かが“許されている”感じがした。


「……平気?」


 声が漏れたのは、心配が癖になっているせいだ。


 ルイは顔を上げ、少しだけ目を細めた。いつもの礼儀正しい返事の前に、間が落ちる。


「はい」


 その「はい」が、今までより軽い。


 大丈夫だ、と言い張るための言葉じゃなくて、本当にそう言える時の音だった。


 アイリスの胸の奥で、固く結ばれていたものがほどける。


(……良かった)


 声にすると壊れそうで、心の中だけで言った。


 あの夜、屋敷の静けさの中で受け取った「怖い」という言葉。あれが、ただの告白で終わらず、ちゃんと“今”に繋がっているのが分かったから。


 まだ彼の抱えてる過去の全てを知っているわけではない。けれど、少なくとも今の彼は、自分を追い詰めていない。


 夏の熱は強いのに、その瞬間だけ、胸の奥を涼しい風が吹き抜けた気がした。

 

 ルイは以前より、よく笑うようになった。必要以上に表情を作る笑顔ではなく、ふっと力が抜けたような、素の笑みだ。声の調子も安定している。歩調も乱れない。薬の瓶は、机の奥にしまわれたまま、数日手つかずでいる。


 屋敷の使用人たちは安堵していた。


 「もう大丈夫そうですね」

 そんな声が、廊下のあちこちで聞こえる。


 アイリスも、同じように思っていた。

 ただ一つ、以前とは違う“距離感”を除けば。


 ルイの視線が、常に自分を追っている。露骨ではない。じっと見つめるわけでもない。けれど、部屋に入れば気配が変わる。声をかければ、すぐに反応が返る。予定を告げる前から、必要なものが揃っている。


 まるで、次の動きを先回りするように。

 それは従者としての勤勉さ、と言えばそれまでだった。昔から、彼はそういうところがある。


 でも、違う。以前は「役目」だったものが、今はもっと自然な「安心」としてそこにある気がした。


 アイリスが窓辺に立てば、背後に気配がある。何も言わなくても、日差しを避けるようにカーテンが引かれる。喉が渇いた、と口にする前に、冷えた水が差し出される。


 その動きに、迷いがない。アイリスのために動くことが、彼にとって一番の安定剤になっているような、そんな速さ。


「お嬢様がいらっしゃれば、大丈夫ですから」


 何気なく落とされたその言葉に、アイリスは一瞬、言葉を失ったあと――ふわりと笑った。


「そっか。なら、良かった」


 疑うことも、深読みすることもしなかった。


 ただ、嬉しかったのだ。頼られている、という感覚。必要とされている、という安心。自分がそばにいることで、彼が笑っていられるなら。あの震えていた夜が二度と来ないのなら。それが一番いいことだと、素直に思った。


(……元気になってくれたんだもの)


 そう思うことで、胸に浮かんだ小さな違和感を、そっと押し戻す。


 笑顔のルイは、確かに“安定”している。


 それが、自分という存在なしでは立てない脆いバランスの上にあることに――アイリスは、気づかないふりをしたわけではなかった。


 ただ、「私が支えてあげればいい」と、無邪気に信じてしまっただけだ。

 

 彼の様子を目で追う自分がいる。廊下ですれ違えば足取りを確かめ、書類に目を落としていれば肩の力の入り具合を気にする。ほんのわずかな変化も、見逃さないように。

 ルイが苦しんでいた姿を、知ってしまったから。


 あんなに弱く、震えていた彼を、今は私が守ってあげられている。


 夜の屋敷で、灯りを落とした廊下を歩くとき、ふと背後に彼の気配を感じる。何かを求めているわけではない。ただ、そこにいるだけでいい、という距離。


 その静けさが、アイリスの胸を柔らかく満たした。


(私が、そばにいれば)


 それだけで、彼は落ち着く。それだけで、過去は暴れない。そう思えることが、どこか誇らしくて、温かかった。


 それは庇護欲にも似た、もっと甘い感覚。

 弟を見守るような、あるいは雛鳥を囲うような。


 ――置いていけない。


 ルイが笑っているのを見るたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。あの夜の告白も、震える声も、今はもう大丈夫だと思えた。


 アイリスはその安堵の中に混じる、異常に――まだ気づこうとはしなかった。気づいてしまえば、この穏やかな日々が変わってしまう気がしたから。


 夕方の風が、少しだけ涼しくなってきていた。



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