第39話 ひとりでいることを、忘れてしまった夜
その夏は、いつもより静かだった。
窓の外では蝉が鳴いているのに、廊下に響く足音は少ない。使用人たちも最低限の動きしかしないせいか、空気がどこか重く、熱を溜め込んでいる。
アイリスは、ふと隣を歩くルイを見た。
「……痩せた?」
何気なく言ったつもりだった。責める気も、深い意味もない。ルイは一瞬だけ瞬きをしてから、いつものように小さく笑う。
「そうですか? 夏は食欲が落ちますから」
もっともらしい答えだった。声の調子も、姿勢も、従者としての距離も、変わらない。
それでも、歩幅がほんのわずかに狭い。日差しを避けるように、自然と影を選んでいる。夕方になると、呼吸が浅くなるのが分かる。
「無理してない?」
「していません」
即答だった。
それ以上、話を広げる隙を与えない言い切り方。――前も、こういう返し方だっただろうか。そう思いながら、アイリスは歩調を合わせた。
まだ名前のつかない違和感を、胸の奥に残したまま。
それは何日か経った、ある日のことだった。昼下がりの屋敷には、夏の光が廊下に細長く落ち、窓の外では虫の声が間延びしている。
アイリスは、洗い終えた布を腕に抱えたまま、ルイの部屋の前で足を止めた。借りていた上着を返すだけのつもりだった。ノックをする前に、扉がわずかに開いていることに気づく。
「……?」
中に人の気配はない。声をかけるほどの用でもない、と判断して、そっと扉を押した。
部屋はいつも通り整っていた。几帳面すぎるほどの配置。乱れたものはない。
だからこそ――違和感は、すぐに目に入った。
机の引き出しが、ほんの少しだけ開いている。閉め忘れにしては、浅い隙間。視線が、自然とそこへ引き寄せられた。
(……覗くつもりは)
なかった。
ただ、閉めておこうと思っただけだ。指先で引き出しを押し戻そうとして、止まる。中に、小さなガラス瓶があった。
細身で、指に収まるくらいの大きさ。作りは粗雑で、ガラス部分はやや濁っていた。そして、ラベルは貼られていない。削られたような痕跡だけが残っている。
ふわり、と匂いが立った。
薬草の香り。それ自体は、珍しくない。けれど――その奥に、甘さが混じっている。喉の奥に残るような、重たい甘さ。
(……嫌な匂い)
思わず、眉を寄せた。
知っている匂いじゃない。でも、まったく知らないとも言い切れない。学園で聞いた噂が、脳裏をよぎる。街で出回っている、効き目は強いが代償があるという薬の話。
それと、今嗅いでいる匂いが、同じものだとは言えない。
言えないけれど。胸の奥が、ひやりと冷えた。
(……偶然、だよね)
小瓶を手に取ることはしなかった。
引き出しを、そっと元の位置に戻す。布を抱え直し、何事もなかったように部屋を出る。廊下に戻った瞬間、夏の空気がまとわりついた。さっきよりも、少し重たく感じる。
(……聞いて、いいのかな)
その問いが、胸に残る。
聞かなければ、きっと日常は続く。でも、聞かないままでいられるほど、もう軽くはなかった。
日が落ちても、空気は重たいままだ。昼間に溜め込んだ熱が、壁や床からじわじわと滲み出している。窓を開けても、夜風は生ぬるく、涼しさとは程遠い。
必要最低限の明かりだけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。影が深く、彼の表情ははっきり見えない。それでも、顔色がよくないことだけは分かる。
アイリスは、ルイの背中を見ていた。
いつもより少しだけ、距離がある。近くにいるのに、触れられない――そんな隔たり。この数日、ずっとそうだった。
細くなった身体。日に日に薄くなる笑顔。何より、「大丈夫です」という言葉の軽さ。袖口から、微かに漂う魔法薬の匂いが、それを否定していた。甘くて、苦い匂い。飲み慣れているはずなのに、最近はやけに鼻につく。
その匂いを見逃してきたわけじゃない。
ただ――見ないふりを、してきただけだ。
でも。今は、もう。
アイリスは、ゆっくりと息を吸った。胸の奥に溜まっていた迷いを、音を立てずに落とすみたいに。
「……ルイ」
名を呼ぶ声は、思っていたよりも静かだった。
その一音だけで、彼の肩がわずかに強張る。
「何に、苦しんでるの?」
責める響きはない。答えを急かすでもない。
ただ、逃げ道だけを残さない問いだった。
「私に、隠してることがあるでしょう」
沈黙が落ちる。夜の空気が、そのまま言葉になったみたいに、間に広がった。風が木々を揺らす音だけが、やけに近い。
「それは――お嬢様が、知る必要のないことです」
即答だった。迷いも、言い淀みもない拒絶。
アイリスは、一瞬だけ視線を伏せる。胸の奥が、きゅっと縮む感覚。でも、それで引く理由にはならなかった。
「そんなこと、ないよ」
顔を上げて、はっきり言う。
「だって、ルイは今、苦しんでる」
横顔は、強張ったままだった。隠そうとしているのに、隠しきれていない。
「それが分かってるのに、何もしないでいるほうが……私には、できない」
一歩、距離を詰めると、反射的に、ルイが後ずさった。
守るためでも、避けるためでもない。――拒まれる前に、引こうとする動き。
「……やめてください」
絞り出すような声だった。
「お嬢様に、心配されるような価値は……僕にはありません」
一瞬、言葉が途切れる。
「……知ったら、きっと。失望します」
それは忠告でも脅しでもなく、ただの自己否定だった。
アイリスの胸に、ちくりとした痛みが走る。彼が遠ざけようとしているのは、自分ではなく――自分自身だと、分かってしまったから。
「それは、ルイが決めることじゃないよ」
声は、自然と低くなる。
「私はね、ルイのことがとても大切」
視線を逸らさない。
「だから、苦しんでいるあなたを、そのまま放っておけない……ただ、それだけ」
ルイは、唇を強く噛みしめた。指先が、かすかに震えている。沈黙。長く、重い沈黙。
やがて、その均衡を破るように、彼の記憶が音もなく溢れ出した。
「――やっぱり、お前も俺と同じだな!」
その声は、酒の匂いと一緒に記憶に染みついている。
怒鳴っていたのか、笑っていたのか、もう正確には思い出せない。ただ、吐き捨てるように言われたその一言だけが、何度も何度も、胸の奥で反響していた。
闇属性が発現した日のことだった。制御を失ったわけじゃない。ただ、ほんの一瞬、影が濃くなっただけだ。それでも父は、それを見逃さなかった。見つけてしまった、と言うべきかもしれない。
同類を。
酒瓶を片手に、濁った目でこちらを見下ろしながら、父は言った。お前も結局、同じだ。俺と同じで、壊れる側の人間だ、と。
母は、その場にはいなかった。
けれど、母の存在だけは、はっきりと覚えている。
夜中、父の声が荒れていくたびに、そっと背中を撫でてくれた手。大丈夫よ、と何度も繰り返した声。あなたは、あの人とは違う、と。
その言葉が、どれほど救いだったか。闇が怖かったのではない。自分が何者になるのか分からなくなる、その不安を、唯一否定してくれた存在だった。
母がいなくなったのは突然だった。理由は知らされなかった。病だと言われた気もするし、事故だったとも聞いた気がする。
台所の灯りは消え、鍋の音も、湯気の匂いも、「大丈夫よ」という声も、二度と戻らなかった。受け入れてくれる存在が、世界から消えたのだと、その時になってようやく理解した。
それからルイは決めた。誰にも見せない。誰にも触れさせない。期待しないし、期待されない。そうしていれば、壊れないでいられると思った。
闇は力ではなく、証明になった。使えば、父と同じになる。拒めば、いつか制御を失うかもしれない。どちらを選んでも、行き着く先は同じだと、ずっと思っていた。
だから抑えた。押さえ込んだ。正しくあろうとした。
それが、自分にできる唯一の抵抗だと信じて。
あの人がいなくなった世界で、誰かに受け入れられ、もう一度失うのが、怖かった。
だから――楽になる方法を、選んだ。
誰にも迷惑をかけない。誰にも知られない。ただ、静かにやり過ごせる手段。薬に頼ることを、自分に許した。正しさから外れていることは、分かっていた。それでも、壊してしまうよりは、ましだと考えた。
今、目の前にいる人は、何も言わずに待っている。問い詰めもしない。目を逸らしもしない。その静けさが、逆に逃げ道を塞いでいた。
喉の奥が、ひりつく。
ここまで来てしまった以上、誤魔化すことはできなかった。
「……怖いんです」
ルイの声は低く、かすれていた。それ以上、言葉が続かない。アイリスは、すぐに返さなかった。夜の静けさが、二人の間に落ちる。
「……何が、怖いの?」
促すでも、急かすでもない問いだった。
ルイは一度、唇を噛む。そして、視線を落としたまま、ようやく言葉を絞り出す。
「……傷つけてしまうことです」
夜気が、少しだけ冷たくなる。
「力そのものじゃない。抑えきれなくなった、その先が……怒りとか、恐怖とか……そういうものに引きずられて、簡単に」
壊してしまう、と言い切る前に。
アイリスは、首を傾げた。
「私は傷つかないよ」
思いがけない一言だった。
「……はい?」
「私が、そんなに簡単に傷つくと思ってる?」
戸惑いが、そのままルイの顔に浮かぶ。
「でも……あの力は、人を傷つけます。実際に、そうだった。あの人も……」
そこで、言葉が止まった。
“あの力”が何なのか。“あの人”が誰なのか。アイリスは聞かなかった。聞く必要はなかった。答えを聞いたところで、アイリスの考えは変わらなかったから。ただ、少し考えるように視線を落としてから、言う。
「それってさ、“可能性”の話だよね」
とても、軽い声だった。
「傷つくかもしれないってことと、あなたが、誰かを傷つけるってことは、同じじゃない」
一歩だけ、距離を詰める。
「私はね、ルイ」
名前を呼ぶ声は、柔らかい。
「怖いなら、一緒に考えればいいと思う」
励ましでも、約束でもない。
「離れる理由には、ならないでしょ」
沈黙が落ちる。
長く、重い沈黙。ルイは自嘲気味に、息を吐く。
「……お嬢様は……本当に、ずるいですね」
「うん、よく言われる」
アイリスは笑って、さらに一歩、踏み込んだ。
「私はそんな優しいルイが好きだよ」
「……」
「何があったとしても、私はルイの味方だからさ」
その言葉は、約束の形をしていなかった。期限も、条件も、責任もない。ただの、無垢な肯定。
「もし抑えきれなかったら、もし間違えたら。そのときは、そのとき」
抱える闇の大きさを知らないからこそ、言うことができる、あまりにも無防備な言葉。
「一人で、抱えなくていいよ」
アイリスの言葉は慰めではない。正解でもない。ただ、ルイにとっては、そこにいていいと存在を認められた気ががした。
――その瞬間。
世界が、ひとつの方向に傾いた。この人がいる場所だけが、安全に見えてしまった。薬よりも甘く、深く、自分を許してくれる場所。
その時、一つの選択肢が消え去ったことに、二人はまだ、気づいていなかった。




