第38話 夏の風に紛れて、消えない甘苦さが残っている
ギルバートは、少しずつ元に戻っていった。
以前のように勢いだけで突っ走ることはなくなったし、世界を一気に変えようともしていない。けれど、だからといって何もしなくなったわけでもない。
貧困街への支援は、規模を縮めながらも続いているらしい。炊き出しも、物資も、できる範囲で。全てがうまくいっているわけではない、と本人は言うけれど。
学園の空気も、いつの間にか落ち着いていた。以前は、廊下や談話室で、貴族の生徒たちがそれとなく彼を評する声があった。直接的ではないが、距離を測るような言い回し。「やり方が甘い」とか、「王族向きではない」とか。それが、気づけば聞こえなくなっていた。
話題が移ったのか。飽きられただけなのか。それとも、どこかで評価の流れそのものが変わったのか。
理由をはっきり説明できる人はいない。ただ、「まあ、あれはあれで」「結果的には悪くなかったのでは」という、曖昧な空気だけが残っている。
(……本当に、自然に?)
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。確証はないし、考えすぎかもしれない。誰かが意図的に整えたとしても、それは表に出る類のやり方ではない気がした。
(それでも)
学園で見かける彼の横顔は、以前よりずっと落ち着いていて。迷いながらも前を向いている姿は、不思議と誇らしげで、眩しかった。
――ああ、やっぱり。
こういう顔をしているギルバートが、似合っている。
そして、前よりずっと、好きだと思った。
季節は、静かに夏へ移り変わっていく。
日差しは日ごとに強さを増し、太陽の光を丸ごと吸収するように石畳は熱を持った。風はあるのに、どこか重たい。息を吸うたび、肺の奥まで温度が入り込んでくるようだった。
中庭の噴水はいつもより長く稼働し、風が吹くたび、水音が涼しげに響く。生徒たちの話題は、自然と夏休みの予定へ移っていた。
「帰省、いつから?」
「海に行くんだって」
「補習? それは……ご愁傷さま」
そんな軽い会話が、廊下を流れていく。浮ついた期待と、少しの解放感。学園全体が、ひとつ季節を越える準備をしているようだった。――それなのに。
アイリスは、歩調を合わせる隣の気配に、わずかな違和感を覚えていた。
「……大丈夫?」
声をかけると、ルイは一瞬だけこちらを見た。けれど、その視線はすぐに逸れて、いつもの位置――少しだけ下を向いたままに戻る。
「はい。少し、立ちくらみがしただけです」
言葉は落ち着いている。声の調子も、普段と変わらない。
けれど。顔色は明らかに良くなかった。日差しのせい、と言い切るには、どこか青白い。
近くに立った瞬間、鼻先をかすめる匂いに、アイリスは息を詰めた。薬草と、魔法薬。それも、最近使ったばかりの、生煮えの香り。
甘苦くて――そして、嫌な匂い。
胸の奥が、わずかにざらついた。
(……なんだろう)
知っている匂いだ。薬草も、魔法薬も、決して珍しいものじゃない。けれど、その配合が、どこか雑で――急いで作られたみたいな、不安定さを含んでいる。
アイリスは、理由もなく視線を落とした。
「無理しないでね」
それ以上、踏み込まなかった。聞けば答えてくれるだろう。でも、今は――聞いてはいけない気がした。
ルイは小さく頷く。
「はい。ご心配なく」
その返事が、妙に整いすぎていて、かえって胸に引っかかる。少し先を歩く生徒たちの会話が、風に乗って届いた。
「最近さ、流行ってるアレって知ってる?」
「効き目だけはすごいらしいけど」
「代わりに、身体おかしくなるって」
笑い混じりの声。噂話として消費される、軽い調子。アイリスは、無意識に足を止めかけて、すぐに歩き出した。
(関係、ないよね)
そう思おうとした瞬間、隣を歩くルイの袖が、ほんのわずかに揺れた。
彼が、気づかれないように距離を詰めてきたのだと分かる。腕が触れるほどではない。けれど、離れないように――そこにいることを、確かめるみたいな位置。
アイリスは何も言わなかった。
立ち位置を変えることもしなかった。
ただ、その小さな動きが、なぜか胸の奥に、静かな不安を落とした。
夏は、まだ始まったばかりだった。
その中で、闇は静かに――けれど確実に、内側で息をしていた。
胸の奥に溜まる重さ。喉の奥に貼りつく冷え。魔力を巡らせるたび、黒い何かが爪を立ててくる感覚がある。
(……抑えろ)
意識を集中させる。流れを細く、浅く。余計な波を立てないように。それでも、闇は従わない。
押さえつけられるほど、反発する。視界の端が揺れ、息がうまく吸えなくなる。身体が、自分のものではなくなっていく。
(同じには、ならない)
ふいに、記憶が刺さる。
割れた食器。酒の匂い。怒鳴り声と、歪んだ魔力。
――お前も、同じだ。
そう言われた気がして、奥歯を噛みしめる。
違う。自分は、ああはならない。だから、抑える。壊れてもいい。自分一人が耐えればいい。
魔力をさらに内側へ押し込むと、視界が一瞬暗転した。膝が笑い、手すりに指をかける。
(……大丈夫だ)
何度も、そう言い聞かせてきた言葉。けれど最近、その響きが薄い。闇は消えない。静かにそこに在り続ける。
息を整えながら、ルイは目を閉じた。
同じになりたくない。ただ、それだけの願いが――いつの間にか、自分を追い詰めていることに、まだ気づかないふりをしていた。
あの日から魔法薬は、確かに効いている。少なくとも、そう“感じさせる”だけの力はあった。
喉を通した瞬間、胸の奥に広がる冷たい感覚。ざわついていた魔力が、無理やり押さえ込まれる。息は整う。立ち上がれる。
歩くことも、隣を歩くこともできる。
(……ほら、大丈夫だ)
そう思える程度には、効いている。
けれど、それは静かすぎた。
時間が経つにつれて、闇はまた輪郭を取り戻す。消えることはない。ただ、深いところへ沈められているだけだ。
薬の効き目は、確実に短くなっていた。
貧困街の南へ足を運ぶ回数は、確実に増えていた。薬はより強いものを求め、量も多くなる。小瓶を開けるたび、香りが強くなる。薬草の匂いに、魔力の残滓が混じった、甘くて苦い香り。
(……こんなに、きつかったか)
誤魔化すための匂いだと、ふと思う。効いている証拠を、嗅覚に押しつけるための。
あの日から闇は消えていない。ただ、黙らされているだけだ。早く受け入れろと。早く解放しろと。身体の内側で、静かに抗議が続いている。
薬は、救いじゃない。ただの延命。
偽りの幸せを買っているだけのもの。
小瓶をしまいながら、ルイはゆっくり息を吐いた。
夏の空気は、容赦なく熱を増していく。
甘くて苦い魔法薬の匂いが、今日も微かに残る。
それは、誰にも見せない場所で鳴る、警告音のようだった。




