第37話 線を引いた、その向こう側で
あの日から、数日が経っていた。
ギルバートの態度は、元に戻らなかった。
むしろ、はっきりと別の方向――感情を排した「王族としての正しさ」へ突き進んでいた。迷いを捨て、効率と秩序を選んだその姿は、周囲からは「成長」と称えられていた。
そして、その象徴的な出来事が、起きてしまった。
「だから、違うって言ってるだろ!」
「お前が勝手に触ったんだろ!」
魔法実技の準備室前で、怒鳴り声が響いた。
揉めているのは、実技用の器具についてだった。共用倉庫から運ばれてきた測定用の魔力結晶――数が限られている高価なもので、扱いには慎重さが求められる。
平民の男子生徒が一人、顔を青くして立っている。その足元には、微細なヒビが入った結晶が転がっていた。
「す、すみません……でも、順番が――」
「言い訳するなよ」
対峙する貴族生徒が、苛立ったように言い捨てる。
「平民が勝手に触っていいものじゃないだろ」
「壊れたらどうするつもりだったんだ?」
周囲の空気が、じわりと張りつめる。貴族生徒たちの冷ややかな視線と、平民生徒たちの怯えた沈黙。その境界線が、痛いほどはっきりとしていた。
そのとき。
「騒ぎすぎだ」
低い声と共に、人垣が自然に割れる。教師が来たわけではないのに、空気が整列するような威圧感。
「状況を説明しろ」
短く指示するギルバートに、貴族生徒が一歩前に出る。
「殿下、この者が――」
「順番を守らずに器具を使おうとした、と」
途中で、ギルバートが言葉を引き取った。
視線が、凍りついた平民生徒に向く。
「事実か」
「……触ったのは、事実です。でも、指示が――」
言い終わる前に、ギルバートは静かに首を振った。
「指示が曖昧だったとしても、確認せずに触った時点で過失だ」
淡々とした断定。そこに、情状酌量の余地はない。
「これは訓練用だが、王立の備品だ。管理責任は、扱う者にある」
誰も反論しない。「身分は関係ない」とは、言わなかった。代わりに、こう続ける。「判断に迷う立場にあるなら、なおさら慎重であるべきだった」
――つまり。
“分を弁えろ”という意味だった。
平民生徒は、反論の言葉を飲み込み、ぎゅっと唇を噛む。その姿は、かつて炊き出しの列で「当然だ」と切り捨てられた人々と重なった。
「処分は、軽くする」
ギルバートは、結論を下す。
「だが、今後この種の器具の使用は、許可制にする。身分と成績を基準に、優先順位を決めろ」
平民生徒が諦めに満ちた顔で下がる中、周囲の貴族たちは「合理的だ」「殿下らしい」と称賛を贈る。秩序は守られた。高価な器具も守られた。
誰も大声を出さず、誰も泣いていない。けれどアイリスは、可能性の芽を摘み取るようなその判断に、胸の奥が凍りつくのを感じていた。
前のギルバートなら、ここまで線を引かなかった。
注意はしただろう。叱ったかもしれない。
でも、「使わせない」という結論には、しなかった。
秩序の名の下に、可能性ごと切り落とすようなことは。
ギルバートは、何事もなかったように踵を返す。その横顔は、落ち着いていて、迷いがない。周囲は、満足そうだった。
「殿下らしい」
「やっぱり、王族だな」
評価は上がっている。
――だからこそ。アイリスだけが、立ち尽くした。
日が落ちかけた渡り廊下は、昼間の賑やかさが嘘のように静かだった。長い影が床に伸び、窓の外では、風に揺れる木々がかすかに音を立てている。
ギルバートは、立ち止まったまま、外を見ていた。
声をかけられるのを待っているようでもあり、避けているようでもある。その背中は、以前よりも広く、そして遠く見えた。
アイリスは、少しだけ距離を詰めてから口を開いた。
「……さっきのこと」
ギルバートの肩が、わずかに揺れた。
「何だ」
短い返事。振り返らない。
アイリスは、深呼吸をひとつしてから続ける。
「正しい判断だったと思う」
「……そうか」
「みんなも納得してたし。先生も止めなかった」
そこまで言ってから、少しだけ間を置いた。
「でもね」
声を落とす。
「前のギルなら、違う言い方をしたと思う」
ようやく、ギルバートがこちらを見る。表情は崩れていない。けれど、目の奥が硬い。自分が選んだ道を否定されることを、拒絶している目だ。
「変わったと言いたいのか」
「変わった、というより……」
アイリスは、言葉を選ぶ。
「線を引くのが、上手くなったんだと思う」
それは、褒め言葉にも聞こえる。だからこそ、否定しづらい。
「悪いことじゃない」
ギルバートは視線を逸らす。
「王族として、当然だ、正しい判断だろう」
その言い方が、決定的だった。
「自分」ではなく「王族」を主語にする彼に、アイリスは胸の奥がきゅっと縮むのを感じながら、それでも続けた。
「ねえ、ギル」
名前を呼ぶ。敬称を外すのは、久しぶりだった。
「私は、ルイのことが好きだよ。立場も全部分かった上で、尊敬しているの」
唐突な話題に、ギルバートの眉が動く。
「……それが、何だ」
「でもね、彼は従者だし、平民の出よ。今のギルの考え方だと、彼みたいな人は『線の外』に置かれてしまう」
言葉を濁さない。夕暮れの光が、廊下を赤く染める。
「だからね」
アイリスは、まっすぐに彼を見た。
「今のギルの考え方だと……私も、線の外だよ」
一瞬、沈黙が落ちた。
「私が侯爵令嬢であることは、確かに恵まれてる。でも、王族じゃない」
笑うでもなく、責めるでもなく。事実として突きつける。
「今のギルは、私のことも……見下してる?」
問いは、静かだった。だからこそ、逃げ場がない。
「そんなことはない」
即答だった。
「……君は違う」
「どう違うの?」
重ねる。
「生まれ?立場?それとも、私が“役に立つ”から?」
ギルバートは、口を開きかけて、閉じた。
言葉が見つからない。理屈で固めたはずの壁に、亀裂が入る。
「ね、答えに詰まるでしょ」
アイリスは、責めない声で言う。
「それが、私が言いたかったこと」
そして、少しだけ、微笑む。
ギルバートはすぐには答えなかった。視線を外し、唇を引き結ぶ。その横顔は、怒っているようにも、困っているようにも見える。
「……そんなつもりはない」
低く、抑えた声だった。アイリスは、うなずいた。
「うん。分かってる」
即答だった。
「見下そうとして言ったんじゃないよね。ちゃんと考えた結果だって、分かる」
ギルバートが、わずかに目を見開く。否定されると思っていたのかもしれない。責められる準備をしていたのかもしれない。
「……そう考えるようになったんだね」
アイリスは、静かに続けた。
「全部を救おうとして、何も守れなくなるより、線を引いたほうがいいって。悩んで、調べて、動いて……それで出した答えでしょう?」
夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばす。
「私はね」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「何もしないより、何倍もえらいと思う」
ギルバートは、言葉を失ったように口を閉ざす。否定も、反論も、肯定もない。ただ、彼女の言葉を受け止めるしかない。
アイリスは、そこで初めて小さく息を吐いた。
「だから」
一歩、近づく。
「なにが正しいかどうかなんて、今は分からないよ」
ほんの少しだけ、視線を落とす。
「でも、私は――あの時のギルの真っ直ぐさが、好きだった」
夕暮れの光が廊下に差し込み、アイリスの髪飾りが淡く、けれど確かな存在感を持って光った。かつて彼が、損得も理屈もなく、ただ彼女のために差し出した「熱」の欠片。
「だから、今の言い方は……少し、寂しかったの」
風が渡り廊下を抜け、木々がざわりと鳴った。
ギルバートは、しばらく何も言わなかった。アイリスが「正しさ」を否定するのではなく、「寂しさ」を伝えたことに、彼はかつてない動揺を覚えていた。合理性の鎧の隙間から、素の感情が覗きかける。
「……俺は」
ようやく落ちた言葉は、まだ形にならない。
けれど、その視線はもう、アイリスから逃げてはいなかった。アイリスは、ほんの少しだけ微笑む。
(答えは、今日じゃなくていいよ)
傷ついても、寂しくても、見捨てるつもりはなかった。あの日、彼が不器用な手で渡してくれた輝きを、彼女は今も信じているから。
二人の影が、夕闇に溶け合うように長く伸びていく。
王道を行く孤独な背中に、アイリスは静かに寄り添い続けた。




