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第36話 同じ言葉を、もう同じ温度では言えない






 昼休みの中庭は、思ったより静かだった。噴水の水音が、規則正しく空気を揺らしている。


 行き交う生徒の視線は、ふたりの方へ一度だけ向けられてから、すぐに離れていった。ギルバートの隣にアイリスがいる光景は、もう珍しいものではない。

 

 いつものようにギルバートは、石の縁に腰を下ろし、膝の上に書類を広げていた。数字と短いメモが並ぶそれを、淡々と指でなぞっている。


「物資の配分は、再調整が必要だな」


 アイリスは隣に立ったまま、首を傾げた。


「……大変そうだね」

「大変ではあるが、想定内だ」


 即答だった。感情が挟まる余地のない、整った返事。


「支援というのは、感情論では回らない。数と継続性がすべてだ」


 そう言って、彼は視線を上げない。


「救える範囲を決めるべきだ。無制限に手を伸ばせば、結局は何も守れなくなる」


 アイリスは、小さく相槌を打つことしかできなかった。


「全員を相手にするのは、無責任だ」


 淡々と告げられたその一言が、胸の奥に棘のように残った。


 以前のギルバートなら、同じ結論に辿り着くとしても、もっと言葉を選んでいたはずだ。迷いながら、考えながら、誰かを置いていくことを嫌がっていた。


 今は違う。正しさが、きれいに整理されすぎている。


「必要なのは、情ではない。支援を続ければ、依存は避けられない」


 声は落ち着いている。誰かを責める調子ではない。事実を整理しているだけ、という口ぶりだった。


「与えすぎれば、人は自分で動かなくなる」

「……そう、かな」

「そうだ」


 即答だった。


「自立できない層まで面倒を見る必要はない。線引きは不可欠だ」


 ただ距離を取る者の視点だけがあった。


「甘やかした結果だ」


 淡々とした一言。

 そこに、怒りも、苛立ちもない。どれも、もっともな言葉だった。反論しようと思っていても、できない。


 アイリスは、ふと自分の髪に手をやった。そこには、あの日、城下町で彼が「欲しそうだったから」とぶっきらぼうに贈ってくれた髪飾りが留められている。


 陽光を浴びているはずのその飾りは、今の彼の冷めた声に呼応するかのように、どこか鈍く光っていた。


 あの日、これを選んでくれた時の彼の指先には、もっと不器用な熱があったはずなのに。


(前は、こんな言い方、しなかった)


 アイリスはそれ以上、何も言わなかった。今はまだ、問いただすほどではない。それでも、ギルバートの横顔を見つめながら、その違和感だけは、はっきりと胸に残していた。



 時間が過ぎるほどに、その違和感は、確信へと変わっていった。


 生徒達の小さな声が、自然に混じる。段々と学園中の空気が、そちらに傾く。ギルバートの判断に、誰も声を上げない。否定もしないし、驚きもしない。


「……現実的だな」

「王族なら、その判断は当然だ」


 アイリスは、唇を開きかけて、閉じるしかなかった。


 間違っている、と言えるほど単純じゃない。

 正しい、と言い切るには、何かが足りない。


 以前の彼であれば、全部を救えるとは思っていなくても、それでも「切り捨てる」という言葉を、簡単には選ばなかった。今は違う。迷いがないぶん、余白がない。



 その日、隣で歩くギルバートが、ふと従者のことに触れたのは、ほんの偶然だった。

 

 廊下ですれ違った他の生徒の従者を見て、彼は思い出したように口を開いたのだ。


「従者という立場は、どうしても視野が狭くなりがちだ」


 断定ではない。あくまで、分析のような口調。


「主人を守ることが最優先になり、自分の立場や限界を後回しにする。それが悪いとは言わない、ただ……」


 ギルバートは、少しだけ言葉を探す。


「王族や貴族が同じやり方をしてはいけない、というだけだ」


 それでも、十分だった。胸の奥が、じわりと痛む。


「忠誠心に頼るやり方は、長くは続かない。結局、無理をするのは下の立場の人間だ」


 悪意は、ない。むしろ、冷静で、合理的で。

 だからこそ――逃げ場がない。


「君の従者も、きっと真面目だろう。だから気をつけたほうがいい、本人のためにも」


 その瞬間、アイリスの中で、何かが静かに壊れた。


 ルイが誰よりも無理をして私を守ってくれていることを、「本人のためにならない」と断じられることが、こんなにも痛い。


 ギルバートは、沈黙を否定とも受け取らない。ただ、自分の考えを共有しただけだという顔をしていた。


 アイリスの指が、再び髪飾りに触れる。鈍い輝きを放つその金属の冷たさが、今の彼との距離を無慈悲に突きつけていた。


(……ああ。この人は、もう)


 “守る側”の論理でしか、物事を見ていない。


 アイリスは、はっきりと傷ついた自分を自覚した。


 それでも。ここで声を荒げることは、できなかった。

 否定できないほど、彼の言葉は整っていて。だからこそ、ルイの存在が――「切り捨てられる側」に分類されたのだと、分かってしまったから。


 ギルバートは、それ以上何も言わなかった。


 話すべきことは話した、という顔で、いつもの歩調に戻る。背筋は真っ直ぐで、迷いはない。去っていく背中は、少し前よりも――大人びて見えた。


「殿下も、ようやく現実をご覧になったようですね」


 近くで、誰かがそう呟いた。否定する声は、もうどこにもない。


「甘さが抜けた」

「王族らしくなった」


 評価は、穏やかで、肯定的で。その場の空気は、確かに“前進”していた。


 アイリスだけが、立ち止まっていた。


 彼の言葉は整理されていて、理屈も通っている。

 多くの人が、同じ結論に辿り着くのだろう。


 あのとき、城下の出来事を知って、眉をひそめながらも「できることはあるはずだ」と言っていた人。不器用なくらい、まっすぐだった人。


(あれは、間違いだったのかな)


 それを認めるのは、少しだけ痛かった。


 離れたのは、心じゃない。今はただ、立つ場所が違ってしまっただけ。鈍く、けれど確かに存在を主張する贈り物を指でなぞる。答えは、出ない。


 けれど、ひとつだけ分かる。


(今のあなたは)

(私が好きだった“あの人”じゃない)


 彼女は歩き出す。同じ方向ではないけれど、同じ学園の空の下で。すれ違った心が、また重なる日が来るのかどうか、今はまだ分からなかった。




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