第34話 おかわりは、まだありますか?
同じ場所、同じ大鍋。立ち上る湯気も、焼きたてのパンの匂いも、前回と変わらないはずだった。
けれど――空気だけが、少し違う。
人が、増えていた。
炊き出しの開始時刻よりもずっと早くから、人影が集まっている。列はあるが、どこか歪で、はっきりとした順番が見えない。
子どもたちが前で跳ねていた時と違い、今日は大人の背中が多かった。肩を並べ、時折、小さな押し合いが起きる。
「まだか?」
「もう少し前に詰めろよ」
苛立ちは強くない。けれど、確かに混じっている。
パンを受け取ったはずの人が、列の端に回るのを、アイリスは見た。気づけば、また同じ顔が、少し前にいる。
(……あれ?)
誰かが文句を言うほどではない。止めに入るほどでもない。ただ、ほんの少しだけ、炊き出しの場に、落ち着かないざわめきが残っていた。
ギルバートは、鍋のそばで指示を出している。声は落ち着いていて、動きも変わらない。
そう思える程度には、まだ――すべては、うまく回っているように見えた。
炊き出しが進むにつれて、声の質が少しずつ変わっていった。
「……今日は、少ないな」
「前はもっと入ってた気がするんだけど」
不満、というほどではない。けれど、感想でもない。
当たり前のことを確認するような口調だった。
「うちは家族が多いんだ」
「子どもが四人いてね」
理由は、どれも正しい。否定できるものではない。
ギルバートは一人ひとりに目を向け、短く頷きながら応じていた。
「次の鍋がすぐ来る」
「量は均等だ。並び直しはしないでくれ」
声は冷静で、曖昧さがない。
前回と同じように、的確な指示。
それでも、鍋の前に立つ時間は明らかに長くなっていた。一つ対応すれば、また別の声がかかる。
護衛や役人たちは、互いに視線を交わしている。止めるほどではない。だが、どう扱うべきか、迷っている顔だ。
「……殿下、こちらの分が――」
「把握している。追加を回せ」
即答だった。迷いはない。
困惑も、今のところは表に出ていない。
(想定内だ)
ギルバートの中で、すでに答えは出ている。
人が増えれば、要求も増える。
必要なら、量を調整すればいい。
まだ、何も壊れてはいない。
少なくとも――彼自身は、そう判断していた。
倉庫の扉が開くたび、ギルバートは無意識に中を確かめるようになっていた。
積まれていたはずの木箱が、目に見えて減っている。帳簿上の数字と、実際の在庫が、少しずつ噛み合わなくなっていた。
「……早いな」
思わず、そう呟く。
想定よりも消費が激しい。人が増えたからだ、と説明はつく。つく、はずだった。
「殿下」
役人の一人が、声を潜めて近づいてくる。
「一部の物資が、確認できません」
「数は」
「……まだ、はっきりとは」
歯切れの悪い返答だった。その背後で、別の声がひそひそと交わされているのが聞こえる。
「売られてるらしい」
「見たって人がいる」
「あっちの区画には、回ってないって……」
噂は、噂のままだ。どれも断片的で、誰かの伝聞にすぎない。ギルバートは、すぐには反応しなかった。視線を倉庫の奥に向け、ひとつ深く息を吸う。
「……確認が先だ」
即断はしない。怒りも、疑いも、まだここには置かない。
証拠がない。それに――信じたくなかった。
支援は、人を疑うために始めたものではない。
彼は、そう自分に言い聞かせるように、帳簿を閉じた。
(まだ、調整できる)
(まだ、取り返しはつく)
その判断が正しいかどうかは、まだ、誰にも分からなかった。
それは何度目かの炊き出し。
場所も、鍋も、配る物も変わらない。それなのに、空気だけが、少しずつ違っていた。
列は以前より早くできる。夜明け前から、場所を確保するように人が集まる。整然というより、押し合うような気配がある。
子どもたちの笑い声は、もう聞こえなかった。
「今日は、パンだけかい?」
そう尋ねたのは、列の前方にいた男だった。不満そうではない。むしろ、雑談の延長のような口調。
「前は、スープもついてたよな」
「肉は入らないのか?」
「今度はアレもくれよ」
周囲から、同調するような声が上がる。
「子どもが多いからさ」
「成長期だろ?」
責める言葉はない。けれど、期待ははっきりしていた。
役人が言葉を選びながら応じる。
「本日は、こちらの内容で……」
「まあ、ありがたいんだけどな」
「次は、もう少し考えてくれると助かる」
“ありがたい”という言葉が、どこか形式的に聞こえた。
ギルバートは配布の現場に立ち、指示を飛ばす。
「順番を守れ」
「一人一つだ」
「今日はここまでだ、次は――」
声音は冷静だ。対応も的確で、混乱は表に出ない。その一方で、炊き出しの列の端から、こんな声が聞こえてくる。
「今日は、あっちの区画は回らなかったらしい」
「あの人に話通さないと無理だって」
「順番? 関係ないよ。顔が利くかどうかだろ」
小声だ。愚痴とも、世間話ともつかない。
けれど、はっきりしていることがあった。
同じ貧困街でも、同じ支援でも。
受け取れる人と、受け取れない人がいる。
誰が決めたのかは分からない。
けれど、皆が“そういうものだ”と受け入れている。
ギルバートは、人の流れを見つめながら言った。
「配分方法を見直そう」
「窓口を一本化する」
「次は、もっと整理する必要があるな」
まだ、折れていない。まだ、前を向いている。
問題は“やり方”であって、人ではないと、信じている。
ただ一つ分かるのは――支援が始まったあの日の空気は、もう、ここには戻ってきていないということだった。




