第33話 パンの香りと、ちょっと誇らしい朝
街の一角、貧困街の入口付近は、朝からいつもより騒がしかった。
まだ日が高くなる前だというのに、人の列ができている。大鍋の前では火が焚かれ、白い湯気がもくもくと立ち上っていた。煮込みの匂いと、焼きたてのパンの香ばしさが混ざり合い、空腹を刺激する。
「まだかな」
「もう少しだって」
子どもたちは落ち着きなく、その場を行ったり来たりしている。列に並ぶ大人たちも、苛立つ様子はなく、どこかそわそわと期待に満ちた顔をしていた。
その少し先で、ギルバートは実務側に立っていた。
「次の鍋、火を弱めろ」
「配布は三列に分ける。押すな」
短く、端的な指示。迷いはない。
護衛や役人とも、必要最低限のやり取りだけで済ませている。形式ばったやり取りはなく、今はとにかく目の前の作業を回すことが最優先だった。
準備は、明らかに整っていた。
動線も、人手も、物資の量も――足りている。
騒がしい。けれど、不思議と荒れてはいない。鍋の前で、誰かが小さく笑う。パンを受け取った子どもが、思わず声を上げる。
その一つ一つを、ギルバートは遠目に確認しながら、静かに息を吐いた。――始まりは、上々だった。
列は、思った以上に早く進んでいた。鍋の前では、器に煮込みがよそわれ、焼き上がったパンが手渡されていく。受け取った人々は、その場で立ち止まることはない。邪魔にならないよう、自然と端に寄り、静かに食べ始めていた。
「……あったかい」
ぽつりと漏れた声は、独り言に近い。けれど、その一言だけで十分だった。
別の場所では、母親が子どもの様子を見下ろしている。小さな手でパンをちぎり、夢中で口に運ぶ姿に、肩の力が抜けたようだった。
「ちゃんと食べてるわね」
「久しぶりだな……」
会話は短く、飾り気もない。それでも、どこか安心した空気が滲んでいる。
パンを受け取った子どもが、思わず駆け出した。転びそうになりながらも笑い、抱えた袋を胸に押し付けている。
「待ちなさい、こぼすわよ!」
叱る声にも、焦りはない。
少し離れた場所から、ギルバートはその光景を見ていた。
歓声は上がらない。拍手も、感謝の言葉もない。
けれど。確かに、空気が変わっている。
人々の表情が、ほんの少しだけ緩んでいる。朝の張りつめた雰囲気が、いつの間にか和らいでいた。
少し離れた場所から、アイリスは様子を眺めていた。
大鍋の周りは相変わらず賑やかで、湯気と人の気配が混ざり合っている。誰かが笑い、誰かが子どもを呼び止め、誰かが器を受け取って静かに歩き去る。
(……ちゃんと、回ってる)
それがまず、少し嬉しかった。
視線を巡らせると、ギルバートの姿がすぐに見つかる。鍋のそばで役人と短く言葉を交わし、配布の流れを確認している。指示は簡潔で、迷いがない。
いつもの学園での姿より、ずっと忙しそうなのに。
不思議と、よく似合っていた。
タイミングを見て、アイリスはそっと近づく。
「……ね」
声をかけると、ギルバートは一瞬だけ振り向いた。
「どうした」
「うまくいってるね」
それだけ言った。
難しいことは何も付け足さない。数字も、成果も、評価も。ただ、目の前の光景を見て思ったことを、そのまま。
ギルバートは一拍置いてから、視線を前に戻す。
「……まあな」
短い返事。けれど、その声音はどこか柔らかい。
「顔」
アイリスは、少しだけ笑って続けた。
「ちょっと嬉しそう」
「そんなわけがあるか」
即座に否定された。けれど、否定のわりに視線が合わない。鍋の中を確認するふりをして、忙しなく動いている。
「照れてる?」
「違う」
ぶっきらぼうに言い切ってから、少し間が空いた。
「……問題なく進んでいる。それだけだ」
「うん。それで十分だと思う」
アイリスは、素直に頷く。
誰かを救った、とか。世界を変えた、とか。
そんな大きな言葉は、今はいらない。
「よかったね」
それだけで、全部を包むみたいに言った。
ギルバートの肩が、ほんのわずかに動いた。息を吐く音が、微かに聞こえる。
「……ありがとう」
聞き逃しそうなほど小さな声。アイリスは、それを聞かなかったふりをして、にこりと笑った。
鍋の湯気は変わらず立ち上り、人の列は途切れない。忙しさも、騒がしさも、朝のまま。それでも、この場所には確かに、うまくいっている空気があった。
(今日は、いい日だ)
アイリスはそう思いながら、もう一度だけ、ギルバートの横顔を見た。
「意外と、段取りがいいな」
「混乱もなかったし」
「殿下、ああいうこともできるんだ」
炊き出しがひと段落した頃には、周囲の空気も少し変わっていた。役人たちの会話は控えめだが、評価は確実に上向いていた。
街の人々も同じだった。大げさな感謝はない。ただ、自然な声が混じる。
「今日は助かったよ」
「子どもが落ち着いている」
「また明日も来るのかい?」
それだけで、十分だった。
学園に戻れば、噂はさらに軽く広がる。
「ギルバート殿下、最近ちょっと違わない?」
「王族らしくないことしてるよね」
「でも、悪くない」
評価は好意的。追い風の匂いが、はっきりとあった。
けれど当の本人は、そんな声に頓着しない。
「……当たり前のことをしただけだ」
そう言って、配布表に視線を落とす。
浮かれる様子も、誇る気配もない。ただ、次の手順を確認しているだけ。その背中は、少しだけ高く見えた。
――今は、まだ。
この追い風が、どこまで続くのか。
誰も、考えていなかった。




