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第32話 考えることから、始めよう





 三時間目の鐘が鳴る少し前、アイリスは教室の扉の前で足を止めた。中を覗くと、すでに数人の生徒が席に着いている。その中に、見慣れた金色の髪があった。


 ギルバート・ラカル・ルクレール。


 最近は欠席が続いていたせいか、こうして姿を見かけるだけでも、胸の奥がふっと緩む。――昨日の放課後のことが、ふいに頭をよぎった。


 甘いマドレーヌの匂い、そして、ぶっきらぼうに渡されたあの包み。思い出すたび、胸の奥がそわそわする。

 別に、何か特別な約束をしたわけじゃない。ただ、贈り物をもらっただけ。けれど、視線を向けるだけで、少しだけ意識してしまう自分がいる。


 ギルバートは席に座り、机の上に数枚の紙を広げていた。教科書でもノートでもない。細かい文字が詰まった紙を、指先で押さえながら、黙って目を落としている。


 真面目な横顔。でも――昨日よりも、どこか硬い。


 以前から、彼はこういう顔をすることがあった。真剣で、まっすぐで、ひとりで答えを出そうとする顔。けれど今は、その真剣さに微かな焦燥が混じっているように見えた。


 視線に気づいたのか、ギルバートが顔を上げる。

 一瞬だけ、目が合った。昨日より、少しだけ距離が近い気がして、アイリスは慌てて視線を逸らす。


 彼は何事もなかったように視線を戻し、紙を畳んだ。けれど、その指先が少しだけ迷うように止まったのを、アイリスは見逃さなかった。


 

 昼休みの終わりが近づいた頃、アイリスは中庭の奥でギルバートを見つけた。


 人気の少ない回廊沿いのベンチ。噴水の音も届かない、少しだけ静かな場所だ。


「……あ、やっぱりここにいた」


 声をかけると、ギルバートは顔を上げた。机に向かっているときと同じ、少し硬い表情。でも、逃げるような雰囲気ではない。


「アイリスか」


 彼の膝の上には、何枚もの紙が広げられていた。新聞の切り抜き。数字が並ぶ表。背表紙の擦れた本。

 ぱっと見ただけでも、授業の資料ではないと分かる。


「それ……勉強?」


 問いかけると、ギルバートは一瞬、言うかどうか迷うように視線を落とした。それから、隠す必要はないと判断したのか、あっさりと答える。


「街の資料だ」

「街?」


 アイリスはベンチの端に腰を下ろし、自然と覗き込んだ。


 最近の物価推移。食品価格の上昇。

 貧困街に関する短い記事。

 市民生活について書かれた、少し古い書籍。


 昨日の出来事を思い出し、胸の奥が少しだけ温かくなる。彼は、本当に「知らなかった」で終わらせなかったのだ。


「昨日、言ってただろう」


 ギルバートは視線を資料に戻したまま続ける。


「盗みが増えていると。食べ物を盗む子供がいる、と」


「うん」


「城に戻ってから、気になってな」


 言葉は短い。けれど、投げやりでも思いつきでもない。一つひとつの事実を噛み砕き、飲み込もうとした跡が見える。


「一時的でも……できることはあるはずだ」


 ぽつりとしたその言葉に、アイリスは目を瞬いた。


「一時的、って?」

「例えばだが」


 ギルバートは指先で紙を揃える。


「炊き出し。あるいは、最低限の生活物資の支援」


 さらりと言ったが、内容は軽くない。それでも、彼の声には高揚も、使命感もなかった。ただ、「考えた結果」として、事実だけが置かれている。ギルバートは一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。


「それでも、すぐに、というわけにはいかないだろうな」


 肩をすくめる動きは控えめだった。


「やるなら、準備がいる。人も、物も、段取りも」


 淡々とした口調。期待も悲観も、まだそこにはない。ただ、現実を見据えているだけの声音だった。


「でも、何もしないよりは、ましだ」


 彼は顔を見上げる。その瞳はまっすぐだった。迷いはあっても、逃げるつもりはない瞳。アイリスは一瞬、言葉を探してから、ゆるく笑った。


「……うん。ギルらしい」

「何だ、それは」

「すぐ動くところ」


 からかうつもりはなかった。むしろ、少し誇らしい。


「一番に“人”のこと考えてる」


 ギルバートは、ほんのわずかに目を伏せた。


「……そう見えるか」

「見える見える」


 即答する。


「しかも、ちゃんと調べてるし」


 アイリスは資料を指で軽く叩く。


「思いつきじゃないって分かる」


 沈黙が落ちる。でも、気まずさはない。風が木々を揺らす音だけが、二人の間に流れる。ギルバートは、少しだけ息を吐いた。


「……お前は、どう思う」


 問いかけは短い。けれど、答えを求めている声音だった。王族としてではなく、ただのギルバートとして、アイリスの意見を欲している。


 アイリスは、少しだけ考えてから答える。


「上手くいくかは、分からない」


 ただ、正直に。嘘はついてはいけない。無責任な応援は、今の彼には不誠実だと思ったから。


「でもね」


 顔を上げて、彼を見る。


「考えて、動こうとしてること自体は、すごくいいと思う」


 ギルバートの眉が、わずかに動いた。怒った様子はない。むしろ、少しだけ――予想外の答えに、強張っていた肩の力が抜けたような。


「……そうか」


 それだけ言って、彼はまた資料に目を落とした。けれど、その手元は、さっきよりも少しだけ、落ち着いて見えた。



 その日の夕方、ギルバートは城に戻っていた。


 学園とは違い、ここでは一つひとつの言葉に重みがある。


 壁に掛けられた重厚な地図、積み上げられた書類の山、静かすぎる空気。すべてが、彼に「立場」を思い出させる。


 机の上に広げたのは、城下の物価推移、貧困街に関する報告書、新聞の切り抜き。そして、自分なりにまとめた支援案だった。


 向かいに座るのは、王族に連なる大人たち。


 血縁であり、同時に“現実を知っている側”の人間。彼らの瞳には、ギルバートのような熱はない。あるのは、冷徹な計算と経験だけだ。


「……ずいぶん調べたな」


 年配の男性が、資料に視線を落としたまま言う。評価の響きは、確かにあった。だが、それは努力賞を与えるような響きでしかない。


「城下の食料価格は上がっています。一時的でも、炊き出しや物資支援があれば――」

「一時的、だな」


 穏やかな声が、言葉を遮る。否定ではない。ただ、確認のような一言。それが、壁のように立ち塞がる。


「はい。ですが、何もしないよりは――」

「何もしないつもりはない」


 別の大人が、淡々と続けた。


「我々も状況は把握している。だからこそ言うが……君の案は、間違ってはいない」


 ギルバートは、息を整える。

 否定されていない。それは、事実だ。けれど、肯定もされていない。


「ただし」


 続く言葉は、静かだった。


「それで解決するほど、単純ではない」


 資料を閉じる音が、やけに大きく響いた。


「炊き出しも、物資も、やれば感謝はされる。だが、それは“今”だけだ」


 責める口調ではない。教えるでも、諭すでもない。ただ、巨大な岩のように動かない現実を突きつけられる。


「継続はどうする。人手は、資金は、その後は?」


 一瞬、言葉が詰まる。考えていなかったわけではない。だが、“すべて”に答えられるほど、まだ整ってはいない。


「……検討中です」


 正直な返答だった。喉の奥が苦い。


 沈黙が流れる。部屋の空気が、ずしりと重くのしかかった。やがて、最初に話した男性が、ゆっくりと頷いた。


「止めはしない」


 ギルバートは、顔を上げる。


「やってみるのも経験だろう」


 その声に、期待が含まれていないことは、すぐに分かった。彼らにとってこれは、子供の火遊びのようなものなのだ。


「ただし、大きな後ろ盾は期待するな。これは“君の考え”で、“君の責任”だ」


 突き放すようでいて、拒絶ではない。

 ――見守るでもなく、支えるでもなく。

 距離を取る、という選択。


 それは、「失敗しても助けない」という無言の宣告でもあった。


「分かりました」


 ギルバートは、深く頭を下げた。


 部屋を出たあと、長い廊下を一人で歩く。足音が、冷たい石床に吸い込まれていく。


 止められなかった。それは確かだ。だが同時に、期待も、賛同も、まだ何ひとつ得られていない。


(……それでも)


 彼は、足を止めなかった。


 この時のギルバートは、まだ知らない。その「止めないが、期待もしない」という態度が、いずれ、自分をどれほど追い詰めることになるのかを。


 王城の書斎に差し込んでいた夕暮れの光は、いつの間にか消えていた。


 机の上に積まれた書類と、読みかけの資料。最後まで目を通しきれなかったページを閉じ、ギルバートは静かに息を吐く。


 考えることは山ほどある。答えは、まだ遠い。

 それでも、立ち止まるつもりはなかった。



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