第31話 見るだけって言ったよね?
「お嬢様。本当に行かれるのですか」
放課後、正門へ向かう途中で、ルイがぴたりと足を止めた。やけに深刻な声に、アイリスは振り返る。
「行くけど?」
「城下町は最近、治安が――」
「知ってるってば」
即答すると、ルイは小さく眉を寄せた。
「ですから、本日は控えたほうが」
心配そうなルイを見ながら、アイリスはわざとらしく顎に指を当てる。そして、少し考える素振りをした。
「でもさ。殿下との約束、すっぽかしたらどうなると思う?不敬罪で、即処刑とか……?」
語尾を上げて言うと、ルイがぴくりと反応した。
「冗談よ」
「……冗談に聞こえません」
「半分くらいはね」
くすっと笑ってアイリスが付け足すと、ルイは額を押さえた。
「行かない選択肢、消えたでしょ?」
少し離れたところで、ギルバートが待っている。こちらのやり取りを気にしている様子はないが、背筋の伸びた姿勢は相変わらずだ。ルイは視線を逸らし、ぽつりと零す。
「……本当は、私も同行したいのですが……検診が……」
「大丈夫だよ、ちゃんと帰ってくるから」
アイリスは、軽い調子で言った。そして「私のこと、信用して?」と繋げながら。
その様子にルイは諦めたように溜息をつき、「南の地区には近寄らないでくださいね」と念を押して身を引いた。
手を振って答えながら、アイリスは正門へ向き直る。
心配されているのは分かっている。
それでも――今日は、行きたかった。
理由は、まだ自分でもうまく言葉にできないけれど。肌に触れる風の感触がいつもと違う気がした。
制服は着替えた。今着ているのは、動きやすい深緑のワンピース。飾り気はほとんどなく、見方によっては、質素ともみえるが、アイリスにとっては、街に遊びにいく時のお気に入りだった。
(制服で歩いたら、一瞬で“学園の人”って分かるしね)
この学園の制服は、街中では嫌でも目立つ。質のいい布に、家ごとの徽章。お金持ちの学生が多いからこそ、外へ出る前提で作られていない。
「待たせた?」
声をかけると、校門脇に立っていたギルバートが振り向いた。深く帽子をかぶり、装飾のない外套。作りの粗雑な綿の服。王族らしさを隠すつもりなのは分かるけれど、それでも立ち姿だけは隠せていない。
「いや」
短く答えてから、視線が一瞬だけアイリスに落ちる。
「いいな。街向きだ」
それだけ言われて、なぜか胸の奥が少し温かくなった。
「似合っているでしょ、制服だと浮くからね」
アイリスがいつもの調子で答えると、「そうだな」とギルバートは小さく頷いた。
アイリスは慣れた手つきで辻馬車を見つけ、街へと向かう。馬車の揺れとともに、学園の門が背後に遠ざかっていく。いつも通るはずの道なのに、今日は少しだけ違って見えた。
(……これ、デートなのかな)
今さら意識して、アイリスは小さく息を吸った。
最初の目的地は――おすすめのお菓子屋さん、だ。
辻馬車に礼を告げ、城下へ続く通りに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。匂いも変わる。
まず、人の声が多い。呼び込みの声、笑い声、値段を交渉する声。革靴の音も、荷車の軋む音も、全部が混ざり合っている。
「……騒がしいな」
ギルバートが、思わずといった調子で呟いた。
「でしょ」
アイリスは楽しそうに答える。
「でもね、慣れるとこの音がないと落ち着かなくなるよ」
並ぶ店先には、色とりどりの品物があった。焼き菓子、果物、布、小さな魔法具。高価なものばかりではないけれど、どれも生活の匂いがする。まれに、貴族街にある名店の模造品も見かけるが、それには気がつかないことにした。
ギルバートは、無意識のうちに視線をあちこちへ向けていた。
「……城の周りとは、まるで違う」
「そりゃそうだよ。あっちは静かすぎるもん」
アイリスは歩きながら、値札をちらりと確認する。
(……やっぱり、少し上がってる)
砂糖を使ったお菓子は、前より高い。果物も、量が減っている気がする。大げさに困るほどではないけれど、毎日の生活なら、じわじわ響く程度。でもそれは侯爵家の話であって、庶民たちにとっては――。
嫌な予感を感じて、アイリスは立ち止まりかけた。でもすぐにまた足を動かす。
「ここが、私のお気に入り!」
少し歩くと、甘い香りが漂ってくる。アイリスが指差した先に、小さな菓子店があった。派手な看板はないが、焼き上がったばかりの匂いが通りまで流れている。
「菓子屋か」
「そう。ハニーマドレーヌが美味しいの」
扉を開けると、店内は思ったより賑わっていた。華やかな店内に並ぶ焼き菓子を見て、ギルバートがわずかに目を見開く。
「……種類が多いな」
「選ぶのも楽しいでしょ?」
カウンター越しの商品を見比べながら、アイリスは少しだけ得意そうに笑った。
「ここはね、城のお菓子にも負けてないと思うよ」
「……それは、期待が高いな」
ニヤリと笑う、ただの十七歳の少年のような反応。棚に並ぶ菓子を見つめる、ギルバートの瞳はどこか本気だった。
城下の音と、甘い匂い。学園でも城でもない場所。
この街を、彼がどう見るのか。民の暮らしや生活を見て彼はどう受け取るのか。アイリスは、ほんの少しだけ気になっていた。
「熱いうちがいいから」
紙袋の中から甘い熱がはっきりと伝わってきた。マドレーヌの表面はこんがり焼けていて、指で割ると中から湯気が立った。
「熱いうちがおいしいみたい」
半分に割ったマドレーヌをアイリスが手渡すと、ギルバートは一瞬だけ戸惑ったあと、素直に口に運んだ。
「……甘いな」
「幸せな気分になるでしょ」
アイリスが笑うと、ギルバートは少し考えるように視線を落とした。
「甘いが、くどくない。蜂蜜の香りが残る。焼き菓子にしては軽い」
率直すぎる感想だった。でも、妙に真剣だ。
そして一瞬言葉を探してから、言葉を続ける。
「城のものは、整いすぎている」
きっぱり言われて、アイリスは吹き出した。
「つまり美味しかったってこと?」
「……そういうことになる、な」
たわいもないそんなやり取りをしているうちに、二人は通りの端へと歩いていた。その時だった。
「――ちょっと待て!」
荒い声が響き渡る。視線を向けると、果物を並べた露店の前で、人だかりができている。中にいるのは、小さな子供。痩せた腕で、果実を抱えている。
「盗みだぞ!」
「金も払わずに!」
露店の男が、子供の肩を掴んだ。子供は何か叫んだが、言葉にならない。周りはなにも動かない。気にしようともしない。まるでその光景に慣れているようだった。
次の瞬間、男の手が振り上げられた。
「やめろ」
低い声が響いた。ギルバートが、一歩前に出ていた。声は荒げていない。それなのに、空気が変わる。
「……なんだ、お前」
「その手を離せ」
露店の男は一瞬言い返しかけたが、相手の立ち姿を見て、言葉を飲み込んだ。子供は、その隙に腕を引き抜き、人混みの中へ消えていく。
「……逃げられたじゃないか」
「金は出そう。それに、命を奪う理由にはならない」
きっぱりとした言い切りだった。周囲は、誰も何も言わない。騒ぎは、それ以上広がらず、すっと散っていった。
しばらくして、ギルバートは息を吐いた。
「……知らなかった」
「え?」
「城下で、こういうことが起きているとは」
怒りよりも、戸惑いが勝っている声だった。
「帰ったら、確認して対応策を考えなければ」
現実を見て、目を逸らさない。知らなかったことを、恥じて終わらせない。それがギルバートとしての誠実。
「ハニーマドレーヌ、もう一個あるよ」
「……今か?」
一瞬だけ、ギルバートは苦笑した。甘い匂いと、騒がしい街。楽しいだけじゃない現実。それでも、彼にとって、今日見たものは、きっと無駄にならない。
露店の並ぶ通りを抜ける頃には、空は少しずつ夕方の色を帯びていた。先程の喧騒が落ち着き、代わりに、仕事帰りの人々の足音と笑い声が増えていく。
「……賑やかだな」
「夕方は特にね」
二人の中で、さっきの騒動の余韻が、完全に消えたわけではない。けれど街は、何事もなかったかのように流れを取り戻している。
露店の一角で、アイリスは足を止めた。
金属製の小さな台に、控えめな装飾品が並んでいる。そこにあったのは小さな髪飾り。宝石は使われていない。代わりに、細い金色の線で、小さな花の意匠が刻まれていた。
思わず、目が留まる。華やかで目立つ作品ではない。それでも、花の彫刻が繊細で、好みだった。
アイリスは隠れるように、値札を見る。高すぎるわけじゃない。でも、“ついで”で買うには、少しだけ悩む値段だった。
「……気になるのか」
アイリスが手に取った露店の品を見ながら、ギルバートが問いかける。その問いに気がついたアイリスは、静かに髪飾りを台へと戻した。
「かわいいけれど、今日は……見てるだけかな」
「そうか」
短く返事をして、ギルバートは一歩前に出る。
「……これを」
露店の主人に向けられた声に、アイリスは目を見開いた。
「買うって言ってない!」
「欲しそうだった」
焦るアイリスを不思議がるように、ギルバートは首を傾げる。理由は、それだけらしい。
「今日の礼だ、街を案内してもらった」
「いや、案内ってほどじゃ――」
露店の主人が微笑みながらその掛け合いを眺めていた。そして丁寧に髪飾りを包んだ後に、紙袋を差し出した。ギルバートはそれを受け取り、少しだけ戸惑うような間を挟んでから、アイリスの前に差し出した。
「何だ」
「こういうの……」
アイリスは素直に手が出なかった。言葉に詰まる。急だとか、心の準備がとか。考えは浮かぶのに、口にすると全部違う気がした。
「……嫌なら、言え」
「嫌じゃない」
アイリスは即答した。二人の間に短い沈黙が流れる。沈黙の中で、ギルバートは視線を逸らしながら、小さく息を吐いた。
「……そういう顔は……困る」
少しだけ赤くなった耳を隠すように、視線を逸らしていた。そして、アイリスは、そっと包みを受け取る。
「……ありがとう」
「気に入ったなら、それでいい」
熱くなった頬を冷ますように、彼は早足で歩き出す。アイリスは熱を帯びた包みを抱え、慌ててその後を追った。
(……なによ、これ。なんなの。)
ハニーマドレーヌの甘い香りと、彼からもらった贈り物。夕暮れの風に吹かれながら、アイリスは自分の感情が制御不能になっていくのを感じていた。




