第30話 《本日のおすすめ》ハニーマドレーヌ
授業の途中、教室の扉が静かに開いた。
遅れて入ってきた生徒に、何人かが顔を上げる。ざわめきは一瞬だけで、すぐに収まった。
金色の髪、背筋を伸ばした立ち姿。
アイリスは、無意識に息を止めていた。
しばらく学園に姿を見せていなかった彼が、いつも通りの顔でそこに立っている。教師に一礼し、余計な説明もなく席へ向かう。遅刻を咎められることもなければ、注目を集めようとする様子もない。ただ、淡々と――真面目に。
(……よかった)
理由は分からない、けれど、胸の奥に溜まっていた小さな引っかかりが、すっとほどけた気がした。公務だろう、とは皆が言っていた。王族なのだから仕方ない、と。それでも、何日も空いた席を見ているうちに、勝手に心配していたのも事実だ。
ギルバートは、変わらず板書を追っている。姿勢も、表情も、以前と同じ。少なくとも今は、ちゃんと、ここに戻ってきている。
授業の合間、教師が席を外した際に、友人が肘でつついてきた。
「ねえ聞いて、最近さ――」
声を潜めつつも、語気は軽い。
「城下、ちょっと物騒じゃない? 盗み増えてるらしくて」
「そうなの?」
「そうなのよ。食品系、特にひどいみたい」
肩をすくめて、ため息まじり。アイリスの友人の中には庶民の括りではあるが、裕福な商家の娘も多かったが、アイリスはお互いの身分差も関係なく親しく交流していた。
そんな噂話のついでに、友人は「当店のおすすめ!」と流行りのイヤリングを見せてきた。
「なに、売り込み?」
「……可愛いけど、それ高いやつでしょ?」
アイリスはその商魂猛々しさに思わず苦笑した。
「うちは侯爵家だけど、そんなに余裕ないよ?」
「えー、そうなの?」
「無駄遣いすると怒られるの」
アイリスを含めた少女たちの笑い声が広がる。その横で、ギルバートが、わずかにペンを止めた。振り返らない。けれど、確かに――聞いていた。アイリスは気づかないまま、いつもの調子で続ける。
「アクセサリーでお腹は膨れないしね」
それは、何気ない言葉だった。けれど、その何気なさが、静かに何かを動かしていることを、まだ知らない。
少し離れた席で、ギルバート・ラカル・ルクレールは、静かに生徒たちの会話を聞いていた。
盗みが増えていること。食料品の値段が上がっていること。余裕がない、という言葉。そして――
「アクセサリーでお腹は膨れないしね」
その一言。笑い混じりで、深刻さを纏わない口調だったが、けれど、どこか現実を見据えた声音でもあった。
ギルバートは視線を伏せ、指先で机の縁をなぞった。
(……侯爵家の令嬢、か)
貴族の令嬢の一人であると思っていた。平民の生活とは無縁の、何不自由なく、宝石と儀礼の中で育った人間だと。
だが、彼女は違うのだろう。少なくとも、今の言葉は違ってきた。それは、正しいとか、優しいとか。そういう分類よりも先に――「知っている」人間の言葉だった。
教師が扉を開けると、教室はまた静寂に包まれる。その中でギルバートは背筋を伸ばし、いつもの無表情に戻った。けれど、その胸の内には、ささやかな違和感が、確かに残っていた。
暖かな昼下がりの中庭。食堂とは離れた、噴水の近くはアイリスのお気に入りの場所だった。そこは、ちょっとした穴場で、生徒たちの姿も少なく、ざわめきも静かだ。
「……アイリス・ヴァレリア」
振り返ると、そこにいたのはギルバートだった。
「殿下?」
思わずそう呼んでから、すぐに気づいた。今、この距離で、その呼び方は少し堅い。
「……ギル?」
アイリスが小声で呼び直すと、彼は一瞬だけ目を瞬かせたが、何も言わなかった。
「さっきの話だ」
「さっきの話って?」
「商家の生徒とも仲がいいのだな……お前は、街のことにも、詳しいのか?」
責める調子ではない。かといって、雑談とも言い切れない。何かを知りたいような、そんな歩み寄りを感じる言葉。
「詳しいってほどじゃないよ」
アイリスは肩をすくめる。
「でも、普通に買い物もするし、遊びにも行く」
「侯爵家でも、か」
「うちはね、侯爵家だけど、そんなに裕福じゃないから」
アイリスはあっけらかんと、笑いながら続ける。
「私自身もね、宝石とか、流行りのアクセサリーとか、正直あんまり縁がなくてさ」
煌びやかな真紅の宝石が、ギルバートの胸で鈍く光る。その隣でアイリスは質素な髪飾りに触れながら、何事もないように言った。
「見て楽しいのは好きだけど、それで一日過ごせるわけじゃないしね」
一瞬、空気が止まった。少しの間を空けて、ギルバートが小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか、判断がつかない程度の変化。
「……変わった侯爵令嬢だな」
「よく言われる」
アイリスは元気よく答えた。
「……だから、気になるのか」
独り言のような呟きだった。ぽつりと落とされた言葉に、アイリスは瞬きをした。
「もしかして、ギルは街のことが気になるの?」
その声に振り向いた彼は真剣な眼差しでこちらを向いていた。少しだけ、アイリスの声の調子が明るくなる。
「貴族の子達って街のことを嫌がる人も多いけど、私は好き。物価が安いのもあるけど、美味しいものもいっぱいあるし、お店の人も親切だし……」
「……ほう」
「貴族街みたいに設備が整っている訳ではないけれど、みんなキラキラしてて、活気があって……」
どんな場所であっても、好きな場所を知ってもらえるのは嬉しい。アイリスは言葉が止まらなかった。その言葉をギルバートは、黙って聞いている。
「私、おすすめのお菓子屋さんがあるの。焼き菓子がすごく美味しくて――」
そこまで言って、アイリスはふっと言葉を切った。
「……まあ、最近はあんまり勧めないって、ルイには言われてるけど」
「理由は?」
即座に返ってきた問いに、少しだけ肩をすくめる。
「治安、かな。人の出入りが多くなってるみたい」
「そうか」
否定も同意もせず、ギルバートは噴水の水面に視線を落とした。しばしの沈黙。水音だけが、間を埋める。
「それでも」
低く、はっきりした声。
「街は“知っておくべき場所”だろう」
そう言って、小さな王様は悪戯げに笑った。
「民の暮らしが知りたい。
噂や報告だけで分かったつもりになるのは、好かん」
言葉は静かだが、意志は揺れていない。
嫌な予感を感じたアイリスがギルバートを見つめると、彼の瞳がしっかりとアイリスを捕らえた。
「教えてくれるんだろう、その“おすすめ”」
一瞬、言葉を失う。
「え、ちょっと待って」
「……今日の放課後、空いているだろう?」
その依頼は命令でもない。でも、断れる余地も逃げ場もなかった。焦るアイリスを尻目に、ギルバートは淡々と約束を決めていく。
「護衛とか……」
「問題ない。俺の実力は、知っているだろう」
どうにか逃げ場を探そうとも、間髪入れずに論破されてしまう。彼の実力は誰よりも知っている。それが一番、厄介で、否定することができない。
「……ほんとに強引」
「今さらだ」
その瞳には、強引だが、その根底にあるのは「世界を知りたい」という彼の切実な誠実さが映っていた。その切実な思いを無下にすることはできない。
「……後悔しても知らないよ?」
「それも含めて、だ」
歩き出す背中を見送りながら、アイリスは小さく息を吐いた。
(どうなっちゃうの、これ)
不安と一緒に、胸が少しだけ騒ぐ。小さな王様が踏み出した――次の一歩が、思った以上に近い気がして。
予測不能な放課後へと足を踏み出そうとしていた。




