第29話 甘い寄り道は、また今度
入学式は、驚くほど穏やかに終わった。
新入生たちは緊張しながらも楽しそうで、上級生はどこか余裕ぶって、少しだけ背伸びをしている。
廊下の端では、ルイが相変わらず丁寧に、新入生達の質問に答えていて、ロイドは開始早々、式の配布資料を裏返して落書きをしていた。ギルバートも以前のような張り詰めた空気はなく、必要なときには声をかけられ、自然と輪の中に立っている。少なくとも――その時は。
学園の庭には新緑が広がり、土の匂いと若葉の気配が混じる季節。アイリスは、春の陽射しの中で思った。
平和だな、と。本当に、そう思っていた。
新緑が濃くなり始めた頃、異変は小さな欠席から始まった。
ギルバートの席が空く日が増えていたのだ。王族なのだから、学園を空ける理由はいくらでもある。公務、会議、儀式。どれも珍しい話じゃない。
けれど、三日、四日と空白が続くにつれ、アイリスの胸には小さなざわつきが芽生え始める。
(……あの人、頑張りすぎるの、好きじゃない?)
アイリスは板書を写しながら、ふとそんなことを考えた。真面目で、責任感が強くて、放っておくと自分の限界を忘れるタイプ。そういう人を、これまで何人か見てきた気がする。
授業が終わるたびに、空席をちらりと見る。別に心配しているわけじゃない。ただ、いつもより少しだけ、教室が広く感じられた。
ある日の放課後、校門へ向かう途中でふと、掲示板の前に人だかりができているのを見かけた。掲示板の内容は、街の巡回強化。注意喚起。夜間外出の制限について。
寮の使用方法の注意喚起や、魔法陣の取り扱いなどの警告は、今までも何度かあった。でも、こんな内容の注意喚起は初めてだった。
校舎を吹き抜ける風が、少しだけ冷たい。季節のせいだけではないような気がして、アイリスは襟元を押さえた。
ギルバートの不在。街の静かなざわつき。それぞれは小さな違和感なのに、並べてみると、妙に形が揃って見える。
「……今日は、やめておきましょう」
「え?」
ルイは一瞬だけ視線を街の方へ向けてから、静かに首を振った。
「え? 新しくできたケーキ屋さん、今日行く約束だったじゃない」
つい先日、寮の談話室で話題になった店だ。季節の果実を使ったタルトが評判で、夕方には売り切れるらしい――課題の結果が良かったご褒美に連れて行ってくれると、そんな他愛もない約束を、二人で楽しそうに話した記憶がある。
「混んでるから?」
「それもありますが……」
ルイは言葉を選ぶように、少しだけ間を置いた。
「最近、街の様子が落ち着きません」
「治安?」
問い返すと、ルイは頷いた。
「小さな盗みや揉め事が、増えています。よくないモノも出回っているようです。まだ、表立って問題になるほどではありませんが」
彼は、あくまで淡々と告げる。だからこそ、逆に引っかかった。
「揉め事の中には食べ物関係が多い、と聞きました」
その一言で、何となく察する。パン屋。市場。露店。
生きるために必要なものほど、揉めやすい。
「……じゃあ」
アイリスは少し考えてから、笑った。
「今日はやめておこうか。ケーキ」
「いいんですか?」
「また今度でいいよ、甘いのは逃げないし。ねえ……
ギルが学校を休んでいるのも、それが原因?」
小さく尋ねると、ルイは一瞬だけ視線を伏せた。
「直接は、分かりません」
それから、途切れ途切れに言葉を付け足す。
「ですが、王都周辺の警戒が強まった時期と、殿下が学園を空け始めた時期は……一致しています」
偶然、と言い切るには、嫌な重なり方だった。沈黙が落ちる。遠くで、街の喧騒が聞こえる。いつもと同じ音のはずなのに、今日は少しだけ輪郭が硬い。
「……公爵家……彼は」
一度、言葉を切る。
「知っている、と思います。少なくとも、我々よりは」
断定でも、推測でもない。事実をなぞるような言い方だった。そして、ルイは前を見たまま続ける。
「街の動きと、王家内部の動向。その両方を、自然と知ることができる立場は、限られていますから」
名前は出さない。それでも、十分だった。
アイリスは小さく息を吐き、空を見上げた。そのまま、自分の胸元に手を当てる。冷たい空気の中で、ロイドからもらったアメジストのブローチが、服の上からでも微かな熱を持っているように感じられた。
春の夜風は、まだ少し冷たい。
けれど、ルイがそっとアイリスの歩幅に合わせてくれるその温かさだけで、彼女は前を向くことができた。
「その代わりに、今晩の食事は腕によりをかけますよ」
「それなら、ルイお手製のパンケーキが食べたいな」
小さな約束を交わしながら、二人はオレンジ色に染まる並木道を抜けていく。嵐の前の静けさのような、けれど確かな絆を感じる夕暮れ。甘いものは逃げない。
けれど――見過ごしてはいけない気配は、今、確かにここにある。
アイリスの十七歳は、甘いタルトを食べる余裕もないほど、ここから一気に加速していった。
研究棟の最上階は、相変わらず静かだった。
夕方の光が、窓際の埃を斜めに照らしている。
ロイドは椅子に浅く腰かけ、机に肘をついたまま、何でもない顔で外を眺めていた。
王城の噂は、学園にいても嫌でも耳に入る。誰それが動いたとか、誰それが失脚しかけているとか。正義だの改革だの、聞こえのいい言葉ばかりが、形を変えて流れてくる。
(これは、隠すというより……調整、かな)
正しさを掲げる声ほど、途中で削られる。逆に、耳障りのいい沈黙は、長く残る。現実を知って、黙る人間もいる。知ってしまったからこそ、言葉を選ぶ人間もいる。
歪みを前にして、飲み込むことを選ぶ者。歪んでいるからこそ、目を逸らさない者。どちらが正しいのかは、外からでは分からない。分かったつもりになるほど、簡単な話でもない。
ロイドは、指先で紙の端を軽く叩いた。
正しいとか、優秀だとか。そんな言葉で測れるなら、最初から苦労はしない。それぞれが、それぞれの場所で、見える現実に耐えているだけだ。壊れない形を選ぶ人もいれば、壊れてでも真っ直ぐ立とうとする人もいる。
どっちが長く保つかなんて、今はまだ分からない。
「……どっちでもいいんだけどね」
その声には、突き放すような冷たさも、深入りを避ける慎重さも、ほんの少しの諦めも混じっていた。
窓の外では、夕暮れが静かに色を変えていく。
学園は今日も平和で、だからこそ――いずれ来る波が、少しだけはっきり見えた。
ロイドは椅子から立ち上がり、未完成の魔法陣に布をかける。
今はまだ、見ているだけでいい。関わるかどうかを選ぶのは――もう少し先で。そう思いながら、彼は静かに部屋の扉を閉めた。




