第28話 春は、背伸びしたくなる季節らしい
冬休みは、思っていたよりもずっと短かった。
雪が降った日も、降らなかった日も。ロイドと過ごしたあの静かな時間も、ルイの変わらない優しさも、ギルバートの不器用な誠実も。振り返る暇もないほど、季節は猛スピードで次へと進んでいく。
凍えるような朝は少しずつ減り、吐く息の白さも薄れていく。校舎へ向かう道の脇では、固く閉じていた枝の先に、ほんの小さな芽が膨らみ始めていた。
「今日は、随分と足取りが軽いですね」
隣を歩くルイが、目を細めて言った。
「そう? 春だからかしら。魔力も身体も、なんだか元気になっていく気がするの」
花壇の隅に顔を出した小さな芽を見つけ、アイリスの胸は自然と弾んだ。季節の移ろいに、心から「嬉しい」と感じられる。それは、冬を乗り越えた者だけが味わえる特権のようだった。
「……あれ、新入生?」
正門のあたりに、見慣れない制服の集団がいた。緊張した顔。きょろきょろと落ち着かない視線。まだ学園の空気に馴染みきれていない、春特有の色。
(ああ……)
無意識に、足が止まる。記憶が、静かに重なった。
――入学式の日。この門をくぐったときの、自分。
期待と不安が入り混じって、胸がいっぱいで。これから始まる日々を、ただ必死に想像していた。
(あの頃の私は、こんな顔してたのかな)
その時、新入生たちのざわめきが一点に集まった。人の流れが割れ、視線が一点に集まる。小さな息を呑む音が、いくつも重なった。そこにいたのは――
「ギルバート殿下……?」
誰かが、恐る恐る囁いた。
日差しを背にして立つ金髪の青年。ギルバート・ラカル・ルクレールだ。王族としての威厳はそのままに、けれど以前のような冷徹な威圧感は影を潜めている。
新入生の一人が、勇気を振り絞ったように一歩前へ出た。
「え、あの……殿下……」
勇気を出した新入生の問いに、周囲の空気が凍る。しかし、ギルバートは静かに視線を落とし、迷いのない声で答えた。一瞬、周囲が緊張に包まれた。
「……案内図は、見たか」
ギルバートはそう言って、視線を落とした。声は低く、落ち着いている。
「入学初日は迷いやすい。右手の回廊を抜ければ、掲示板がある」
突き放すのではなく、導く言葉。アイリスは小さく息を吐いた。彼は変わった。自分たちの知らないところで、彼もまた「学園の一員」になろうと歩み寄っているのだ。
「……ありがとうございます!」
新入生が、ほっとしたように頭を下げる。それにつられるように、周囲の新入生たちの肩からも、少しだけ力が抜けた。
(……馴染んでる)
アイリスは、目を細めた。
以前のギルバートなら、もっと距離を取っていたはずだ。必要以上に近づかず、関わらず。今は、必要なところで、きちんと手を伸ばしている。
微笑ましい光景に浸る間もなく、今度は別のざわめきが上がった。理解できないものに向けられる、戸惑いの声。
「……あれ、誰?」
「え、なにしてるの……?」
回廊の端で、ロイド・ウィステリアが床にしゃがみ込んでいた。
彼は普段、授業にも出席せず、研究室に引き篭もっている。それなのに、こんな日に限って外に出歩いていた。
日焼けとは無縁な青白い指先で、石畳に描かれた魔法陣をなぞっている。――途中まで描いては消し、また描き直す。まるで、黒板の落書きを直すみたいな気軽さで。
「ここ、逆だと流れが歪むんだよね」
独り言を呟きながら描かれる魔法陣は、ぞっとするほど綺麗で、異質な魔力を放っている。
「でもそうすると、暴走率が上がるか……」
意味の分からない言葉が、何でもない雑談みたいに落ちる。その光景に新入生の一人が、思わず半歩下がった。
そのざわめきが聞こえたのかは、わからない。ロイドは、ふと顔を上げた。藤色の髪が揺れ、穏やかな笑顔が浮かぶ。
「ああ、ごめんごめん」
悪びれもせず、軽く手を振る。
「危ないから、そこ踏まないでね」
ロイドはいつもの調子で言った。
「一歩間違えると、床ごと吹き飛ぶから」
――空気が、凍りつく。
そして、新入生たちの足が、一斉に止まった。
ロイドはその反応を見て、少しだけ首を傾げる。
そして、わずかに口角をあげながら、付け足した。
「冗談だよ。……たぶん」
“たぶん”。その一言が、致命的だった。ざわり、と距離が生まれる。新入生たちは半歩、また半歩と後ずさり、ひそひそと声を潜めた。
「……噂の、魔法陣研究同好会の人じゃない?」
「床壊したり、爆発させるって……」
聞こえてしまう程度の小声。あの凍えた記憶が甦り、アイリスは思わず、こめかみを押さえた。
その空気を、ぴしりと断ち切る低い声が落ちた。
「――そんなところに落書きをするな!」
振り返ると、そこに立っていたのはギルバートだった。背筋を伸ばし、王族らしい威圧を纏った立ち姿。猫背気味のロイドとは、あまりにも対照的だ。
「研究なら研究棟でする決まりだろう」
一歩前に出て、はっきりと言う。
「ここは新入生の導線だ。混乱を招く真似は慎め」
「えー、落書きじゃないよ」
ロイドは顔を上げ、きょとんと瞬きをする。そして、床を指さしながら、淡々と呟く。
「仮設魔法陣。危険度は限りなくゼロ」
「魔法陣研究同好会の連中は、いつもそう言う」
ロイドの小さな呟きに、ギルバートは眉を寄せた。
「その結果、被害が出ている」
「あの人たちと一緒にしないでくれる?」
ロイドは肩をすくめた。あの悪名高き者たちと一緒にするなと示すように、魔術の天才はさらに続ける。
「僕は“被害が出ないように”確認してるだけだよ。事故が起きてからじゃ、遅いでしょ」
さらりと言い切る。それは、正論ではある。だが――今、それを理解できる空気ではなかった。
新入生たちは完全に動きを止め、誰もが次の言葉を待つように、その場に固まっていた。
(春の初日から、情報量が多すぎる)
猫背で肩をすくめるロイドと、背筋を伸ばして叱責するギルバート。あまりに対照的な二人に、頭を抱えながらも、アイリスは一歩を踏み出す。
「ロイド、ここは目立つから。あとで研究棟にしよ?」
アイリスが間に入ると、ロイドは一瞬だけ目を瞬かせ、「君が言うなら」とあっさり指を鳴らす。魔法陣が溶けるように消える。
「……消えた」
「なに、今の……」
新入生たちが、目を見開く。その光景に問題児たちが起こす行動に、ギルバートは深く息を吐いた。
「……お前は本当に……」
「はいはい、有難いお言葉はまた今度」
そして、何でもないことのようにアイリスを見る。
「で、今年も新入生の度肝抜き成功?」
「成功って言わないで」
呆れた声で返した、その瞬間。今度は新入生たちの視線が、一斉にアイリスへ集まった。
「……あの人、誰?」
「殿下と普通に話してる……」
「公爵家の人とも……?」
背中に突き刺さる視線は、完全に“何者?”という目をしていて、アイリスは少しだけ困ったように笑った。
新しい季節、新しい顔ぶれ、そして変わらない騒がしい日常。その中で、アイリスの胸の奥には、夢で聞いた神様の声が響いていた。
『悩みなさい、青少年は』
神様の言葉が本当かどうかはわからない。
それでも卒業までに残された時間は、あと一年もない。終わりを意識することは、不思議と恐怖ではなく、今の時間を大切にしようという静かな決意に変わっていた。
春の風が、校門を吹き抜けていく。花が咲き、出会いが始まり、そしてきっと――選択の刻も近づいている。
「お嬢様、行きますよ。予鈴が鳴ります」
アイリスは新入生たちの背中を見送りながら、そっと歩き出した。未来への、新しい一歩を、力強く踏みしめるために。




