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第27話 冬の学園は、静かすぎる(安全地帯はベッドの上)



 

 他人の匂いがする部屋。小難しい魔術書や研究器具の中に、ほんの少しの生活感が混ざっている。――やっぱり、ここは「巣」みたいだ、そう感じていた。直後、ロイドは驚くほど平然と言い放つ。


「奥にシャワーがあるから、嫌じゃなければ使っていいよ」


(……異性の、しかも研究室でシャワー!?)


 アイリスの中で、色々な思考が巡りだす。それは淑女としていいのか。嫁入り前の娘が男性の部屋でシャワーなんて。そもそも、すっぴん姿を男性に見せてもいいのか。なんて、いくつもの、警鐘が鳴り響く。

 

 けれども、泥水で冷え切った身体は、もはや限界だった。背に腹は代えられない。「お言葉に甘えます」と裏返った声で答え、アイリスは逃げ込むようにバスルームへ向かった。


 重くなった衣類を脱いでいる途中のことだった。パーテーション越しにロイドの気配を感じて、アイリスはわずかに震えた。


「じゃあ、着替え置いておくね」


 パーテーションの隙間から、細長い腕が伸び、小さな籠が現れる。ぎょっとしたアイリスの緊張とは裏腹に、声の主は本当に淡々としていた。照れも、含みも、変な間もない。そこに下心はまるで感じない。

 

「無難なのしかないけど、いい?」

「い、いえ! 十分です!」


 扉の先のシャワー室は、思ったより簡素だった。研究用の流し台を改造したような造りで、余計な装飾はない。その無機質がアイリスの緊張を和らげた。温かい水が流れ落ちた瞬間、全身の力が抜けた。


(……生き返る)


 すっかり冷え切った身体は、温度を取り戻し、自然と思考も落ち着いてきた。籠の中に置いてあった服は、少し大きすぎるシャツと柔らかいズボンだった。


 袖は指先をすっぽり隠し、裾は歩くたびに揺れる。鏡を見るまでもなく、自分が「借りてきた猫」状態なのは明白だった。


 そんなアイリスの姿を見て、ロイドは一瞬だけ目を瞬かせた。視線が、上から下へと軽く一度流れる。評価というより、確認に近い仕草。


「そんなに見ないでよ」


 そう呟くと、彼は短く頷いてから、くすっと笑う。


「似合ってるよ。小動物みたいで」


 褒めているのか、からかっているのか。

 判断しかねて、アイリスは半信半疑の顔をする。

 

 コートを脱いで、ラフなシャツ姿になった彼の方は、いつもよりずっと生活感があった。それでも立ち姿には余裕があって、部屋の空気に自然に溶け込んでいる。


「……あったかい」


 凍えるように冷たかった部屋は、さっきよりずっと温かくなっていた。部屋の中央には、ランタンのような形の魔法具。オレンジ色の光が、ゆらゆらと柔らかく揺れている。


「簡易暖房具、火じゃないから安全だよ」


 研究棟の住人が話す、その“安全”の基準が、どこまでなのかはアイリスはわからなかった。


「はい、どーぞ」


 別の意味での、身の危険を感じていたアイリスに対して、ロイドが差し出したのは、使い古されたカップ――正確には、研究用の耐熱ガラス容器だった。


「……それ、カップじゃないですよね?」

「細かいことは気にしない」

 

その適当さに呆れつつも、一口含むと驚くほど甘くて温かい。

 

 立ちながら飲むのは行儀が悪いかと、何気なく一歩踏み出した瞬間、「――そこ、触らない方がいいよ」とロイドの低い声が近くで落ちた。

 

 足元を見ると、床に直接刻まれた魔法陣が微かに光を放っている。


「未完成なんだ。暴発するかも」

「怖っ!?」


 思わず一歩下がると、ロイドは困ったように苦笑した。


「だから、こっちが安全地帯」


 そう言って、軽く手首を取られる。強く引くわけでもなく、拒めない程度の力。導かれるまま腰を下ろしたのは――ベッドの上だった。


「え、ちょ……!」

「ここが、一番安全」


 言い切りだった。

 視線を落とすと、ベッドの上は意外なほど片付いている。質素なシーツに、余計な装飾はない。


 周囲の床や机が“巣”のように散らかっているのに、ここだけはきちんと区切られていた。


「変な魔法陣、ここには置いてないから」

「それ、安心材料になる?」

「僕を信じて」


 飄々と言い切る彼に、アイリスは反論する気も失せてしまった。そのまま、ミルクティーを両手で抱え、そっと息を吐く。


 少し離れた場所で、ロイドは本を片付けている。こちらを気にする様子もなく、いつも通りの距離感。


「乾くまで、ここにいればいいよ」


 振り返らずに言われたその声は、冬の空気みたいに、静かで温度が低いのに、不思議と刺さらなかった。


 冬休みの学園。

 人の気配はなく、遠くで風が窓を叩く音だけがする。


 棚の前に立ったまま、ロイドは何かを探して――ふと、無意識みたいに左耳へ手を伸ばした。


 アイリスの視線は、自然とそこに吸い寄せられていた。細い指先が、深い緑色の耳飾りに触れる。濃い森を思わせるその石は、窓から差し込む冬の夕陽を受けて怪しく揺れた。


 派手ではないのに、不思議と目を引く。


 この部屋に散らばる雑多な魔法具の中でも、あれだけはきちんと“身につけられている”感じがした。


「……それ」


 気づけば、口に出していた。


「大事なもの?」


 ロイドは一瞬だけ瞬きをして、それから軽く笑った。


「うん、制御用」


 なんでもない事かのように、あっさりと答える。


「制御……?」

「魔力、だけじゃないよ」


 それ以上は説明しない。いつもの、核心だけをすり抜ける言い方。彼が指先で愛おしそうに、あるいは戒めるように石を撫でるその仕草が、アイリスの胸をざわつかせた。


 なぜなら、それは、強い感情を抑え込むための「癖」のように見えたから。


 談話室の窓の向こうで、空がゆっくりと夕暮れに沈んでいく。紫がかった、冬の色。しばらく、二人とも何も言わなかった。静かで、落ち着いていて。でも、気まずさはない。


 ぽつりと、言った。


「この時間、嫌いじゃない」


 返答はなく、ただロイドは窓の外を見ていた。


(……私も)


 そう思ったことを、自覚してしまうのが、少し怖くて。


 この沈黙の中で。ひとりだけ――あるいは、ひとり先に。もう覚悟を始めている誰かがいることを。


 アイリスは、まだ知らないふりをしていた。



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