第26話 絶対に許すな、魔法陣研究同好会
冬休みが始まった学園は、驚くほど静かだった。
学生たちの喧騒が消えた回廊には、自分の足音だけがやけに大きく響く。吐いた息は白く、空気は刃物のように冷たく澄んでいた。
(……静かすぎない?)
アイリスは肩をすくめた。厚手のコートにマフラー、手袋は二重。完全防寒のその姿は、お世辞にも令嬢らしい優雅さとは言えないが、背に腹は代えられない。土属性の魔力が弱まるこの季節、彼女にとって寒さは天敵だった。
毎年、ルイが「水属性は冬季に体調が良くなる」と言っていたのを思い出して、ちょっとだけ羨ましくなる。
――そのルイは、今日はいない。
忘れ物に気づいた時には、すでに他の執事と一緒に屋敷の買い出しに出ていた。なので今日は、ひとりでの外出だ。
(まあ、課題を取りに来るだけだし)
夏休みの教訓を生かして今度こそ完璧だと思っていたのに、結局、アイリスは冬休みの課題一式を教室に置き去りにしていた。
「……あった。我ながら、安定の自分ね」
ため息混じりに書類を抱え、踵を返す。静まり返った廊下を歩き出した、その時だった。
「あれ」
軽い声が、背後から落ちた。
「来てると思った」
「……ロイド?」
振り返ると、そこにはロイド・ウィステリアが立っていた。ロイドは、冬景色に溶け込むような装いだった。暗めの無地のコートをさらりと着こなし、余計な装飾を削ぎ落とした佇まいは、こうして見ると妙に絵になる。
(……この人、冬が似合う)
冷たい空気の中に立つ姿が、あまりに自然で。対照的に自分のもこもこした着膨れ具合が急に恥ずかしくなる。
「寒そうだね」
ロイドはそう言いながら、アイリスを一瞥した。
視線が、ほんの一瞬だけ止まる。そのあと、口元がわずかに緩んだ。
「ロイドは寒くないの?」
「慣れてるから」
あっさり。
「それに、君ほど着込むと逆に動きにくくない?」
「うるさい」
むっとしながらも、言い返す元気はある。
「あの子は?」
ロイドが、何気ない調子で聞いた。
「今日は買い出し、冬は調子いいみたいで」
「君は苦手そうだね、冬」
「見て分かりません?」
「分かる、でもさ……」
ロイドは小さく頷き、凍りついた噴水のある中庭へ視線を向けた。
「こういう静かな学園も、悪くないでしょ」
誰もいない中庭。凍りついた噴水。風の音だけが、遠くで鳴っている。いつもなら賑やかな場所が、今はまるで別の世界みたいだった。
「散歩する?短くだけど」
「……寒いですけど」
「知ってる」
断る理由はなかった。二人並んで歩き出す。とりとめもない雑談を交わしながら、白い息が静かな空へと溶けていく。課題の話。冬の食べ物。どうでもいい雑談。でも、「帰ろう」とは、どちらも言わなかった。
冬の散歩は、教室棟を抜け、中庭を横切り、さらに奥へ。普段は足を運ばない研究棟の近くまで来ていた。
人気がない。それだけで、音はやけに際立つ。
自分の足音。コートの擦れる音。吐く息が、冷たい空気を切る感覚。魔力の気配すら、残響みたいに感じられた。
(……静かすぎると、逆に落ち着かない)
ロイドと並んで歩きながら、アイリスはふと足元を見た。
――その瞬間だった。
「……あ」
踏んだ。正確には、踏んでしまった。
床に薄く刻まれていた、歪な魔法陣。線はかすれ、魔力の流れも不安定。消し忘れた落書きみたいに、雑に残っている。
一瞬で理解する。
これは、管理の目が緩む冬休みを狙って、あの悪名高い魔法陣研究同好会が残した「出来損ない」の罠だった。
「え、ちょっ――」
言い切る前に、ぱしゃりと、頭上から、冷たい感触がアイリスを襲う。
「……っ!!」
次の瞬間、視界が一気に暗くなる。水。いや、泥混じりの水。それは、冷たく、重い。前髪から滴り落ち、アイリスの頬を伝った。
ボロ雑巾のようなアイリスの姿を見て、ロイドはゆっくりと瞬きをした。
「……やってくれたね」
ぽたぽたと前髪から滴り落ちる泥水が、アイリスお気に入りのコートを無残に汚していた。
「失敗作。たぶん“跳ね返し”のつもりだったんだろうけど、精度が甘いね」
ロイドは困ったように笑った。
「魔陣研の連中、いつも後片付けが甘いから」
(最悪……)
アイリスは自分の袖を見下ろした。白い布地には泥水がしっかり染み込んでいる。濡れた服が肌に張りついて、じわじわと体温を奪っていく。早く着替えなければ、確実に体調崩す。もしかしたら、凍え死んでしまうかもしれない。
(でも女子寮、ここから結構遠いし……)
寮には着替えがある。でも寮母がいるかも分からない。
いなければ、長期休暇中の寮の扉は施錠されているだろう。完全に、詰みだった。
「しょうがない子だね」
ロイドは、まるで女子が放課後にお茶でもしよ、と誘うような調子であっさりと言った。
「僕の部屋、来る?」
「……え」
予想外の提案に、アイリスは思わず顔を上げる。
「着替え、ないでしょ
このまま放っておくと、風邪引くよ」
至極真っ当な発言だった。淡々としているのに、断れない言い方。アイリスの頭の中に“男子寮”という言葉が一瞬よぎったが、「安心して。男子寮じゃないから」まるで心を読んだみたいに、ロイドが付け足した。
「ただの研究室だから」
「……もしかして、噂の?」
「見てからの、お楽しみかな」
それ以上の説明はない。アイリスは、不安と、諦めと、寒さに背中を押され、小さく頷くしかなかった。
「……お邪魔します」
ガタガタと震えながら、ロイドに案内されて辿り着いたのは、研究棟の奥。一部の生徒を除いて、一般生徒は立ち入らない区画だった。
扉を開けた瞬間、薬品と古びた紙の、少し乾いた匂いが鼻先をくすぐる。
言葉を失う。
まず目に入ったのは、床。無造作に置かれた魔法具と、散らばる魔術書。次に壁際。用途不明の装置が並び、配線がそのまま露出している。部屋の隅に、質素なベッドがひとつ。机の上には、書きかけの魔法陣。
生活感は皆無だが、そこには彼が積み重ねてきた知の集積があった。
(……ここが、噂の)
「僕の特別室」
ロイドは、悪びれる様子もなく、くすっと笑った。
「どうせ、長くいる場所じゃないけどね」
その言い方が、少しだけ引っかかった。言葉の意味というより、言い切り方が引っかかる。それと同時に、もう一つ。
(……これ)
(絶対、正式な許可、取ってない)
研究と称して、授業をサボリ、普段はどこにいるのか不思議だった。その答えが研究棟の一室を私物化にしていたなんて、問題児にも程がある。
「とりあえず」
ロイドは、乱雑に物が保管された棚から何かを取り出した。
「タオル、貸すね」
濃紺のややくたびれたタオル。嫌な匂いはしない。洗濯済みであることを願いながら、アイリスはタオルを受け取った。
静かな冬の学園。偶然じゃない再会。
出来損ないの魔法陣。
そして――
(なんで私は、こんなところにいるんだろう)
状況だけ見れば、十分におかしかった。まるで恋愛小説の一ページのような展開。どう考えたって不用心だし、淑女としては警戒する場面だ。でも。胸の奥は、不思議と静かだった。
この“静かすぎる冬”が、少しだけ動き出したのを感じながら、アイリスは、小さく息を吐いた。




