第22話 事件発生、でも私は逃げません
人混みを抜けると、街の喧騒が膜を隔てたように少しだけ遠くなった。ざわざわとした活気が背中側に流れていき、屋台の呼び声も笑い声も、秋の冷たい風に混ざって薄れていく。
手、まだ繋いでいる。
さっきからずっとだ。あまりに自然すぎて、意識の隙間に滑り込んでいた違和感が、自覚した瞬間に熱となって指先から全身へ駆け巡る。心臓が一気に、うるさいほどの仕事を始めた。
横を見る。ロイドは何事もなかったかのように、落ち着いた足取りで通りを眺めている。指先に力を込めるでもなく、かといって離す気配もない。まるで、最初からこうあるのが世界の理だと言わんばかりの横顔。
「……あの」
「ん?」
軽い返事。
その余裕が、腹立たしいくらい落ち着いている。
「その……」
言葉を紡ごうとした瞬間、喉の奥がキュッと詰まった。
(何て言うのよ。手を離してください、って? せっかくのデート中に? ……あ、今、私、自分の口で『デート中』って認めちゃったじゃない!)
結局、何も言えずに視線を逸らす。ロイドはそんな彼女の様子を端から見て、満足そうに口元を緩めた。
通りの端に、ひときわ異質な空気を放つ露店があった。
人の流れから半歩だけ外れた位置。賑やかな声がそこだけ吸い込まれるように鈍くなる。色褪せた布の上に無造作に並べられているのは――。
「……なに、これ」
アイリスは思わず足を止めた。
歪な形の金属片、曇った水晶、文字のようで文字でない、呪いのような刻印が刻まれた奇妙な板。どれもが「触るな」と警告しているような代物ばかり。
その中央に、一冊の分厚い本があった。装丁の革はひび割れ、角は擦り切れている。背表紙の魔術文字を目で追うだけで、頭の芯が微かに重くなる。嫌な予感しかしない。
「……これ、魔術書?」
「うん」
即答だった。
ロイドは、ためらいもなくその一冊を手に取る。
埃を払う仕草すら、どこか慣れている。
「しかも、かなり面倒なやつ」
「面倒って……」
アイリスが言い終わる前に、説明が続いた。
「理論構築が三段階、魔力循環が不安定、詠唱を間違えると、反動で術者が寝込むタイプ」
ぱらり、と数頁めくっただけ。それだけで出てくる情報量に、アイリスは言葉を失う。
「……読めるんですか?」
「読めない人の方が多いと思うよ」
さらっと言われて、背筋が冷えた。
「買わないでくださいね!?」
即座に止める。反射だった。露店の店主が、そのやり取りを面白そうに眺めてから、にやりと口角を上げる。
「お嬢さん、これは“分かる人”向けでね、分からない人は、触らない方がいい」
含みのある言い方。売り文句なのか、警告なのか分からない。それに対して、ロイドは首を傾げた。
「分からない、っていうより、まだ“知られてない”だけだと思うけど」
当たり前の事実を述べるみたいに、淡々と。その態度が、あまりにも自然で。だからこそ、余計に怖い。
(……この人、ほんとに何者なの)
アイリスは内心でため息をついた。学園祭より、よほど危険な場所に足を踏み入れている気がした。
「ロイド、そういうの買ってどうするの」
「んー……」
本を閉じ、露店に戻しながら、ロイドは少しだけ考える素振りをした。
「読む用、検証用……あと、暇つぶし」
「暇つぶしで高難易度魔術書……?」
「うん」
にこり、と迷いのない笑顔。
「頭の体操になるからね」
「なりません!」
即答すると、ロイドはくすっと喉を鳴らした。
「残念」
学園では変人。街でも変人。けれど、その胡散臭さは作られたものではない。「できてしまう」ことを前提にして生きている人間の余裕。分かられないことを、最初から受け入れている目。
その孤独な余裕に、アイリスは言い知れない畏怖を感じていた。
その時、ロイドの視線が鋭く動いた。路地の奥、人通りの少ない影の方へ。表情は変わらない。けれど、先ほどまでの気の抜けた空気が、瞬時にして密度の高いものへと変質する。
露店の並びを抜けると、通りは少しだけ狭くなった。人の流れが緩み、建物の影が濃くなる。喧騒はまだ聞こえるのに、距離ができたみたいに遠い。
路地の入り口に、男が二人、壁にもたれていた。向けられた視線は卑猥としていて、値踏みするようにアイリスを捉える。
「お、可愛い子じゃん。デートか?」
品のない声。視線がロイドに移り、その力のなさそうな、育ちの良さだけが浮いている立ち姿を嘲笑う。
「なんだよ、その頼りなさそうな連れは。お嬢さん、俺たちが案内してやろうか?」
一歩、男が踏み込んできた。ロイドは何も言わず、あえて半歩、アイリスの後ろに下がった。退路を塞ぐような、不可解な動き。
(……ロイド?)
違和感を感じた直後、男の手がアイリスの肩へ伸びた。
その瞬間、アイリスに迷いはなかった。
考えるより先に、体が動く。足を半歩引き、重心を低く落とす。学園祭から続く緊張感が、指先に宿っていた。
詠唱する暇はない。けれど、今ここにある「植物」の息吹なら使える。
地面がわずかに軋み、石畳の隙間から細い、けれど鋼のように強靭な根が弾け飛んだ。
「うわっ!?」
足首を絡め取られた男が、無様に体勢を崩す。
「な、なんだ今の根っこは!」
そこで初めて、背後からロイドの声が落ちた。
「それ以上は、やめた方がいいよ」
魔法陣も光もない。なのに、触れた瞬間に存在を消されるような、圧倒的な圧。
男たちはぞっとしたように動きを止め、互いに目配せをすると、吐き捨てるように路地の奥へと逃げ去っていった。
静寂が戻り、アイリスは詰めていた息を吐き出した。
アイリスは、はっきり分かっていた。自分が“先に動いた”ことも。ロイドが“それを見てから、何もしなかった”ことも。
「……ロイド。なんで止めなかったの?」
「なんでって、君が先に終わらせてたじゃない」
ロイドはどこか愉快そうに目を細めた。
「君が動かなかったら、僕はもっと……“面倒なこと”をしてたよ」
「……それ、どういう意味」
「内緒。でも、君は動いた」
ロイドは、アイリスの肩に力を込めて、その瞳をまっすぐに見つめた。
「普通なら、僕の後ろに隠れるか、逃げるか」
淡々と、でも確実に。言葉を繋げる。
「でも、君は状況を見て、距離を測って、自分で動いた。それ、簡単じゃない、すごいことだ」
褒めている声音なのに、大袈裟ではない。ただ事実を述べているだけなのに、アイリスの胸はじんわりと熱くなった。
「結果的に何も起きなかったし、それが“結果論”ってやつ」
そうやって、ロイドは、くすりと笑う。
「君、自覚ないよね」
「なにがですか」
「自分がどれだけ、面倒な選択をしてるか」
面倒。その言葉に、アイリスは思わず苦笑が漏れる。
「褒めてます?」
「かなり」
即答だった。
「君、逃げなかった。誰かに守られるだけの人じゃない
自分で判断して、自分で選ぶ選択は、見ていて楽しかった。だから嫌いじゃないよ」
さらっと最後に付け足された言葉に、アイリスは心臓が再び跳ねるのを感じた。この人の評価は刺さるところだけは正確に撃ち抜いてくる。
「さて。デート、続行でいいかな? まだ街をちゃんと見てないし」
「……いいですけど」
「じゃあ、決まり。手、引く?」
差し出された手。逃げ場をわざと残した、挑発的な間。
「君は、逃げないんでしょ?」
(……ほんと、この人。厄介すぎるわ)
けれど、繋がれた手の温もりが、もう嫌ではない自分に気づいてしまう。
秋の街は、まだ始まったばかり。アイリスは自覚した。
自分はもう、この「天才」の引くラインの内側へ、自分から踏み込んでしまっているのだと。




