第20話 お礼は、デートらしいです
学園祭の翌朝は、驚くほど静かだった。
昨日まであれほど騒がしかった中庭も、色とりどりの装飾を残したまま、まるで何事もなかったかのように朝の光を浴びている。
賑わいの中心だった場所ほど、静寂は深く、冷たい。甘い菓子の匂いも、浮ついた笑い声も、全部――きれいに消えていた。
(……嵐が過ぎた、ってこういう感じかしら)
アイリスは教室へ向かう廊下を歩きながら、少しだけ肩の力を抜いた。正直に言えば、昨日の出来事は、質の悪い夢だったのではないかと思いたいくらいだ。
力が溢れ、恐怖が広がり、世界の理がひっくり返りそうになって。それを――ロイドが、あくびでもしそうな顔で「僕の魔法だよ」と片付けてしまった。
(うん、やっぱり現実味がないわ)
教室に入ると、すでに数人のクラスメイトが集まっていた。
「昨日のアレ、見たかったなあ」
「ひきこもり公爵様が、わざわざ事前に許可を取ってたらしいわよ」
「闇属性なんて不吉だけど、ロイド様が扱うとあんなに綺麗なのね……」
ひそひそと飛び交う噂話は、どれも真実から微妙に、けれど決定的にズレている。
(……すごい勢いで“なかったこと”にされてるわね)
思わず内心で突っ込んだ。
混乱は確かにあった。けれど、誰も責任を追及しようとはしない。ロイド・ウィステリアという「異端の天才」の名が、すべての不都合を飲み込んでしまったのだ。
それどころか、クラスメイトたちはすでに次の話題へと移っている。
「そういえば、上級生が殿下にこっぴどく叱られていたみたいよ」
「みたみた、すごい勢いだった」
「高貴なる者の務めに反する、恥ずべき行為だって説いていたわね」
(切り替え、早すぎない……?)
アイリスは苦笑しながら席に着いた。
この学園では、あまりに巨大すぎる「才能」や「血統」が介在した問題は、問題として扱われないことも多い。貴族社会のそんな歪な空気に、ようやく慣れてきた自分に気づく。
「……おはようございます、お嬢様」
少し遅れて、ルイが教室に入ってきた。
いつも通りの、一分の隙もない制服の着こなし。いつも通りの、穏やかで控えめな立ち居振る舞い。けれど――。
アイリスは一瞬で悟った。彼は元気そうに見える。けれど、その瞳の奥は、昨日よりもずっと固く、張りつめている。アイリスが声をかけようと立ち上がるより早く、ルイが静かに歩み寄ってきた。
「昨日は……申し訳ありませんでした」
周囲に聞こえないよう、低く、けれど拒絶を孕んだ声だった。
「なんで謝るのよ」
アイリスが戸惑い混じりに言うと、ルイは一瞬だけ言葉に詰まり、それから視線を落とした。学園祭は終わったけれど、彼の中ではまだ、あの時の絶望が消えていない。
「謝ることじゃないよ、あなたは……私を守ってくれたんでしょ」
「……お嬢様は、本当に変わっておいでです」
ルイの声は、低く、どこか湿り気を帯びていた。
「僕はいずれ、貴女を傷つけてしまうかもしれない」
禍々しい影の中心に立ち、「怪物」として定義されようとしている自分が、隣に立つのは相応しくない。
「何を言っているの? 傷ついたのは、貴女の方でしょ」
アイリスは、一瞬だけきょとんとして。それから、意味がわからないというように、少しだけ眉を寄せた。その言葉には、特別な覚悟も、聖女のような慈悲もなかった。
――そこで、ルイは初めて気づいてしまった。
自分が怖かったのは、力そのものではない。これまで必死に抑えてきたはずの違和感が、パズルのピースが嵌まるように一つずつ繋がっていく瞬間だった。
「……それでも。やはり、相応の『距離』は必要だと思います」
「……分かったわ。今は、ね」
ルイが、少し驚いたように顔を上げる。
「続きは、あとで。逃げ場を塞ぐのは、私の得意分野なんだから」
アイリスが茶目っ気たっぷりに笑うと、ルイは降参したように苦笑した。
「……それ、脅しですか」
「忠告」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。踏み出した、一歩。それは超えられてしまった、一歩。隣で感じる温もりは確かだったが、ルイの胸の奥には、消えない氷の欠片が残っていた。
「やあやあ」
振り返るまでもない。
「……ロイド様」
そこにいたのは、相変わらずだぼだぼのローブを羽織ったロイドだった。学園祭の片付け期間だというのに、滅多に姿を見せない彼の手には紙袋があった。中から、甘い匂いが漂っている。
「それ、なに」
「戦利品」
「なにと戦ってきたんですか」
「誘惑」
即答だった。
アイリスがじとっとした目を向けると、ロイドは、全部お見通しだと言わんばかりに楽しそうに笑った。
「学園祭って、思ったより魔境だね。誘惑が多すぎる」
「参加してなかった人の台詞です、それ」
「だから油断してたんだよ」
ロイドはさらりと言ってのけると、当然のようにアイリスとルイの間に割り込んだ。ルイがいたはずの場所に、躊躇なく、ごく自然に立つ。
「それで?」
ロイドはルイを無視して、アイリスだけを覗き込んだ。
「体調は? 昨日のあと、無理してない?」
「……してません」
横から、ルイが硬い声で答えた。ロイドはようやく、おまけのように彼に視線を向ける。
「ああ、君もいたんだ。……元気そうでなにより」
ロイドはくすりと笑い、ルイに無言の圧をかける。ルイは一瞬口を結んだが、すぐに一歩、後ろへと引いた。
「……お嬢様。お呼びでしたら、後ほど」
今はここを譲る。それが従者としての「正解」だと判断したのだろう。ルイは一礼して、そのまま教室を出ていった。残された空気が、ふっと軽くなる。
「……相変わらずだね」
ロイドがぽつりと言った。
「責任感の塊。自分を後回しにする天才」
「ロイド様、褒めていませんよね」
「半分はね」
そして、急に真剣な、けれどどこか楽しげな声を出した。
「さて」
紙袋を軽く掲げる。中で何かがかさりと音を立て、甘い匂いがふわりと漂った。
「改めて、昨日はお疲れさま」
冗談めいた口調なのに、どこか区切りをつける声だった。
「昨日は、僕のおかげで助かったよね?」
「……ロイド様のおかげ、です」
「なら、お礼をちょうだい」
そう言って、ロイドは、ふっと表情を緩めた。いつもの、掴みどころのない笑み。
「え?」
一拍、思考が止まる。
「デートしよう」
アイリスの思考が、白昼夢のように停止した。
「い、いきなり何言って」
「だって普通でしょ」
本気で不思議そうな顔をする。
「命懸けだったんだよ?それに、あんな体格の上級生だよ。危険だったんだ、それなりの報酬は欲しい」
「命懸けって……」
半歩引いたまま言うと、
「君が、ね」
さらっと返される言葉の重みに、アイリスは言葉を失った。あの時、自分がどれほど危険な賭けに出たのか。彼はすべてを理解した上で、その「命」の対価を要求している。
「嫌なら断っていいよ。でも、断られたら僕、かなり拗ねるからね」
「脅しですか」
「予告」
ロイドは即答し、満足げに頷いた。その様子にアイリスは思わず額に手を当てる。
軽い。軽いのに、核心だけ外さない。昨日からずっと助けられている。それもまた、否定できない事実だった。
「……考えます」
間を置いて、そう答える。
「うん」
ロイドは満足そうに頷いた。
「その返事でいい」
そして、去り際にぽつりと。
「選ぶのは、いつも君だから」
その一言だけが、やけに重く残った。
ロイドはひらひらと手を振り、「また近いうちに」と言い残して、自分の聖域である研究室へと消えていった。
残された教室で、アイリスは一人、立ち尽くした。
学園祭は終わった。非日常は片付けられたはずなのに。
人との距離感だけは、もう二度と、元には戻らない。
むしろ、触れれば熱を感じるほどに、曖昧で、落ち着かなくなっていた。




