第18話 越えられてしまった、その一歩
学園祭三日目の夕方は、一年でいちばん賑やかで、そして、いちばん油断しやすい時間帯だった。
西日に染まり始めた空は高く、中庭には音楽部のフィナーレを飾る演奏が響き渡っている。焼き菓子の甘い匂いと、終わりを惜しむ人々の笑い声が幾重にも重なり、誰もがこの幸福な時間が永遠に続くのだと、そう錯覚していたはずだった。
けれど、祭りの裏側では、すでに後片付けが始まっていた。
三日間の熱狂が嘘のように、校舎の裏手は少しずつ元の静けさを取り戻しつつある。夕日が校庭を赤く染め、長く伸びた影が、祭り終わりの寂しさを際立たせていた。
アイリスは、資材の運搬を手伝いながら、小さく息をついた。
視界の端には、常にルイがいた。彼もいつも通りテキパキと動き、周囲の生徒と当たり障りのない会話をしていたが、アイリスは少しだけ違和感を感じていた。
今日の彼は、どこか「薄い」。
笑顔の形は完璧なのに、そこに感情の実体が伴っていないような、危うい均衡の上に立っている気がした。
「おい、そこの」
不意に、刺のある声が降ってきた。
資材置き場の裏手、人目の少ない場所だ。アイリスとルイが足を止めると、そこには三人の男子生徒が立っていた。
制服の着こなしや、胸につけた家紋のピンから、高位貴族の子息たちだと分かる。上級生だ。
「アイリス・ヴァレリアだな」
中心にいた大柄な男子生徒が、値踏みするような視線を向けてくる。好意的なものではない。粘着質な、明らかな敵意。
「……はい、そうですが」
アイリスは資材を抱えたまま、努めて冷静に応じた。
彼らの苛立ちの理由は、なんとなく察しがついた。今回の学園祭、アイリスたちのクラスの出し物は評判が良く、結果として上級生の出し物よりも人を集めてしまったのだ。面目を潰されたと感じる者がいても不思議ではない。
「調子に乗るのもいい加減にしろよ。侯爵令嬢だか何だか知らんが、商売人の真似事など……ヴァレリア侯爵家の品位が疑われる」
理不尽な言いがかりだった。
アイリスは冷静に考える。ここで言い返して騒ぎになれば、自分以外のクラスメイトたちにも迷惑がかかる。何より、相手は上級生であり、実家同士の繋がりも考慮しなければならない。もちろん、魔法で追い払うことなど論外だ。そして、アイリスは唇を引き結んだ。
彼女が沈黙を選んだことを「怯んだ」と解釈したのか、男たちは鼻で笑った。
「なんだ、噂ほどの覇気はないな」
「所詮は女子供か。……おい、それより」
男の視線が、アイリスの斜め後ろに控えていたルイへと滑る。
「その薄気味悪いのはなんだ? お前の従者か?」
ルイは表情一つ変えなかった。
ただ静かに、恭しく頭を下げる。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。ですが、私はただの従者ですので、お気になさらず」
その態度は完璧な下僕のものだった。
自分を「物」のように扱い、相手の優越感を満たすことでその場をやり過ごす処世術。男はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「ふん。どこの馬の骨とも知れん平民だとは聞いていたが……なるほど、貧相な犬だ」
「…………」
「見た目はマシだが、育ちの悪さが臭うな。野良犬は野良犬らしく、地面を這っていればいい」
罵倒は続く。
けれど、ルイは平然としていた。あるいは、心が麻痺しているようだった。投げつけられる汚い言葉など、彼にとっては、ただの雑音に過ぎない。人形のような笑顔を貼り付けたまま、嵐が過ぎ去るのを待っている。
そんなルイの態度が、逆に男の癇に障ったらしい。
男は舌打ちをすると、再びアイリスへと向き直った。
「こんな気味の悪い人形を連れ歩いているとはな、まさか顔が好みなのか。とんだ阿婆擦れだな」
空気が、変わった。
「ちやほやされて勘違いしているようだが、お前のような変わり者に淑女の手本が務まるものか。精々、その薄汚い従者とお似合いの……」
――ピクリ、と。ルイの指先が跳ねた。
「……なんだと?」
低く、地を這うような声。
それは、先ほどまでの恭しい従者の声ではなかった。
男たちが怪訝な顔をする間もなく、気温が急激に下がった。
夕日の赤が、色褪せる。
いや、違う。物理的に光が遮られているのだ。
「ルイ……?」
アイリスが息を呑む。
ルイの足元から、黒い影が滲み出していた。それは液体のようでもあり、煙のようでもあった。ゆらゆらと鎌首をもたげた影が、ルイの背後に不気味な輪郭を描き出す。
ルイは笑っていなかった。
人形のような笑顔は剥がれ落ち、そこにあるのは、底のない虚無と、凍てつくような殺意だけ。
瞳から光が消えている。ハイライトのない漆黒の瞳が、男たちを「排除すべき障害物」として捉えていた。
「今、なんと言いましたか」
一歩、ルイが踏み出す。
それだけで、ビリビリと肌を刺すような重圧が場を支配した。魔力ではない。もっと原始的で、禍々しい何か。
「ひッ……!?」
男たちが後ずさる。それが“何を意味するか”を、魔法を尊ぶこの世界の人間なら、誰もが本能的に理解していた。
その魔力の色は、歴史の中で忌み嫌われ、破壊と混迷の象徴として語り継がれていた。
男たちの本能が警鐘を鳴らしていた。目の前にいるのは、ただの従者ではない。猛獣だ。鎖の外れた、飢えた獣だ。
「僕のことはいい。いくらでも罵ればいい」
ルイの周囲で、影が棘のように鋭く変形する。
制御が効いていない。彼の内側で溜め込まれていたドロドロとした劣等感と激情が、魔力と混ざり合って暴走を始めていた。
「お嬢様を愚弄することは、許さない」
その明確な意思が、形となって顕現する。
影が男たちの喉元へ伸びようとした、その時だった。
「ルイ!!」
アイリスは反射的に動いていた。
抱えていた資材を放り出し、殺意に染まったルイの右手首を、両手で強く握りしめる。氷のように冷たい肌。震えているのは怒りからか、それとも恐怖からか。
「……っ、離して、ください。こいつらは、あなたを……!」
「だめよ、ルイ!」
アイリスは、冷たくなった彼の手を、さらに強く握った。
「大丈夫。私は怒ってない。平気だから!」
真正面から彼を見据え、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。その声は、春の日差しのように温かく、凛としていた。
ルイの瞳が揺れる。漆黒の奥に、わずかに理性の光が戻る。
――その、緊張を、空気を。
「やれやれ」
場違いなほどに気の抜けた、平坦な声が真っ二つに割った。




