第17話 そういう選択も、嫌いじゃないよ
学園祭は、三日目――最終日を迎えていた。
朝から人の流れが途切れない。初日よりも、二日目よりも、校内ははっきりと“熱”を帯びている。
「今日で終わりかぁ……」
誰かの名残惜しそうな声が、喧騒の向こうから聞こえてくる。昨日までの純粋な賑わいに、終わりを惜しむ焦燥が混じり始めていた。楽しみきらなければ損をする、そんな切実な空気が学園を支配している。
「いらっしゃいませー!」
アイリスは、猫耳喫茶店のカウンターに立っていた。
耳のカチューシャは、もうすっかり馴染んでいる。三日目ともなれば、恥ずかしさはとうに消えていた。
次々と入る注文。笑顔で行き交う生徒たち。昨日よりも、どこか必死だ。――今日で終わるから。
はじめての学園祭としては、完璧な空気だった。可愛い出し物。賑やかな声。浮ついた恋の話。
忙しさに追われていると、時間の感覚が薄れる。気づけばカウンターは満席で、順番待ちの列もできていた。クラスメイトたちは声を掛け合いながら、自然と役割を回していた。
ふと、通路の向こうで楽しそうに写真を撮り合う生徒たちが目に入った。
「ねえ、最後だし撮ろうよ!」
「二人で回った記念に、ほら!」
弾けるような笑い声。親密に腕を引き合う仕草。
その華やかな輪の外で、ルイは一歩下がって静かに立っていた。手伝いが必要になればコンマ一秒で動ける位置。けれど、生徒たちの輪には決して入ろうとしない。
(……従者だから、かな)
そう考えて、アイリスの胸の奥がわずかにちくりとした。分かっている。身分としての正しい境界線があることも、彼が自ら線を引く理由も。けれど、楽しい場所であればあるほど、その「混ざれない距離」が残酷なほどくっきりと浮かび上がってしまう。
アイリスは注文票を手に取りながら、もう一度だけ、ルイの背中を見た。変わらず、真っ直ぐで、静かで。――少しだけ、遠かった。
昼を過ぎると、客足は少しだけ落ち着いた。
「今なら、交代できそうだね」
「じゃあ、次のシフトお願い!」
クラスメイト同士のやり取りが軽やかに飛び交う。その流れで、自然と話題も緩み、私情が混じり始める。
「ねえ、誰と回るの?」
聞き慣れた、学園祭特有の会話。
「アイリスは決まっているよね」
クラスメイトのひとりが、ふと笑いながら言った。
「あの黒猫くんでしょ」
「……黒猫?」
少し考えて、アイリスはそれがルイを指しているのだと気づく。
「ルイのこと?」
「だって、ずっと一緒にいるでしょ」
悪気のない、純粋な好奇心。決めつけでも探りでもないその言葉に、アイリスはいつものように曖昧な笑みを浮かべた。
「従者だもの。仕事で一緒にいるだけよ」
言葉は軽い。いつも通りの調子。近くて遠い位置、ルイも同じように頷いた。
「……はい。従者としての務めです」
近くて遠い位置で、ルイも同じように頷く。完璧な従者の顔だ。けれど、その声はどこか、自分自身に言い聞かせるように硬かった。
――これでいい。これが正しい。
ルイは内心で何度も反芻する。
クラスメイトたちの「安心するよね」「真面目だもんね」という無邪気な評価が、今の彼には少しだけ重たかった。
期待される「理想の従者」であらねばならないという義務感と、アイリスの隣に立つ資格なんて自分にはないのだという劣等感。その二つが、胸の中で軋み音を立てていた。
彼女の周囲には、常に人が溢れていた。王族の気配、名家の子息たち。それぞれが、それぞれの身分に見合った自然な距離で輪を作っている。彼女を守る守護は、すでに十分すぎるほど整っているように見えた。
ルイは、無意識に半歩下がった。アイリスの隣という特等席から自ら距離を取り、壁際の影に身を寄せる。
誰かに促されたわけではない。叱責されたわけでもない。ただ、そうしたほうが「正しい」と、彼の本能が告げたからだ。従者として、これ以上前に出る場面ではない。そう、自分で判断しただけだった。
学園祭は相変わらず賑やかで、華やかな音楽が途切れることなく流れている。焼き菓子の甘い匂い。果実酒の芳醇な香り。
――その中で。ふと、視界の端に入ったものがあった。人混みの中、一人の男が手にしていた小さな瓶。それを見た瞬間、ルイの胸の奥が、嫌な音を立てて跳ねた。
あれはただの飲み物だ。分かっている。記憶の中にある「それ」とは違う。けれど、過去の断片が、制御を失って勝手に浮かび上がる。
荒れた怒声。重たい、獣のような息遣い。濁った、暴力的な視線。喉の奥が、わずかに詰まる。
必死に呼吸を整えようとするが、心臓の早鐘が止まらない。十五歳の少年が抱えるにはあまりに重い、生理的な嫌悪と恐怖。
視線の先では、アイリスが楽しそうに笑っている。あまりにも無防備で、光に満ちた姿。
その光が強ければ強いほど、自分の足元に広がる影が濃くなっていくようで、ルイは吐き気を覚えた。
「……顔、暗いね」
背後から、軽い声。振り返らなくても分かる。ロイド・ウィステリアだ。
「何か、御用でしょうか。ウィステリア様」
従者として磨き上げた声。感情を一切削ぎ落とした、いつもの調子。
「さあ」
ロイドは肩をすくめ、ルイの隣の壁に背を預けた。彼はルイの顔を覗き込むこともせず、ただぼんやりと虚空を眺めている。
「でも、君が今、選んでる場所は――たぶん、苦しいよ」
ロイドの視線が、ルイの握りしめた拳を一瞬だけ掠める。その視線に、ルイの心臓が大きく跳ねた。みっともない動揺の全てを見透かされている気がした。
「……何の話ですか」
「さあね」
警戒して睨みつけるルイに対し、ロイドは曖昧に笑った。
「今はまだ、分からなくていいと思うよ」
風が吹き、屋台の匂いが流れていく。学園祭の音が、また近づいた。
「それでも」
ロイドは、隣に並ぶことはせず、少し距離を保ったまま続ける。
「君は、そこを選ぶんだね」
ルイは答えなかった。答えられなかった。選んでいるつもりは、なかったからだ。ただ、そうするしかないと感じただけだった。
「……そういう選択も」
ロイドの声は、冷たさの中に不思議な柔らかさを孕んでいた。
「僕は、嫌いじゃないよ」
からかいでも、慰めでもない。評価に近い響き。ルイは眉を寄せる。
「……意味が、分かりません」
「だろうね」
あっさりとそう言い残し、ロイドは人混みの中へ戻っていった。ルイは、しばらくその背中を見送る。理解できない。繋がらない。
それでも――胸の奥に、冷たい予感だけが、静かに沈んでいった。




