第16話 選ばれる立場
学園祭二日目は、昨日とは比べものにならないほどの喧騒に包まれていた。
校門から中庭へと続く石畳は、色とりどりの衣装を纏った生徒だけでなく、視察に訪れた貴族、着飾った保護者、そしてその関係者たちで埋め尽くされている。
「……昨日より、賑やかだね」
アイリスは、友人たちと肩を並べて歩きながら、圧倒されるように呟いた。
四方から押し寄せる笑い声、呼び込みの叫び、軽快な音楽。すべてが巨大なうねりとなって、空気そのものを熱く、重く振動させている。
「一般公開日だもん」
「午後からも覚悟しなきゃね」
友人の声に頷きながら、ふと中庭の大きな噴水の向こう側に視線を投げた、その時だった。
「……あれ?」
人混みの向こうに、見覚えのある後ろ姿が見えた。くすみ栗色の髪。首元でぱつんと切り揃えた、直毛のボブカット。懐かしくて、でも今の学園には少しだけ浮く装い。
「もしかして……」
呼びかけようとした瞬間、その女性が弾けるような動きで振り返った。
「アイリス! 久しぶり! 探し回ったわよ」
「やっぱり! ローズ姉さん!」
アイリスの声が弾む。彼女――ローズは、ヴァレリア侯爵家の分家の娘で、アイリスにとっては三歳年上の従姉妹に当たる人物だった。数ヶ月前に結婚したばかりの新妻でもある。
ローズは再会を喜ぶなり、アイリスをぎゅっと抱きしめた。
「すごいわね、今の学園祭って。こんなに生命力に溢れているの?」
彼女の周囲だけ、空気が一段明るくなったような気がした。アイリスは内心で苦笑する。この人は昔から一筋縄ではいかない。何かの「狙い」があってここに来たのだと察し、友人たちに目配せをして別れると、ローズは人の流れから外れた静かな木陰へとアイリスを連れ出した。
そして、獲物を狙うような目で、にやりと笑った。
「お婿さん候補は決まった?」
「いきなり!」
あまりに直球な問いに、アイリスの声が裏返る。
「だってこの空気よ? 祭りの高揚感、若さ、そして将来有望な令息たちの群れ。恋が生まれない方がおかしいわ。好きな人の一人や二人、あるいはキープの三、四人くらいいてもいいじゃない」
ローズは心底もったいなさそうに肩をすくめた。
「もったいないわね。あなた、黙ってれば本当にモテる顔をしてるのに」
「“黙ってれば”は余計です!」
「中身がねぇ、ちょっとね」
「やめてください!」
軽口を叩き合って笑う二人。だが、不意にローズが指を一本立てた。
「でもね、アイリス。これは忠告よ」
若葉色の瞳が、真っ直ぐにアイリスを捉える。先ほどまでの冗談めかした雰囲気は消え、そこには酸いも甘いも噛み分けた「貴族の女」の真剣な表情があった。
「どんなに人柄が良くても、長男だけはダメよ。絶対にね」
「……なんですか、急に」
「確実に幸せを狙うなら、次男か三男を選びなさい!」
周囲の喧騒を掻き消さんばかりの、力強い断言。
「長男は背負うものが多すぎるの。責任感は立派だけど、本音を言えば面倒くさいことばかりよ。姑問題に跡継ぎ問題、親戚付き合い……死ぬまで揉め続けるわ」
「偏見がすごすぎます!」
「経験談よ、経験談。私が今どれだけ苦労してると思ってるの」
そう語るローズの言葉には、重い説得力が宿っていた。彼女の嫁ぎ先は裕福な男爵家の長男。その裏側にある苦労を、彼女は笑い飛ばしながらも身を以て知っているのだ。
だが、ローズは再び声を落とし、アイリスの耳元で囁くように言った。
「それにね……家のことも、考えなきゃいけないわ」
「家……?」
「ヴァレリア侯爵家のことよ」
華やかな祭りの場で出るには、あまりに生々しく、冷酷な響きを持つ単語だった。
「私の弟はねぇ……おすすめしないわ」
「ちょっと!」
「お金にだらしないもの」
アイリスと同い年、ローズの弟に対しての言葉。いつだって姉の一言は容赦ない。
「……弟。……あなたの従兄弟は、お金にだらしないでしょう? 正直、ヴァレリアの家督をあの子に継がせたいとは、親族の誰も思っていないわ」
アイリスは言葉を失う。それは、親族間での公然の秘密であり、最大の懸念事項だった。
「だからこそ、あなたが『誰を連れてくるか』が、この家の未来を左右するの。あなたには、家を支えられるだけの力と資産を持った、相応しい相手が必要なのよ」
責める口調ではない。ただ、逃れられない現実を淡々と並べているだけ。誰と結婚し、誰を婿に迎え、どうやってこの巨大な家門を守るのか。
アイリスにはその選択肢が、当然の前提として置かれる。アイリスはヴァレリア侯爵、本家の大切な一人娘だった。
「……まだ、考えてません」
「そうでしょうね、でも、考えなさい」
二人の間に流れる空気が、ずしりと重くなった。その沈黙を破ったのは、ローズの唐突な「あ!」という声だった。
「ちょっと待って、あれ美味しそうじゃない!」
彼女が指差したのは、あの悪名高き魔法陣研究同好会の屋台。魔法陣で温度管理を徹底した鉄板で焼かれるワッフルだ。なお、その魔法陣が、どれ程安全なものかはわからない。
「……話の途中でしたよね」
「いいのよ、それはそれ! 食べましょう!」
半ば強引に二つのワッフルが買われ、一つがアイリスの手に押し付けられた。恐る恐る、一口かじると、たっぷりのクリームと甘酸っぱい果実の香りが、重苦しい思考を無理やり塗りつぶしていく。
「……美味しい」
「でしょ? こういうのが祭りの醍醐味よ。楽しまなきゃ損だわ」
ローズの底抜けの明るさと、圧倒的な切り替えの速さ。アイリスは昔から、この強引な優しさに何度も救われてきた。
ワッフルを頬張りながら、ローズが首を傾げた。
「ところで、あなたのクラスは何をやってるの?」
「……猫耳喫茶です」
「――それを早く言いなさいよ!!」
ローズは目を輝かせ、アイリスの肩を掴んで揺さぶった。
「なにそれ、最高じゃない! 案内しなさい、今すぐに!」
賑やかな足音を響かせ、アイリスの後ろを歩きながら、ローズは周囲の状況を鋭く観察していた。その視線は、アイリスの数歩後ろに控えているルイにも向けられる。
ローズはアイリスにだけ聞こえるような声で、けれどはっきりと、無慈避な「答え」を口にした。
「アイリス、あの従者くんは違うわよね?」
アイリスの隣で、ルイの背筋がわずかに強張った。
「だめよ、ああいう子は“支える側”の人間だもの。あなたに必要なのは、ヴァレリアを共に背負える男よ」
笑いながら言われた、その一言。彼女に悪意はない。誰かを貶めるつもりも、傷つけるつもりもない。ただ、この世界の「当たり前の理」を、呼吸をするように口にしただけだ。
支える側。守る側。付き従う側。決して、共に並び立ち、「選ぶ側」に回ることはない存在。
「ローズ姉さん、そんな言い方はやめて……ルイは……」
「家族みたいなもの、でしょう? 分かってるわよ」
ローズはあっけらかんと笑い飛ばした。
「優秀な従者は手放しちゃダメ。でも、混同しちゃダメ。……それが、貴族としての『線引き』よ」
遠くで響く屋台の呼び声。誰かの歓声。
その中で、ルイは一言も発しなかった。表情一つ動かさず、ただ静かに、そこにある石像のように控えていた。
従者として、完璧に自然な距離。立ち位置として、これ以上なく正しい場所。けれど、アイリスの背後で、ローズの放った言葉たちが、鉛のような重さでルイの心臓に沈み込んでいく。
「侯爵」「家督」「結婚」
それらは、誰かに向けて投げられた言葉ではない。ただ、当然の前提として、並べられただけの単語だ。
無意識に、視線が落ちる。拾われた存在。居場所を与えられただけの存在。その血も、身分も、過去も。「選ばれる立場」ではない。
どれだけ綺麗な服を着ても、どれだけ完璧な所作を身につけても。この身に染み付いた「持たざる者」の匂いは、消えはしないのだ。
それは、ずっと前から分かっていた。分かっているからこそ、何も言えない。口を開く資格が、最初からない。
雑踏の中で、アイリスの笑い声が聞こえた。屈託のない、鈴を転がすような明るい声。その声を聞いた瞬間、ルイはとっさに自身の胸元を強く握りしめた。
(……駄目だ)
この惨めな気持ちだけは。
この醜い劣等感だけは、あの方に絶対に知られてはいけない。
彼女の瞳に映る僕は、いつだって「頼もしくて、綺麗なルイ」でなければならないのだ。
ルイは深く息を吸い込み、胸の奥で暴れる黒い感情に、分厚い蓋をした。そして、瞳の奥から、弱さと甘えを消し去る。
必要なのは、忠実な従者の色と、決して誰にも触れさせないという、冷たく研ぎ澄まされた覚悟だけ。
ルイはまた、完璧な仮面を貼り付け「お嬢様」と、優しく笑いかける。けれど、その微笑みの奥にある本当の心には、何人たりとも触れられないよう、固く鍵がかけられていた。
学園祭のざわめき中で、その静かな線引きに、気づく者はいなかった。




