第13話 夏休み明け、恋は情報戦
夏休み明け、それだけのはずなのに、学園の空気はどこか違っていた。
朝の風は水分を失って乾いており、見上げる空は抜けるように高い。久しぶりに袖を通した制服は、指先にほんの少しだけ肌寒さを教える。
(……ああ、もう秋なんだ)
校門をくぐりながら、アイリスはそう思う。夏休みが終われば、色々なものが元に戻る。生活のリズムも、人との距離も。――少なくとも、そう思っていた。だが、その淡い期待は、登校してわずか数分で裏切られることになる。
「ねえ、アイリス!」
背後から聞き慣れた声に呼ばれて振り返ると、そこには友人たちが揃っていた。
「久しぶり!課題、終わった?」
「……なんとか」
「え、ほんとに!?」
「夏休み最終日まで泣いてると思ってた」
「失礼ね」
アイリスが苦笑しながら答えると、友人たちは大げさに拍手喝采を送った。
「やればできるじゃない!奇跡?」
「根性よ、根性。ヴァレリア家の家訓に『締め切りは命より重い』って付け足したいくらいだわ」
胸を張って答えると、周囲に明るい笑い声が弾ける。
この感じ。他愛のない軽口と、遠慮のない距離。自分が自分でいられる場所。そんなやり取りをしながら廊下を進んでいたアイリスだったが、ふと視界に入った光景に、その足が止まった。
中庭のベンチ。上級生らしい男女が、肩が触れ合うほどの距離で座り、睦まじく話し込んでいる。さらにその先、回廊の陰では、繋いでいた手を慌てて離し、顔を赤らめて走り去る二人の姿。
「……ねえ」
友人の一人が、声を潜めてアイリスの肩を叩いた。
「増えているよね」
「え?やっぱりそう思う?」
「ほら、あそこも。あっちの噴水前も。前はあんなにベタベタしてなかったわよ」
見渡せば、確かに学園全体の「密度」が変わっていた。
「なんか、空気が浮ついてるよね」
友人たちは楽しそうに笑う。
「分かる分かる」
「この感じ、来たな〜って思う」
言われてみれば、確かにそうだ。人の距離が近い。視線が多い。学園全体が、理由もなくそわそわしている。
「そりゃそうでしょ」
別の友人が、したり顔で言った。
「もうすぐ学園祭だもん、この時期はこうなるんだって」
「この時期?」
「私のお姉さんも言ってた」
「私も先輩から聞いたし」
そこで、人差し指を立てる。
「……この時期はね」
一拍。
「情報戦なのよ!」
「情報戦?」
「誰と組むか」、「誰が狙ってるか」、「誰がフリーか」
指を折りながら力説する。
「戦場って……そんな大げさな」
「甘いわ、アイリス!」
びしっと指を向けられ、アイリスは引き気味に苦笑した。
「学園祭は恋の戦場なんだから
絶対にパートナー見つけて、嫁ぎ先を決めるのよ」
勢いに押されて、アイリスは苦笑した。
(学園祭って、そんな行事だったっけ)
不意に、友人たちの鋭い視線がアイリスに集中した。
「で、アイリスはどうなのよ?」
「黙ってれば可愛いし、家柄もいいんだから、狙ってる男子は多いはずよ」
「中身が『根性論』なのがバレる前に、誰か捕まえちゃいなさいよ」
「ちょっと、そこ!中身も立派なレディですぅ!」
即座に突っ込むと、再び笑い声が上がる。
「でもさ、実際告白とかされてるでしょ? 一学期も何人かいたじゃない」
「……まあ、あるにはあるけど。私は……まだいいかな」
「もったいなーい!贅沢病よ!」
友人たちと騒ぎながら、アイリスはふと心の中で自嘲した。恋をしなきゃいけない理由なんて、本当は、山ほどある。
(恋をしないと、死んじゃう、とか)
そんな冗談みたいな真実を、誰にも言えるわけがない。神様の、あの軽いノリの宣告を思い出して、内心でため息をつく。
少なくとも、今は。友人たちはそんな事情を知らず、楽しそうに話を続ける。
「ま、学園祭始まったら変わるかもよ」
「一気に来るから」
「来るって、なにが」
「恋が!」
「……こわ」
そう言いながら、どこか他人事ではない気もしていた。
そんな喧騒を抜け、教室へ向かっていると、廊下の向こうから見慣れた黒髪の少年が歩いてくるのが見えた。
ルイだった。
夏休みの間、屋敷で毎日のように顔を合わせていた。だから、久しぶりという感覚はないはずなのに――学園の制服に身を包み、背筋を正して歩く彼の姿は、どこか遠い存在のように感じられた。
「お嬢様」
いつも通りの、非の打ち所がない礼儀正しい挨拶。
「あら、ルイ」
それだけで済むはずだった。だが、周囲の友人たちの空気が一変した。ひそひそという耳打ちがさざ波のように広がる。
「……ねえ、アイリスの従者……あんなに整ってたっけ?」
「夏休みの間に、なんか色気が増してない?」
友人たちの視線がルイに突き刺さる。アイリスは思わず彼の前に一歩踏み出し、友人たちを遮った。
「ちょっと、変な目で見ないで、あの子は私の……あの子はダメなの!」
少しだけ、言葉に詰まった。私の、従者。そう言えばいいだけなのに、なぜか独占欲めいた感情が邪魔をした。
アイリスを囲む友人たちを見ながら、ルイは、困ったような、けれど嬉しそうな笑みを浮かべて一歩下がった。
「恐れ入ります。……ですが、僕は、お嬢様だけの従者ですので……」
涼しい顔で言うルイに、周囲の女子生徒たちが「キャーッ、今の聞いた?」と色めき立つ。
伏せた睫毛の陰に、隠した、静かな熱。その言葉は、完璧な従者としての模範解答でありながら、アイリスにだけ伝わる「約束」のようにも響いた。
屋敷で共有した時間。秘密の看病。それらが、この公の場でも密かに繋がっているような心地よさがある。
「……もう。調子いいんだから」
アイリスが照れ隠しに唇を尖らせた。その時だった。
「……ヴァレリア」
低く、重厚な声が廊下に響いた。
振り返ると、柱の影に腕を組んで立つ、眩い金髪の少年。ギルバート・ラカル・ルクレールだった。
彼は周囲の視線を意識してか、いつにも増して威厳ある王族としての表情を作っていた。
「ギルバート様」
アイリスも反射的に姿勢を正す。周囲にこれだけ人がいる以上、中庭での「ギル」という呼び方は封印しなければならない。それがマナーであり、正解だ。
「……夏の間も体調は問題ないのか」
ギルバートはルイに一瞥もくれず、アイリスだけに問いかけた。その声音は硬いが、瞳の奥には隠しきれない懸念が滲んでいる。
「はい。見ての通り元通りです。ご心配をおかけしました、殿下」
形式ばった、冷たいほどに正しいやり取り。ギルバートもそれを承知している。……だが、彼が立ち去ろうとした、その間際だった。
「……無理はするなよ。アイリス」
ぽつりと、掠れるような声で、彼は彼女の名を呼んだ。それは、人前であることを忘れたのか、あるいは無意識の独り言だったのか。
「……え?」
「今、なんて……?」
背後の友人たち、そして周囲を行き交う生徒たちの動きが止まった。
「名前、呼んだわよね? 殿下が今」
「アイリスって……呼び捨て?」
一気に廊下の熱が上がる。ギルバートは自分の失態に気づいたのか、耳まで真っ赤にして、即座に視線を逸らした。
「……では。失礼する」
彼はそれ以上何も言わず、逃げるようにその場を去った。明確な撤退。だが、残された波紋はあまりにも大きすぎた。
「ちょっと、アイリス!殿下とどういう関係なのよ」
「違う、誤解だから、たぶん空耳!」
友人たちに詰め寄られ、アイリスは顔を火照らせて叫んだ。
「ああもう! ちょっと、お花摘みに行ってくるわ!」
彼女はルイに「後でね!」とだけ告げ、逃げ出すように廊下を駆け抜けた。
心臓の鼓動がうるさい。曲がり角を抜け、人影のまばらな実験棟付近まで来たところで、アイリスは膝をついて息を整えた。
「なんで……あんなタイミングで呼ぶのよ、あのバカ王子……」
「やっぱり、ここに来た」
頭上から降ってきた軽やかな声。顔を上げると、窓辺に寄りかかり、午後の光を背負った藤色の髪の少年がいた。
ロイド・ウィステリアだ。
「……見ていたんですか」
「学園中の噂になるのは、時間の問題だね」
「最低です、ロイド様……」
アイリスが恨みがましく睨むと、ロイドは楽しそうにクスクスと笑った。彼は一歩、アイリスの方へ歩み寄る。
「でも、偉いね。ちゃんと人前での距離感を守ろうとしてて。……まあ、あっちが自爆しちゃったけど」
「笑い事じゃないんです……」
「僕は気にしないけど、王族って噂に巻き込まれると面倒だから。君も、彼も、あの子も」
ロイドの言葉が、妙に重く響いた。彼は窓の外、学園祭の準備に浮き足立つ生徒たちを眺めながら、独り言のように続ける。
「噂も、感情も、全部膨らむ」
「……不吉なこと言わないでください」
「不吉?そんなことないよ」
彼は穏やかな笑みを浮かべながら続ける。
「賑やかで、楽しくて……壊れやすいだけ」
その言い方が、妙に引っかかった。
「……ロイド様、あなた楽しんでるでしょ」
「いいや、面白い、かな?」
即答したロイドに、アイリスは力なく息を吐いた。
「やっぱり、最低」
「あはは。褒め言葉として受け取っておくよ」
ルイ。ギルバート。そして、この掴みどころのないロイド。三人との距離が、それぞれ違う形で、静かに、けれど確実に動き始めていた。
アイリスは制服の袖を整え、再び騒がしい廊下へと向き直った。
秋はまだ、始まったばかり。
そしてこの学園祭は――きっと、彼女の大切な「日常」を、変化させていく。




