第12話 抑えられていたものが、動いた夏
夜は、昼よりもずっと静かだった。
屋敷は深い闇に沈み、廊下を渡る風の音さえ、今のルイには遠い国の出来事のように感じられた。
ルイは、灯りを落とした自室で横になったまま、目を閉じていた。眠っているわけではない。起き上がるほどの力が、ないだけだ。抑制剤は効いている。熱も、眩暈も、表に出るほどではない。それでも、身体の奥に残る重さだけが、消えなかった。
「……お水、置いておくね」
暗闇の中に、アイリスの声が柔らかく溶け込んできた。
グラスが卓上に置かれる、コツンという小さな気配。それだけで、氷のように冷え切っていたルイの胸が、わずかに緩んだ。
「……すみません」
「夏風邪かな、しょうがないよ」
「……すみません、お嬢様。こんな夜更けに」
アイリスは深く踏み込まず、いつもの調子で頷いた。彼女は心配しているが、ルイが隠している「真実」を問い詰めようとはしない。
「ちゃんと寝て休んだら、きっと治るよ」
それは、ただの楽観的な言葉だった。
けれど今のルイにとっては、どんな高度な治癒魔法よりも、その「日常の延長」にある言葉が必要だった。
「……少し、休めてないだけだと思います」
声に出すと、喉の奥の苦い塊が少しだけ解けていく気がした。
「まかせて。看病は得意なの」
アイリスが立ち上がろうとする気配がした。彼女の温かな光が、この部屋から去ろうとしている。――その瞬間。
ルイの指先が、無意識に動いた。掴み止めるほどではない。ただ、アイリスの袖に、すがるように触れるだけの動き。
「……」
自分でも、何をしているのか分からなかった。アイリスが、驚いたように足を止める。
「……どうしたの?」
「……いえ、その」
すぐに手を引く。触れていた感覚だけが、熱を持って残った。
「……少しだけ、ここに」
理由は、言わなかった。言えなかった、のかもしれない。アイリスは一瞬だけ瞳を瞬かせ、それから頷いた。
「うん、じゃあ、もうちょっとだけ」
彼女が再び腰掛ける音がする。すぐ傍に、彼女という存在の熱が落ち着く。それだけで、乱れていた呼吸が驚くほど滑らかに整っていくのが分かった。
――離れてほしくなかった、とは思わなかった。ただ、この距離が、今は必要だった。
ルイは目を閉じる。それが「甘え」だと気づくほど、彼はまだ追い詰められていなかった。
夏休みの終わりは、いつも曖昧だった。
朝夕の風は軽くなり、昼間の暑さもどこか執着を失った惰性のようなものに変わっていた。
ルイの体調は、その頃には見違えるほど落ち着いているように見えた。不自然な熱も眩暈も、もはや表に出ることはない。それが抑制剤の影響なのか、一時的に波が引いただけなのか――その違いを、ルイ自身は考えないようにしていた。
午後の日差しが差し込む部屋で、アイリスは机に向かっていた。広げられているのは、夏休みの課題。紙の上には、途中で止まった魔法陣の図がいくつも描かれている。
「……ここ、どうしても分からない」
困ったように眉を寄せて、彼女が顔を上げる。魔法陣関連は苦手だと、隠すことなく言う声音だった。
ルイは、その横に立ったまま図面を覗き込む。説明は簡潔で、手振りも必要最低限。指先で線をなぞりながら、どこが噛み合っていないのかを示す。
「ここを少し変えれば、流れは安定します」
「……あ、本当だ」
アイリスは素直に感心して、ふっと笑った。その笑顔が近い。物理的な距離というより、頼ることを前提にした近さだった。
ルイは気づかないふりをした。あるいは、気づく必要がないと思っていた。
説明を終えると、彼は一歩引く。従者としての距離に戻る――はずだったが、アイリスはそのまま椅子に座ったまま、彼を見上げていた。
「助かった。ありがとう」
それだけの言葉。けれど、その場に留める力としては十分だった。
(……大丈夫だ。何も、問題はない)
根拠など要らなかった。こうして彼女と穏やかに話し、隣に立っていられる。それだけで、世界が正しい場所に戻ったのだと信じ込めた。
アイリスは再びペンを走らせ始めた。時折、課題を確認するようにこちらを見てくる。そのたびに、ルイは丁寧に言葉を返した。
「……ルイって、本当に頼りになるわよね」
ぽつりと零されたその言葉に、ルイの手が一瞬だけ止まった。
「……今さらですか」
「ええ、今さらよ。改めて、そう思ったの」
楽しそうに笑うアイリス。ルイもそれにつられるように、微かに口元を緩めた。
「これからも、一緒にいてね」
その言葉は魔法のようで、呪いでもあった。
この安らぎが、薬によって生み出された虚構の上に立っているとしても。
(……ああ。これでいい)
日常は戻った。
窓の外では、夕方の涼やかな風が木々を揺らしている。夏は、静かに終わりに向かっていた。
このまま学園に戻れば、きっとすべてが元通りになる。
ルイは、その甘美な考えを疑わなかった。この“楽さ”が、嵐の前の静けさに過ぎないことに気づくには、彼はあまりにも、穏やかで優しい場所に浸かりすぎていた。
平穏を崩さないための、先回りが、かえって距離を詰めてすぎてしまうとも知らずに。




