第11話 その答えは、貴方らしいね
夏休みの半分が過ぎた、ある日のこと。
侯爵家に帰省し、午前中は庭の木陰で読書、午後は冷えた果実を頬張るという、絵に描いたようなのんびりとした時間を過ごしていたアイリスは、ふと自室の机の上を見て――その場で凍りついた。
「……あ」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。数秒の空白のあと、静まり返った屋敷に彼女の悲鳴が響き渡った。
「課題、完全に忘れていた」
それは、長期休暇の序盤に片付けるはずだった魔導力学のレポートだった。あれは文献を読み込み、複雑な計算式を幾重にも積み上げなければならない、学園屈指の「時間がかかる」難問だ。今すぐ、一分一秒を惜しんで取り掛からなければ、休暇明けの地獄が確定する。
「なんで今、このタイミングで思い出すのよ」
ぶつぶつと自分を罵りながら、慌てて鞄に筆記用具を詰め込む。幸い、必要な資料のいくつかは教室に置いたままだ。明日取りに行く?いいえ、そんな猶予は一秒もない。
窓の外は、夏真っ盛りの暴力的な青空。
立ち上る入道雲と、肌を灼くような容赦ない日差し。アイリスは「すぐ戻るわ!」と、誰にともなく叫んで屋敷を飛び出し、馬車を飛ばして学園へと向かった。
夏休みの学園は、奇妙なほどに静まり返っていた。
広大な回廊に、自分の足音だけが乾いた音を立てて響く。普段なら当たり前にあるはずの、生徒たちの喧騒や笑い声、重なり合う気配は、すべて陽炎の向こうへ消えてしまったかのようだ。
外はあれほど暑いのに、石造りの校舎の中はひんやりと冷えていて、どこか別の世界に迷い込んだような現実味のなさを感じさせる。
(……こんなに、静かだったっけ)
少しだけ背筋に走った寒気を振り払うように、アイリスは歩調を速める。
教室へ向かう途中、ふと視界の端――実験棟の最上階から、微かな、けれど規則的な光が漏れているのに気づいた。
(誰か、いるの?)
この時期、この時間に学園に居残る奇特な生徒がいるとは思っていなかった。アイリスの足は自然と吸い寄せられた。
重い扉をそっと開けると、そこには見慣れた、けれど今の季節には似つかわしくない藤色の影が揺れていた。
ロイド・ウィステリアだった。
彼は制服ではなく、涼しげな私服の上に純白の白衣を羽織り、長い藤色の髪を半分だけまとめ上げている。複雑な幾何学模様を描く実験器具に囲まれ、フラスコの液体を静かに見つめるその横顔は、普段の飄々とした彼より、ずっと大人びて、そしてどこか遠くに見えた。
「……ロイド様?」
思わず零れたアイリスの声に、ロイドはゆっくりと振り返った。そして、いつも通りの、柔らかい笑みを浮かべる。
「ああ、根っこちゃん」
まるで、ここで会うのが自然なように。アイリスはその自然すぎる呼びかけに、一瞬だけ毒気を抜かれた。
「夏休みなのに、珍しいですね」
「珍しいのは君だよ。僕はいつもここにいる」
さらっと言い切ったロイドは、アイリスの顔をじっと覗き込み、わずかに目を細めた。
「……元気そうでよかった。うん、本当に」
その「よかった」という響きが、なぜかアイリスの胸に妙な重さを持って引っかかった。
「どうしてですか」
「ううん」
ロイドは首を傾げ、さっきより少しだけ声を落とす。
「……あの子、大変そうだよね」
ドク、と。心臓が嫌な音を立てて跳ねた。あの子。それが誰なのか、言われなくても、分かってしまう。
「……ルイのこと?」
ロイドは肯定も否定もしない。ただ、優しい表情を崩さないまま、ふいと視線を窓の外の入道雲へと逸らした。
「君は、優しい」
ロイドは白衣の袖を整えながら、独り言のように続ける。
「世の中って、疲れるよね」
少し間を置いて。
「それに、抑え続けるのって疲れない?」
ふわりとした綿菓子のような口調。なのに、その言葉だけが針のようにアイリスの肌に突き刺さる。
「別に、悪いものじゃなくても、効いてるから正しい、とは限らない」
アイリスは、わずかに眉を寄せた。
「……それ、どういう意味なの?」
問い返しながら、自分でも分かるほど胸の奥がざわついている。
ロイドは曖昧に笑った。
「ただの感想。僕は、そういうの、あんまり気にならないから」
善悪でも、正義でもない。ただ、“そういうものもある”と受け入れている顔。その温度差が、胸の奥をざわつかせる。
「……貴方は、何を知ってるの」
「さあ」
肩をすくめる仕草は、相変わらず軽い。
「知らないほうが、楽なことだってあるしね」
その言い方はどこまでも優しく、守ろうとしているかのようだった。けれど同時に、はっきりと越えられない一線を引いていた。
「……私は、嫌」
アイリスは、ぽつりと、けれど明確に拒絶した。
「知らなくていいって言われるの、なんか嫌」
自分でも、うまく説明できない。ただ、胸の奥に残るもやっとした感覚が、はっきりと主張している。ロイドは一瞬だけ目を瞬かせて、それから、くすりと笑った。
「うん」
否定しない。
「それ、君らしい」
ロイドは少しだけ声のトーンを落とし、囁くように続けた。
「早く、自分の中で整理できたら、もう少し楽になるのにね」
それが誰のことか、ロイドは最後まで言わなかった。何が起きているのかも、はっきりとは示さなかった。アイリスは、彼の背中を見ながら、その底知れなさに震えた。優しくて、残酷で、寂しい。
「アイリスちゃん」
ロイドが、いつになく真剣な声で彼女の名を呼んだ。
「君は、ちゃんと選ぶといいよ」
選ぶ。何を。問い返そうとしたその瞬間、ロイドはいつもの飄々とした笑顔、アイリスの知る「変な同級生」に戻っていた。
「ところでさ」
くるりと白衣の裾を翻しながら、彼は扉を指差した。
「課題そのもの、忘れてたでしょ?」
一瞬で血の気が引き、アイリスは頭を抱えた。ロイドと問答している場合ではない。
「なんで分かったんですか!?」
「顔に書いてあったからね」
ロイドは楽しそうに笑って、軽く手を振る。
「夏休み中に終わるのかなぁ。まぁ、頑張って」
「完全に他人事だと思って!」
抗議の声を背中で聞き流しながら、ロイドは軽やかな足取りで廊下の向こうへ消えていった。
残されたアイリスは、静寂の中で、立ち尽くす。手にした鞄の重みよりも、先ほどロイドが残した言葉の断片が、重く、重く胸に沈んでいた。
アイリスは唇を噛み締め、教室へと走り出した。
この夏は、思っているよりも静かに、けれど確実に、彼女の大切な日常を塗り替えようとしていた。




