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第10話 夏の熱が、輪郭を崩しはじめる




「暑い……!」


 アイリスは人気の少ない中庭の、ひときわ深い木陰へと逃げ込み、制服の襟元をぱたぱたと手で扇いだ。侯爵令嬢としてはあまりに行儀が悪い振る舞いだが、誰も見ていないこの場所ならば問題ない。


 長い髪は、今朝ルイに頼んで高い位置でポニーテールにまとめてもらった。――はずだった。


 本格的な夏が来る前だというのに、湿気を含んだ風と滲む汗のせいで、癖のある彼女の髪は自由奔放にほどけかけている。結び目がじわじわと位置を下げ、襟足にまとわりつく感触がひどく煩わしい。


(これ、絶対あとで崩れるやつだ)


 そんな益体のない心配をしていた時、背後から冷や水を浴びせかけるような、低く、しかし心地よい響きの声が落ちてきた。


「……みっともないぞ」


 振り返らなくても分かる。この、涼しい顔で隙のない正論を吐く主が誰であるか。


「ギル、暑さに正解とか不正解とかあります?」

「ある。せめて髪くらいは常に整えておけ」

「これでも朝は完璧だったんですぅ!」


 頬を膨らませて抗議すると、ギルバートは「ふん」と鼻を鳴らして隣に立った。


 相変わらず彼は、酷暑の中でも王族としての矜持を保ち、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。直射日光を反射して首元の宝石が眩しく輝いた。眩しいのはその装飾品なのか、それとも、彼という存在そのものの輝きなのか。アイリスは一瞬、目を細める。


 例の「生乾き事件」や、倒れたアイリスを彼が抱き止めて運んだあの日以来、二人の距離感は、静かに変質していた。


 もちろん、他の生徒や教師の目が届く場所では、何も変わらない。誇り高き王族と、少し騒がしい侯爵令嬢。必要以上に言葉を交わさず、公的な線引きは厳格に保たれている。


 けれど――こうして、偶然が重なり二人きりになった瞬間、その境界線は霧のように薄れる。


 そこにはぶっきらぼうで気難しくて、けれど驚くほど不器用な、相応の十六歳の少年の顔があった。アイリスがうっかり砕けた口調で話しても、彼はもう咎めない。


 眉をひそめて距離を取り直すこともなく、ただ「……別に、お前の無作法には慣れた」と、ぶっきらぼうに受け流すだけ。それが、彼にとって特別であることに、アイリスはまだ気づいていなかった。


 ギルバートがふと、警戒するように周囲を見回した。


「……今日は、あいつを見かけないな」


「あいつ?」


「……お前の従者だよ」

「ああ、ルイのこと?今日は魔法学の先生に呼び出されているの」


 アイリスが答えると、ギルバートはわずかに眉を寄せた。安心したような、それでいて何かを訝しむような、複雑な表情だ。


「……まあいい。いない方が、こちらも話しやすい」

「はぁ!?ひどい、ルイはあんなにいい子なのに!」

「……お前、本気で言っているのか?」


 ギルバートが、心底呆れたように溜息をつく。


「いい子よ! 真面目だし、優しい」

「……だからだ」


 ギルバートが、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。


「俺は苦手なんだよ。あの、獲物を狙う猫のような……」

「猫……」


 アイリスは思わず吹き出した。ルイは学園では完璧な「優等生の仮面」を被っている。誰に対しても穏やかで、謙虚で、礼儀正しい。


 けれど、その奥で――“主人を守る”目だけは、確かに鋭い。特に、何かの危険を察知したときには。


「ギルって、ルイに睨まれてたの?」

「睨まれてなどいない」

「いや、絶対睨まれてるやつ」


 くすくすと笑うアイリスを見て、ギルバートは屈辱そうにそっぽを向いた。


「俺はこの国の王子だぞ」

「ふふ、王子様でも、猫に威嚇されることはあります。それに秘密なんだけど、本当にね、ルイは猫なの」

「……猫なのか、あいつは」

「そうです。すごく毛並みのいい、お利口な猫」


 断言した瞬間、ギルバートの肩がわずかに震えた。呆れたのか、あるいはアイリスの突拍子もない例えに笑いを堪えたのか。そのほんの少しの弛緩が、アイリスには堪らなく愛おしく感じられた。


(ああ、いいな。こういうの)


 結界の崩壊や、神様が囁いた破滅の予言。そんな重苦しい「宿命」をどこかに忘れてしまえるような、他愛のない時間。それが、アイリスの守りたい「普通」だった。


「ねえ、ギル。実はちょっと安心したんだ」

「……何がだ」

「ルイからね、『あの方は不敬を働いた瞬間に首が飛ぶぞ』ってギルのこと、脅されてたからさ。はじめは、どんな方なのかなって怖かったの」


 アイリスが指で「チョキン」とはさみのポーズを作ると、ギルバートはあからさまに嫌そうな顔をした。


「……それは兄上のことだろうな。あの方は『完璧』だ。法に背く者、無能な者、そして王族の威厳を汚す者は、身内であっても容赦なく切り捨てる。……とても、優秀なんだ」


 ふい、とギルバートが視線を逸らす。その横顔には、さっきまでの和やかな空気とは違う、どこか冷めた影が落ちていた。


「大丈夫?もしかしてお兄様ってそんなに怖い?」


 アイリスは、木の幹に背中を預けて、ひょいと首を傾げた。


「王様になるなら立派で正しいのが一番なんだろうけど……それでも、私はギルの方がいいな」


「……は?」


「すぐに答えを出しちゃう人より、ギルみたいにきちんと話を聞いて、考えてくれる方がいいな」


「…………お前、な」


 ギルバートは、静かに黙り込む。そして、視線を泳がせ、喉のあたりをさすり、最後にはガシガシと自分の金髪をかき混ぜる。その顔は、夕陽のせいだけではなく、耳の付け根まで真っ赤になっていた。


「あれ、褒めたんだけどな……もしかして照れてる?」

「黙れ! 暑苦しいと言っているんだ!」


 「まったく!」と毒づきながら、ギルバートは逃げるように大股で歩き出した。


 けれど、その足取りはどこか落ち着かず、自分の胸元をぎゅっと掴んでいる。ずっと自分を縛り付けてきた苦しさが、アイリスのいい加減な一言で、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


「あ、待ってよギル! 髪結び直すの手伝って!」

「……自分でやれ、この不作法者が」


 口ではそう言いながらも、彼は歩みを止めて、アイリスが追いつくのを待っていた。

 

 恋と呼ぶにはまだ幼く、けれど友情と呼ぶにはあまりに特別すぎる何かが、生乾きのハンカチのように、じわりと二人の間に馴染み始めていた。




 夏休みが近づくにつれ、学園を包む空気は、熱気とは別の意味で重さを増していった。


 強すぎる日差しは石畳に反射し、生徒たちの体力をじわじわと削り取る。まだ盛夏と呼ぶには早い時期だというのに、吹き抜ける風はすでに涼しさを忘れ、熱を孕んで肌にまとわりついていた。


「ルイ、大丈夫? さっきから足取りが重いけど」


 廊下を歩いていたアイリスは、半歩後ろを歩く従者の異変に気づいた。ルイの足取りが、一瞬だけ、乱れたのだ。


「……大丈夫です。少し、日差しに当てられただけで」


 ルイはすぐに顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべた。背筋を伸ばし、一分の隙もない態度。


 けれど、アイリスの目には、彼の顔色が不自然に白く、唇の端が微かに震えているように見えた。


「無理しないでね。夏バテは地味に厄介なんだから」


軽くそう言うと、ルイは一瞬だけ視線を伏せた。


「……お気遣い、ありがとうございます」


 いつもより、少しだけ言葉が少しだけ丁寧だった。けれど、それ以上の違和感はない。彼はまた歩き出し、アイリスの半歩後ろについた。


 日常は続いている。学園も、授業も、二人の距離感も、表面上は何一つ変わらない。


 ただ、夏の熱気が輪郭を溶かすように、ルイの纏う「完璧」という名の殻が、内側から少しずつ、軋みを上げ始めていた。



 夏休みに入り、侯爵家の屋敷は静寂に包まれていた。


 学園の喧騒が嘘のように、廊下を渡る風の音さえ遠く感じる午後。ルイは自室の扉に鍵をかけ、窓のカーテンを隙間なく閉め切った。


 外は眩いほどの真夏日のはずなのに、彼の胸の奥だけは、底冷えのするような不快感が居座っていた。


(……また、これだ)


 熱があるわけではない。身体のどこかが痛むわけでもない。


 熱があるわけじゃない。息が苦しいわけでもない。ただ、身体の内側で魔力がざらついている感覚が、どうしても消えなかった。


 机の上に置かれた、小さな瓶。無色透明の液体が、光を受けてわずかに揺れる。


 人づてにもらったものだった。正式なルートじゃないことは分かっている。でも、「効く」とだけは聞いていた。もっと「効く」ものもあるが、最初はこれで充分だとも。


 迷いは、ほんの一瞬だった。


 グラスに注ぎ、喉へ流し込む。途端に、強い苦味が広がった。薬草とも魔法薬とも違う、嫌な味が、舌にまとわりつく。


(……苦い)


 思わず眉をひそめる。それでも、数呼吸もしないうちに、身体の内側が静まっていくのが分かった。暴れていた魔力が、奥へ引っ込んでいく。息が整い、視界が澄む。


(……効いてる)


 喉に残る苦味を、水で流しながら、ルイは小さく息を吐いた。違和感が、完全に消えたわけじゃない。でも、今はこれで十分だと思えた。


(誰にも、言う必要はない)


 お嬢様を心配させるほどのことじゃない。これくらいなら、自分で何とかできる。そう結論づけて、ルイは瓶の蓋を閉めた。そして、自嘲気味に微笑み、再び「光」の待つ廊下へと歩き出す。


 夏は、まだ始まったばかりだった。

 

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