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第9話 特別扱いは、恋の予感




 倒れたあと――アイリスは、自分が思っていた以上に深く、長く体調を崩した。


 熱は上がったり下がったりを執拗に繰り返し、汗をかいて熱を逃がしたと思った次の瞬間には、骨の髄まで凍りつくような寒気に全身がガタガタと震えた。


 そんな三日間を、アイリスはほとんど“意識の混濁”の中で過ごした。


 しかし、その薄暗い意識の底で、ときどき、同じ香りが鼻腔をくすぐった。甘い蜂蜜と、生姜のつんとした心地よい刺激。その奥に混じる、じっくりと火を通したりんごの柔らかい甘さ。


 目を開けても閉じても、その安らぎの匂いはいつも、すぐ近くにあった。そして耳元で落ちるその声は、アイリスが知るどの瞬間よりも優しかった。


 普段のルイは、口を開けば「お嬢様、またですか」と小言が飛び出し、視線を合わせれば、だいたいどちらかが憎まれ口を叩き合っている。


 それなのに、こういう時だけ、彼は壊れ物を扱うように言葉を選び、寝返りを打たせる動きさえ、痛いくらいに慎重になる。


(ずるい……反則だわ、こんなの)


 

 熱がようやく平熱へと落ち着き始め、月の光が窓から青白く差し込んだ頃、アイリスは掠れた声で、暗闇に問いかけた。


「……ルイ」

「はい。ここにいますよ」

「……ずっと、そこにいてくれたの?」


 自分でも、何を確かめたいのか分からないままの問いだった。ルイは一瞬、言葉に詰まったように呼吸を止める。数秒の、けれど永遠のようにも感じられる沈黙。

 

 それから、彼は笑った。いつもの、誰からも好かれる“猫をかぶった優等生”の完璧な笑顔ではない。ほんの一瞬、張り詰めていた何かが決壊し、隠していた素顔が漏れ出したような――脆くて、距離の近い笑顔。


「ええ、いますよ。お嬢様が飽きるほど、ずっと」


 その声の響きに、アイリスは深い安堵とともに、再び眠りへと落ちていった。


 四日目の朝。アイリスは、奇跡的なまでの速度で、完璧に復活した。


「……よし、完全復活!」


 ベッドから弾けるように飛び起きて、カーテンを勢いよく開ける。眩しい朝日に目を細めながら、両腕を大きく伸ばして背筋を反らせた。まだ少しだけ身体が節々に重さを感じさせるが、そんなものは気のせいにできる程度だ。


 気合と根性は万病に効く。それが、アイリス・ヴァレリアの信条である。


 しかし、その背後で。着替えの準備をしていたルイが、手に持っていた水差しを落としそうになるほどぎょっとして固まっていた。


「お、お嬢様……!」

「ルイもどう?朝の体操、健康の基本!」

「いきなり動かないでください!」


 ルイの声は、いつもの小言よりも重く、真剣だった。


「えー。でも、もう平気よ?」

「動けても、動かないでください。病み上がりという言葉を辞書で引いてきてください」

「それって、私に『息をするな』って言ってるのと同じくらい難しくない?」

「お嬢様なら、意識すれば出来ます」


 平然と言い切りながら、ルイは片手で深く額を覆った。溜息というよりは、天を仰ぐ祈りに近い仕草。その指先が、微かに震えているのをアイリスは見逃さなかった。


「普段は生意気なことばっかり言うくせに、寝込むと急に献身的になるのね。ギャップで落とそうとしてるのかしら?」

「……表現が下世話です、お嬢様」

「褒めてるのよ。最高の看病だったわ」


 そう答えると、ルイはぷいと背を向けて片付けを始める。その背中がいつもより少しだけ強張って見えて、アイリスはくすりと笑い、心から言った。


「ルイ、いつもありがとう。本当に、あなたがいてくれて良かった」


 その瞬間、ルイの動きが、彫像のようにぴたりと止まった。彼は何度も瞬きを繰り返した。そして振り返った彼の耳は、うっすらと赤い。


(……あ、かわいい)


 不覚にもそう思ってしまい、アイリスは慌てて自分の頬を叩いた。まだ脳が熱にやられているのかもしれない。きっとそうだ、ということにしておく。


 久しぶりに学園の門をくぐると、世界がやけに彩度を増して見えた。


 廊下を抜ける風のざわめき。魔力灯が放つ、耳鳴りのような微かな唸り。制服の生地が擦れ合う、微細な布の音。それらが一斉に五感に流れ込んできて、――ああ、学園に戻ってきたのだ、と妙な高揚感がアイリスを包む。


「あ! アイリス! 生きてたのね!」

「倒れたって聞いて、みんなで心配してたのよ!」


 教室に入るなり、友人たちが一斉に駆け寄ってきた。三日間も欠席するのは、アイリスの学園生活において前代未聞の大事件だ。


「大げさだわ。ただの知恵熱みたいなものよ!」


 笑いながら両手を振るアイリス。


「寝込んだ分、三日分まとめて元気が有り余ってるから。今日からまた、みんなの分のお菓子も食べるわよ!」

「それが一番信用できないわ!」


 教室に弾ける笑い声。それは、アイリスにとって何よりも心地よい「日常」の音だった。


 その輪の少し後ろで、ルイがいつものように黙って控えている。彼がアイリスの背中を見つめる視線だけが、以前よりもやけに熱を帯び、柔らかく濡れていることに、アイリスはまだ気づかないふりをしていた。


 昼休み、ルイに「あまり走り回らないように」と釘を刺されつつ、中庭へ向かっていると、不意に背中に鋭い「圧」を感じた。


 単なる視線ではない。もっと実体を持った、重厚で逃れがたい存在感。


「おい、ヴァレリア」


 低く響く声。振り返ると、そこにはギルバート・ラカル・ルクレールが立っていた。


 あの中庭の事件も、生乾きのハンカチ事件も、まるで夢だったかのような佇まい。彼はいつものように完璧な皇太子としての威厳を纏い、周囲には不可視の境界線が引かれている。近いのに、決して近づかせない。その孤高の立ち姿。


「殿下。あの日……いえ、先日は大変なご迷惑をおかけしました」


 アイリスは、今度ばかりは殊勝に頭を下げた。実際に、彼に抱き止められて運ばれるという、一生分の恥をかいた自覚があるからだ。


「迷惑などではない」


 ギルバートは、一切の迷いなく即答した。


 あまりにも真っ直ぐな、当たり前だと言わんばかりの姿に、アイリスは思わず小さく吐息を漏らした。


 この人は、本当に不器用なほど「正しい」人だ。その潔癖なまでの責任感が、今は少しだけ眩しく、そして信頼に足るものに感じられた。


「……だが、無茶はほどほどにしろ」

「はい。善処します」

「善処、ではなく『するな』と言っている」


 ギルバートがわずかに視線を落とし、言葉を継ごうとして――一瞬、逡巡した。


 ここで会話は終わるはずだった。アイリスも、会釈して立ち去るつもりだった。なのに。


「……そういえば、あの時」


 アイリスの唇が、思考を飛び越えて勝手に動いた。


「意識が飛ぶ直前でしたけど。……殿下、私のこと、呼び捨てにしていませんでした?」


 ぴたり。中庭を吹き抜ける風が止まったわけではないのに、二人の間の空気だけが、真空になったかのように凍りついた。ギルバートの思考が停止したのが、目に見えるようだった。

 

 瞬き一回分、二回分の沈黙。


 次の瞬間、彼の端正な顔が、額から耳の先まで、まるで上質な紅蓮の魔石のように一気に赤く染まった。


(……え、嘘。赤くなるんだ……!?)


 アイリスは思わず目を丸くした。

 いつも仏頂面で、王族の威光を背負い、「感情など効率の邪魔だ」と言わんばかりの冷徹な彼が。今は、隠しきれない動揺に晒されている。完全に、照れているのだ。


「……その話は、もう終わりだ」


 絞り出すような、ひどく低い声。


「終わりって言われましても。気になっちゃって……」

「終わりだと言っている!」


 言い切りは強引だが、顔がまだ真っ赤なままで、瞳が泳いでいるので、説得力が完全に迷子になっていた。


 アイリスは必死に笑いを堪える。ここで笑い転げれば、今度こそ不敬罪で塔にぶち込まれるかもしれない。けれど、肩の震えはどうしても止まらなかった。


 それを見たギルバートが、苛立ちを隠すように一歩距離を詰めた。香油の香りが鼻をかすめる。意外なほどに近い、少年の熱。


「……ギル、でいい」

「……はい?」

「だから!」


 彼はあわてて視線を逸らし、ぶっきらぼうに吐き捨てた。


「これからは、ギルと呼べと言っているんだ。……アイリス!」


 名前を、呼ばれた。胸の奥が、小さな音を立ててきゅっと鳴った。呼び方が変わるだけで、世界との距離が、一気に縮まる。

 

 彼の身につけた宝石がぎらりと光を反射した。王家の象徴。到底、手の届かない存在。


 けれど今、アイリスの目の前にいるのは、正義感が強くて、極度の不器用で、一生懸命に自分の感情を隠そうとしている、ただの十六歳の少年だった。


(……玉の輿も、悪くないかもね)


 そんなことを内心で毒づきながら、アイリスは何食わぬ顔を保って返事をした。


「……じゃあ、改めてよろしくね。ギル」


 ギルバートは再び、弾かれたようにそっぽを向いた。


「……勝手にしろ」


 声はどこまでもぶっきらぼうだ。なのに、その響きには、拒絶ではない不思議な体温が宿っていた。


 アイリスは、澄み渡った初夏の空を仰いだ。考える前に動いた結果が、これ。正しい選択だったかは分からない。けれど――。


(……今の効いたな)


 自分が少しずつ、彼らの「正しさ」や「安定」をかき乱していることに気づきながらも、アイリスは高鳴る胸を抑えて歩き出した。


 世界の崩壊への足音はまだ聞こえない。けれど、運命の歯車は、確実に今までとは違う音を立てて回り始めていた。

 



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