6. 私を忘れないで
あれからラウニは一度も精霊の庭を訪れていない。
学校が始まると、同年代の友人たちと勉強や遊びに夢中になり、次の学年に進む頃には、平民の生徒たちの間で流行っている悪い遊びまで覚えた。
親にバレない嘘のつき方、新しくできたカフェで初めて飲んだカフェオレの甘さ、ささやかなお金を賭けたカードゲームの駆け引き。
そんな日常の中で、精霊の庭の記憶は気にも留めないほど遠ざかっていった。
けれどある冬の日、クラスメイトの自慢話に対抗しようとして「精霊の庭に入れる」と口にした途端、クラスメイトの誰もが馬鹿馬鹿しいと笑った。
初めての屈辱に怒りで顔が紅潮し、握りしめたこぶしがブルブルと震える。
「嘘なんか言ってない!」
「じゃあ、証拠を持ってこいよ。」
誰もがラウニを嘘つき扱いするのが無性に悔しい。
その悔しさを振り払うように、ラウニは学校帰りの足で精霊の庭へ向けられた。
久しぶりに訪れた精霊の庭は変わらず美しいままだ。
庭に辿り着くまでの木々が以前より鬱蒼と茂り、時折小枝に服が引っ掛かったりしたのは鬱陶しかったが、それだけラウニの身長が伸びたということだろう。
ラウニが美しい光景をのんびりと眺めていると、不意にガサリと音がする。
驚いて目を向ければ、そこにいたのは浮浪者然とした少女だった。
ラウニと年はそう変わらないだろうか。
何年も切っていないかのような髪は櫛を通していないのかボサボサで、体格に合っていない窮屈そうな服は裾が擦り切れてほつれている。
服のそこかしこが青みがかった黒い染みがあるのは、忘れな草の上で転がったせいなのかもしれない。
僅かに見える勿忘草と同じ色の瞳は綺麗だったが、風呂にも入っていない体は薄汚れていて、思わずラウニは一歩下がる。
浮浪者の少女はラウニに気づいたのか、抱えていた忘れな草の花束をラウニに差し出す。
まるで求愛のように。
その薄気味の悪さに、その花を彼女の手ごと振り払う。
「なんなんだよ、気持ち悪い!」
ラウニの吐き捨て言葉に、少女の肩がビクリと跳ねた。
伸びた前髪から見える表情は怯えとなって、今にも震え上がりそうな態度だった。
「浮浪者がどうやってここに入り込んだんだよ!
殴られたくなかったら早く出ていけ!」
ラウニの怒鳴り声に少女はへたりと座り込み、けれどラウニがこぶしを振り上げれば、腰が抜けたのかみっともない姿のままに後退りする。
レミキー達が小石を投げたのが少女に当たると悲鳴を上げ、そうしてから這いずるようにして茂みの向こうへと消えていった。
鼻息荒くそれを見送り、乱暴な手つきで近くの忘れな草を引き千切る。
数本あれば十分だろうと乱暴な足取りで精霊の庭を出た翌日、持ってきた証拠に誰もが驚きを顔に貼り付け、クラスの誰もがラウニの持つ花を欲しがる姿にラウニの胸がすっとする。
「だから言っただろ? 僕は精霊の庭に入れるんだ。」
ふん、と鼻を鳴らしながら、花をひとひら指で弾く。
昨日まで疑っていたクラスメイトたちが、まるで宝石でも見るように目を輝かせているのが気分がいい。
優越感に浸りながら、ラウニは得意げに笑った。
* * *
こうして今まで以上に持て囃されるようになったラウニにも、気になる女の子ができた。
次と次の進級で同じクラスになったライラ・ハルメイヤだ。
ライラはここらの住人が買い物をする大きな商店の娘で、ハルメイヤ商店では塩からドレスまでを謳い文句に幅広い商品を扱っている。
店内には食品や日用品が並ぶだけだが、店でカタログを購入し、それを見て新しい寝間着を購入したり、王都で流行っているドレスを仕立ててもらうことができるのだ。
カタログの製品は実物を見てもらったほうが早いと、ライラや彼女の母親が広告塔となって最新の衣装を身に纏い、新しいアクセサリーや化粧品をアピールしている。
だからラウニの住む周辺では、彼女が一番可愛いと評判だ。
12歳という年齢に化粧は早いと他の女子生徒達が言っていたが、男子生徒は自分が可愛くなれないやっかみだと笑って、ゆるく巻かれた彼女の髪とリボンを褒めていた。
なにより彼女の家は大きな店を持っている。
姉がいるから入り婿になることはできないが、きっと苦労なく商会に雇用してもらえるはずだと、彼女の横を狙う男子生徒は学年問わず多い。
ラウニは男爵家の嫡男だったが、侯爵家の分家として領地経営の手伝いをしていることから侯爵領から出ることはそうそうなく、同じ家格程度の家の令嬢と出会える機会がほとんど無い。
だからか、男爵家は時折侯爵家の娘が嫁いでいった先で縁を貰うこともあったが、父親が侯爵家に近い血縁関係の子爵令嬢を妻にしたことから、ラウニについては男爵家に相応しければ平民でも構わないと言われている。
貴族の令息ならば早い内に婚約者を探していてもおかしくなかったのだが、身分をそこまで問わず恋愛結婚で構わないという理由から、ラウニは13歳を迎えたにも関わらず両親から婚約の話は一切出てこないので、これぞという相手を自分で決めるつもりだ。
精霊の庭の管理を任されているルース家は、精霊に愛されるためだけに美しさを磨き続けた一族ということだけあって、浮世離れした美しさが評判のヴィオラという娘がいるも、ラウニより四つ上であることや婚約者がいることから選択肢から外れている。
それに美しくても平民から娶るならば、ラウニより年上の相手はあり得ない。
ラウニに一番ぴったりな娘はライラ以外に考えられなかった。
なんとしてでも彼女の心を射止めるために、誰にもできないような特別な告白をしなければならない。
特別な思い出になって、ラウニの初恋を捧げられる場所。
自然とラウニに思い浮かぶのは、忘れな草の咲き乱れる精霊の庭だった。
本当にあの場所はラウニにとって特別だ。
学校の生徒達から親に伝わり、時間をかけてラトマー侯爵の耳にも届いたらしい。
先日にも呼び出され、ルースの代わりに精霊の庭の様子を報告するよう頼まれたのだ。
父親は侯爵領の視察で同席しておらず一人で話を聞いたのだが、簡単な書面にして報告にきたら報酬は直接ラウニに支払われる。
書面の書き方も先に見本を貰っているので、そう悩むこともない。何かあれば父親に聞けばいいだけだ。
報酬はささやかなお小遣い程度ということだったが、侯爵家が平民の基準でないことから、ラウニが月ごとに貰うお小遣いの数倍もある金額を提示されて一も二もなく引き受けた。
両親には侯爵家から頼まれたことだけ伝えているが、お金のことは言っていない。
これでライラにプレゼントを贈って気を引けるだろう。
今は夏の終わりだとしても精霊の庭は涼やかで、一年を通して忘れな草が咲き乱れている。
あそこに入れるようになった理由は忘れたが、きっと精霊達がラウニの美貌を見出したに違いない。
ライラを連れてきたら絶対に喜んでくれるだろうし、彼女を狙う他の同級生達を出し抜ける。
学校でも一番かっこいいと評判のラウニなのだ。
そんな自分が精霊の庭で告白すれば、きっと彼女も好意を受け入れてくれるはず。
事前に様子を見に行けばレミキー達の姿は見えなかったが景色は美しく、これならライラに告白できると満足気に息を吐く。
また何かが抜け落ちた感覚になったが、それはもう気にならなかった。