5. 色褪せていく花
翌日の昼過ぎ、いつものようにリネアに会いに行こうとお菓子を家令にお菓子をねだったが、「そんな名前の友人はいらっしゃらないでしょう」と冷たく家令にあしらわれた。
両親に言ってもルースに娘は二人もいないと呆れたように言われ、ついには隣町の学校に通う準備で暫く忙しくなるのにと説教をされる始末。
それよりもルースの一族が精霊の庭に入れなくなって大変なのだからと部屋を追い出される。
レミキー達の祝福はそこまでできるのだという驚きと、これで精霊の庭を訪れることができるのはラウニだけなのだと思うと、誰かに自慢をしたくなったのに今日は誰もが忙しそうでつまらない。
結局貰えたおやつは一人分だけだった。
レーズンの入ったクッキーが三枚とチョコレートの欠片で、どちらもラウニの好物だ。
今朝も食欲がないとあまり食べない母親を見ていたから、「女の子がそんなに食べないよね」とクッキーとチョコレートを食べる。
残ったクッキーを半分に割ったら二枚になったので、これで大丈夫だとハンカチに包んでから精霊の庭に向かって歩き出した。
昨日と変わらず、精霊の庭は忘れな草が青く咲き乱れ、柔らかな陽光が降り注いでいる。
けれど、彼が目にした光景は、昨日の幸福な雰囲気とは程遠かった。
リネアが昨日と同じ服を着て座り込んでいたのだ。
裾は少し泥がついていて、繊細なレースがわずかにほつれている。
いつもはきっちりと結われた金の髪はとかされることなく、緩んだ三つ編みが肩にかかっていた。
ラウニは足を止め、眉をひそめる。
「何その恰好。どうしてそんなにだらしないの?」
不機嫌そうな声が、静かな庭に響く。
リネアはゆっくり顔を上げる。
「ラウニ?」
「まさか、昨日からずっとその格好のまま?」
ラウニは呆れたように息を吐き、腕を組んだ。
「どうしてちゃんと身支度できてないの?
髪もボサボサで服は昨日のまま、しかも汚れている。
精霊の庭にいるのに、そんなみっともない格好をするなんてありえないよ」
ラウニを見るリネアの瞳が大きく見開かれる。
言われたことを理解できない様子のリネアに珍しく苛立ちが勝って、思わず睨みつけた。
「そんな、精霊の庭から出れないのに」
「言い訳しないでよ」
ラウニは苛立たしげに、足でリネアの近くに咲く忘れな草を蹴りつける。
乱暴な態度にリネアが身を竦めたが、それがラウニの気分を良くしてくれるわけでもなかった。
怯えるだけで何もしない愚図にしか映らないのだ。
「君はルースの一族なんだよ?
うんと可愛くしてないといけないって知ってるよ。
なのにみすぼらしい姿でいるなんて、恥ずかしくないの?」
リネアの口が僅かに開きかけたが、言葉は出なかった。
「せっかくお菓子を持って来てあげたのに。
ちゃんとした格好でいられないなら罰としてあげない」
ラウニに謝りもせずに「もう帰りたい」と、昨日と同じようにみっともなく泣き出したリネアを冷たく見下ろし、これ見よがしにクッキーを一人で食べる。
昨日まではあったはずの、リネアに対する好意が薄れていく。
今のリネアはラウニが好きな、『他の女の子たちと比べて一番可愛いリネア』でないからだ。
いつだって髪を綺麗に結ってもらい、男爵令息であるラウニの目に耐えうる可愛らしいワンピースを着、なにより見た目もとびっきりの最高な女の子。
それがリネアだったのに、今の姿には騙された気分だった。
「明日から学校に通う準備に忙しいから暫く来れないけど、次来る時までにきちんとできなかったら、今日みたいにお菓子をあげないからね」
すっかりリネアに対して興味を失ったラウニの中から何かが抜け落ちた気がするも、それが何かわからなかった。
それから暫くは精霊の庭に行かなかった。
学校の準備だとして家庭教師から勉強を教わる時間が増えたり、新しいシャツやズボンの採寸の為に出かけたりと、10歳の子どものスケジュールとしては忙しかったからだ。
それにリネアには可愛くて綺麗でいなければいけないことを、きちんと思い知らせる必要がある。
こうして三週間程が経過して週末となり、ここでようやく午後はずっと自由時間となった。
いつものように一人分のお菓子を貰って全部食べ、それから精霊の庭に行ってみることにした。
少しばかり時間が経ってしまったが、今頃は精霊の庭にいる子も反省して、ラウニを出迎えられるように綺麗にしているだろう。
あそこの池の水は飲めそうなくらいに綺麗だから、あそこで髪や体を洗えばいい。顔だって洗える。
平民は使用人を雇わない家が多いから、洋服は自分で洗うし、一人で風呂に入れるのだと教師から習っている。
池を不浄なもので汚す行為を精霊達が許すのかどうかということは、貴族令息とはいえ子どもであるラウニには思いもよらなかった。
「だから何もかもあの子が汚れたままでいるのは、ただの怠慢なんだ」
教師にたまに言われる言葉を、ラウニも使ってみる。
そうすると余計に許せない気持ちになるが、同時に彼女のことがどうでもよくなった気にもなる。
どうしようかとも思ったが、こうして自由な時間を過ごせるので気分がいい。
可愛くしていれば一緒に遊べばいいかと思い、屋敷の裏口へと回る。
そっと扉を開いてみれば、お喋りな女中たちが掃除をしながらお喋りに興じていた。
いもしない少女のことを書いた手紙を侯爵様がルースから受け取り、話を聞く代わりにルースの奥さんだけを侯爵家に呼び出そうとしたという噂をしている隙に、そっと茂みや木々に隠れながら外に出た。
「うわき」とか「ふてい」とか女中が言っていた言葉の意味はわからないが、使用人達が内緒話の時に使う言葉に良いものは一つもないと両親から散々言われていることから、ラウニが口にしてはいけないのだということだけは理解している。
でも、これからラウニの通う学校は平民ばかりだ。
こういった言葉を覚えておけば、きっとすぐにクラスメイト達と打ち解けられるだろうと思うも、幼い頭に叩き込んだ言葉の意味を知るのは少し先の話である。
久しぶりに精霊の庭を訪れたラウニは、珍しく草に足を取られて転んでしまい、機嫌が悪いままに周囲を見渡す。
「何、この臭い」
花の甘い香りに混じって、微かに鼻をつく匂いが漂っている。
ラウニは顔をしかめながら奥へと進み、そして僅かにすえた匂いの元凶を見つけた。
少女がいた。
髪はぼさぼさに絡まり、泥にまみれた裾を揺らして歩いている。
肌はやつれ、頬はこけて、唇は乾いていた。
不気味で、汚くて、気持ち悪い。
かつて自分の隣で微笑んでいたはずの、あれは誰だっけ?
ラウニは、目の前の少女を見つめながら、何か胸から大切なものが抜け落ちたような喪失感を覚える。
けれどすぐに我に返って、首を振った。
何でこんなみすぼらしい子がいるの?
精霊の庭には、美しい者しかいられないはずなのに。
「……誰?」
俯きがちな少女が、ゆっくりと顔を上げた。
「ラウ、ニ」
しわがれた声が、自分の名前を呼ぶ。
何かが引っかかる気がしたが、薄気味悪さと苛立ちのほうが勝った。
「汚ないな!何でここにいるんだよ!」
ラウニは怒鳴りつけた。
「どうやって精霊の庭に入ったのか知らないけど、ここは綺麗なものしかいちゃ駄目なのに!
早く出ていけ!」
ヒュッと少女が息を呑む音が聞こえたが、この美しい場所で息すらしてほしくなかった。
ラウニの心の中は嫌悪感で満たされていく。
気づけば少女の体を突き飛ばしてた。
どさりと地面に転がる体を見下ろして、少女の体すれすれの地面を勢いよく足で踏みつければ、恐怖からか掠れた悲鳴が上がる。
乱れた髪から覗く顔が、怯えを貼り付けて見上げていた。
「誰だか知らないけど気持ち悪い!
次来るときにまだいたら、今度は本当に踏みつけてやるからな!」
その瞬間、少女の目から光が消えた。
だが、ラウニはもうその変化に気づくことはなかった。