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4. 戻らない少女

この日、ルース家の異常に気がついたのはエサイアスだった。

いつもより早い夕食の卓を囲もうと、食堂のテーブルに一席空きがあることを誰も不思議に思わないまま始まろうとした夕食。

いつもより作り過ぎた一皿を不思議そうに下げる給仕を尻目に、何かが抜け落ちた感覚を取り戻そうと誰も着席しない席を見つめる。

最近王都に住む祖母が訪れてはいない。

隣町の学校にいる友人が泊まりにきたわけでもない。

誰かを忘れている。


──お兄さま。


小さな声が聞こえた気がした。

それは記憶の桶に落ちた小さな水滴。

すぐに存在が消えそうになって、

「リネア!」

精一杯に記憶を手繰り寄せる。

どうして忘れていた?

どうして今なお忘れてしまおうとする?

慌てて両親を見れば、同じ状況だったらしい彼らも顔色を悪くして立ち上がっていた。

「リネアはどこにいった?

いや、この状況は一体なんだ」

そうしてから父親が強く頭を振って、厳しい表情へと変わる。

「リネアが家にいないならば、最後に会っていた可能性が高いのはキーヴェリ男爵令息だ。

私は男爵家に向かって何か知らないか聞いてくる。

エサイアス、悪いがお前は母とヴィオラを連れて精霊の庭に行ってくれ」

そうしてから指先が白くなるまで組んだ手を握りしめている母親の肩を掴む。

「エリサ、すまないがエサイアスと精霊の庭に向かってくれ。

リネアを忘れるなんてことを起こせるとしたら精霊によるものの可能性が高い。

君の体調も心配だが、精霊の庭を訪れることが出来るのはルースだけだ」

「わかったわ」

既に顔色は蒼白だが、強い眼差しで見返すと頷き返す。

姉が持ってきた上着に袖を通し、父親は急ぎ足で出ていった。


 * * *


娘に起きた異常な事態を調べるためにキーヴェリ男爵邸へアポイントも取らずに訪れたヘンリクは、夕食前だから手短にと言われて応接間に通された。

平民が貴族の家へと押しかけるなんて非常識この上ないのだが、娘のリネアが帰ってこず、更には彼女を忘れつつある異常な状況では失礼は百も承知だ。

「まったく、ルースだからと言って、そう贔屓もできないのですよ」

熱い季節でもないのに汗を拭きながら豊満な腹部をさするキーヴェリ男爵に頭を下げる。

今日ばかりはルースという肩書がありがたい。

その辺りの平民であったら門前払いだっただろう。

「申し訳ございません。

なにぶん精霊の庭に関わる急ぎの事態でして」

ヘンリクが言えば、途端にキーヴェリ男爵の汗が増える。

正確にはリネアに起きた異常事態に精霊の庭が関わっているかもしれないという話だが、同じように記憶から抜け落ちているだろう男爵に説明したところで無駄に時間をかけるだけだ。

「精霊の庭に?」

「ええ、ですのでキーヴェリ男爵令息に話を伺いたく」

ヘンリクの返事に、ラウニを呼ぶようにと声高に使用人へと命じ、数分もしない内に見慣れた少年が応接間に入ってきた。


「こんばんは、ラウニ令息」

「こんばんは、ルースさん」

普通に返事があることから、もしかして見当違いだったかと思いながらも言葉を続ける。

「突然ですが、ラウニ令息はリネアという名前を覚えていますか?」

途端にラウニが顔を輝かせた。

「急に何?リネアでしょ、急にみんな忘れちゃっているけど、僕は覚えているよ」

そんな彼を訝し気に見つめるキーヴェリ男爵。

「だから、ラウニ。リネアというお嬢さんなどお前の友達にはいなかっただろう」

やはりキーヴェリ男爵は忘れている。

それなのにラウニがリネアを忘れていないのであれば、娘に何かあった原因に関わっているはラウニだ。

「今日はリネアと何をしていたか聞いても?」

そう問えば、満面の笑みで身を乗り出してきた。

「リネアに花を贈って僕だけの女の子でいてねって約束したら、レミキー達が祝福してくれたんだ!

ずっと僕だけのリネアにしてくれるって!」

今は庭にいるのだとこともなげに言う、目の前の少年が原因だと瞬時に理解すると同時に怒りが湧く。

僕だけのリネアという言葉の時点で父親としては眉間に皺が寄せたくもなるが、それを人間の常識や倫理観など預かり知らぬ精霊が祝福したとなれば、想像の斜め上の結果をもたらす可能性が高い。

言葉通りに願いを叶えたとなれば、リネアがいるのは精霊の庭だ。

どれだけ美しい庭であっても、出られずに一人でいるのはどれだけ心細いだろうか。

それを考えもせずに自分の得た幸運だけを受け止めて、嬉々として語るラウニの姿に吐き気がする。

だが、貴族令息である少年が天真爛漫という名の無知と傲慢を持ち合わせていることは知っているので、必死に表情に出ないよう推し止め、できるだけ穏やかな声になるよう気をつけて口を開いた。

リネアの安否は彼のご機嫌次第なのだから。


「ラウニ令息、君が受けた祝福によってリネアが帰ってこないし、私達はリネアを忘れつつあるんだ。

娘への気持ちは嬉しいが、あの子が帰ってくるように手伝ってもらえないだろうか」

これは親としての懇願だ。

だが、ラウニは首を横に振って拒否をした。

「嫌だよ。だって約束を破ったら、リネアは僕だけの大事な女の子じゃなくなるから。

そんなことになったらこの町で、ううん、きっと世界で一番可愛い女の子を独り占めしてるって自慢できないよ」

そう答えてから立ち上げる。

「ねえ、もういいでしょう?

もう晩御飯の用意も出来ているし、僕もうお腹が空いているんだ」

余りにも自分勝手な言葉に、ヘンリクは強くこぶしを握り怒りをやり過ごそうと必死だった。

「こうしている間にもリネアは食事も取れず、精霊の庭で眠ることになる。

令息だって食事がとれないと、ベッドで眠れないのは嫌だろう?」

どれだけ感情を抑えようとも、声が低くなるのを止められない。

けれど、ヘンリクとは対照的にラウニは心配といった要素は少しも見られなかった。

「でも、女の子ってそんなに食べないんでしょう?

お母様はいつだって夕食を少ししか食べないよ。

大丈夫。明日の勉強が終わったら、ちゃんとおやつを持って行くから」

元気よく扉まで駆けると、ドアノブに手をかけてから振り返る。

「それにあの花畑で眠れるって物語の主人公みたいで楽しいと思うけど」

返ってきた言葉に呆然とするヘンリクを尻目に、ラウニはさっさと部屋から出ていってしまった。

「何の話だかわからないが食事が終わったら、そのお嬢さんを家に帰すよう、ラウニにはちゃんと言っておきましょう」

さすがに夕食が冷めてしまうのでと、男爵は寛容な笑みで退室を促す。

既に貴族相手に失礼な態度を取っている。

これ以上言い募ろうとも聞く耳も持たずに追い出すだろう。

機嫌を損ねてしまえば、ラウニへの説得だってしてくれなくなるかもしれない。

絶望と焦りからおざなりな礼をして席を立った。


「もう男爵家には期待などできない」

夕食が終わる頃にはキーヴェリ男爵の記憶からリネアのことなど、すっかり抜け落ちているだろう。

自分の子ではないからか、もしくは気に入っていようとも所詮は平民相手だからか危機感が足りないのだ。

祝福を受けたラウニは覚えているだろうが、子ども特有の自分本位さから本気で明日多少の菓子を持って行けばいいと思っているぐらいに、男爵とは別の意味で危機感が足りない。

衣食住の全てを満たされることなく、地べたで眠ることになるリネアが今どんな思いでいるのか。

もし自分がそうなったらを想像すらできないのだ。

優雅に歩く男爵家の使用人に断りを入れて、ぎりぎり走ってはいない速度で歩を進める。

扉など普段から自分で開けているのだから、使用人が開けてくれるのを待つ必要はない。

乱暴な手つきで扉を開けて、外へと飛び出す勢いのままに少し離れた門からも飛び出す。

キーヴェリ男爵家に滞在した時間は長くないが、リネアを忘れていく焦りから一秒でも時間が惜しい。

精霊の庭に向かってもらった二人がリネアを連れて帰れるといいのだが。

どうしても湧き上がるのを止められない焦燥を胸に、家へと向かおうとしたら、こちらに駆けてくるエライアスを見つけて足を止める。

目の前で足を止めた息子が肩で息をしながら膝に手を置き、できるだけ早く息を整えようとしながら顔を上げる。

「私も、母も姉上も精霊の庭に入ることができませんでした」

逃げ場のない絶望が身を包む。

おそらくヘンリクが試しても同じだろう。

あの精霊の庭は子どもの戯言を純粋な願いだと信じ、もしくは面白がってルースすら拒絶してしまったのだ。

リネアを救うことができない、と地面に膝をつきそうになるエライアスの体を支える。

「……全て忘れる前にフェイブロムストと母に宛てて手紙を書く。

キーヴェリ男爵の寄り親でもあるラトマー侯爵様にも手紙は書くが、記憶に無いリネアことなど捨て置かれるだろう。

あの方はそういう人だ」

この領地を治めるラトマー侯爵は自分の損得勘定でしか物を考えない人物だ。

家族すらも忘れた少女のことを一々考える必要はないと思うだろう。

「エライアス、お前は急ぎ精霊契約で使う契約書を作成するんだ。

たとえ私達がリネアのことを忘れても、できるだけ精霊の庭に物を届けられるように、無視できない契約を自身に行う」

精霊契約は文字通り精霊と契約するときに使うものだ。

契約というよりは精霊の庭を荒らさないことを誓約するもので、かつて王が最初の精霊の庭で使われた誓約書に祝福がされ、以降は精霊に関わる全ての誓約には力が宿るようになった。

誓約書に書かれたことは守らねばならないという強制力が発生するのを利用するのだ。

「わかりました」

そうだ、リネアを生かし続けられるのは自分達だけなのだ。

より深い絶望にいるだろう娘の為にできることをしなければ。

「母とヴィオラ姉さんに相談して、できるだけ届ける物はできるだけ細かく書きます」

エライアスの言葉にヘンリクは頷く。

「そうしてくれ。

食べ物としか書かなかったら、調理していない肉や魚を届けてしまうかもしれない。」


そこからの行動はあっという間だった。

帰宅した母親と姉が紙をはみ出しそうなほどに持っていく品々を書き込んでいく。

毎日届けることになるのは野菜と肉をたっぷり挟んだサンドイッチや甘いお菓子、水筒に入れた水かお茶。

揚げた魚や芋、茹でた卵、温かいスープは持ち込むまで鍋で熱々にしておくこと。

いざという時のために日持ちのする焼き菓子を。

週に一度は下着や服といったもの。

月に一度は毛布とクッション。

「あそこは春のままだけど、風邪をひかないようにコートも入れましょう」

「石鹸と櫛も。

髪も一人で切れないでしょうから結びやすい生地のリボンを」

口々に庭に持ち込む品々を書き留めるエライアスの横で、母がリネア宛の手紙を書く。

わかりやすく簡潔に。

けれど愛情が少しでも伝わるようにと、精一杯の言葉を綴って。

誰もが泣きたい気持ちだったが、泣くより前にしなければならないことが沢山ある。

「精霊達が勝手に処分しないように、逆に自分達のものにしないように、簡単な包装で届けるように記載しておいてください」

思いついた言葉を小さな文字で書き綴る。

一枚の紙にまとめるのだ。

絶対することを大きな文字で。

細かなルールは小さな文字で。

見やすく改行は入れるが、書き残しがないように何度も内容を確認する。

その間にもリネアを忘れないようにと、誰かが常に家族の名前だと言い続け、夜も更ける頃にようやく契約書は書き上がって契約が成された。

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忘れないように 忘れないように 忘れない ように もう、この時点で、つらい。苦しい。 引き込まれます。最後まで、読みます。
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