一章/1話『幕は上がりまして』
追憶の終着点、そこに確かに存在する「死」の感覚。しかし、クヌギの瞳は未だに世界を見ていた。そこは薄暗く、湿った、閉鎖的な場所。
「天国、じゃ無いな……」
死した後、人は天国なり地獄なりに行き着く、なんてのが世界では主流な考え方。といえど、やはり物事に例外は付き物。死した後、行き着く場所が――路地裏。そんな人だっている、クヌギのように。
そして、クヌギは知っていた。死後訪れた場所が、天国でもなく、地獄でもない、そんな場合の呼称方法を。
「――異世界転生ってヤツじゃね??いや、服そのまんまだし転移か?」
一人淋しく、ガッツポーズ。
クヌギの人生の時間内訳の大半を占めるもの、それは読書時間。その時間で読まれていた書物、それはクヌギが人生における参考書と崇める代物――ライトノベル。
そしてライトノベルの冒頭に起こりがちな展開こそが――「異世界転生」。
希望的観測が十二分に含まれている事は疑いの余地もないが、死亡後にまだ続きがあるという異常な状況。そう考え至るのも仕方のない話だった。
「じゃあ、何故に路地裏?」
薄暗く、湿った路地裏。それは、クヌギの想像する華やかな異世界像とはかけ離れていた。強いて路地裏内に異世界らしさを見出すなら……それは周囲の壁がレンガ造りという事だろう。
だが、そこに一つの違和感。
「随分、のっぺりしてるな……」
壁の凹凸はレンガの境目のみであり、本当にそれだけ。その壁を建物の一面と仮定するならば、本来あるべき物……扉や窓、排気口等が一切存在していない。
その奇怪さに恐怖を覚え、クヌギは早々に脱出を決意。
先程まで座っていた場所の湿り気を吸ったズボン、その裾を絞って歩き出した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
――数時間後。
先程から路地裏に差し込む光はどんどん薄弱になっており、遂には行動が困難な域に達した。
「あぁ――どうなってんの、これ」
未だに脱出できていないクヌギは、濡れた地面に座り込む。
非日常の特別感に浮足立っていた頃の姿はもはや見る影もなく、今はただ募る焦燥と不安に耐えるばかり。
「ほんと、おかしいだろ……」
この後自分はどうなる? もしかしてこのまま死ぬんじゃないか? 孤独感も相まって次々に生まれる悲観的な考え。意味もなく自分を追い詰める理不尽への怒り。その一切合切を拳に乗せ、壁に振るう。
が、そんな八つ当たりも痛みを生むばかりで、状況は一向に変わらない。
どん詰まりの状況に嫌気が差し、クヌギは現実から目を背けるように硬い地面で眠りについた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
早朝、クヌギは身を裂くような冷たさで目を覚ました。ぼやける視界に映る、無数の反射光。それら全ては、何らかの結晶から放たれていた。
寝床の悪環境で酷く痛む身体。それを必死で起こし、目を擦る。視界は次第に鮮明になり、結晶の正体も早々に判明した。
「氷……?」
昨日までは「湿っていた」路地裏だが、今現在それは「凍っている」。
「寒っ!?」
命に危険が及ぶレベルの寒さ。なんとか暖を取らなくてはいけないが、周囲に熱源となり得るものは無い。
クヌギは咄嗟に近くに置いていたコートを手繰り寄せ、体育座りでその中に収まった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
――そのまま身動き一つ取れず、ようやく日が昇り始めた頃。
「まじで、そろそろ出なきゃまずいよな、ここ……」
クヌギは一晩の睡眠である程度冷静になり、思考も現状に向けての嘆きから、生産性のあるものに変わっていた。
そして、それに伴って生まれる一つの必然的疑問。
――ここ、本当に路地裏か?
初日から抱いていた違和感が、いよいよ違和感では済まされなくなり始めた。昨日クヌギが探索を行った合計時間は半日弱。それだけの時間を費やして脱出は愚か、人と出会うことすら出来ない様な場所。そんな場所を路地裏と呼ぶのは正解なのか。
「これじゃ迷宮だろ……まじで」
迷宮。そう呼ぶのが正しいだろう。
相変わらずの暴力的な寒さの中、それが少しでも陽の光で相殺されている内に、クヌギは歩き出した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――