幸福論
マンションのロビーで千代と別れたあと、俺は百代についてふと思い返す。脳裏に甦るはけたたましく蝉時雨の降る夜、国道十七号線のどす黒くとろけたアスファルト、そこで倒れていた中学一年生の百代の三景。規制線の引かれた向こう側で搬送されていく。俺と千代は呆然と立ち尽くし、幼馴染、或いは姉を遠くから看取ることしかできなかった。
そして葬式に百代の棺はなかった。死体が無くなったからだ。この事件は地方紙や近隣をにわかに騒がせるのみで広く認知されることはなかったが、中二病を発症しかけていた俺は何となく、脳髄のどこかで辻褄を合わせていた。
鮮明に覚えているのは、あの小学六年生のときの平和学習発表。普段はまあ、平凡然と過ごしていた百代の異常性が垣間見えた瞬間だった。
「此方人等は平和学習に於ける『平和』とは何ぞや、というテーマについてまとめました」
眼前の地味な女子から放たれる第一声に、生徒のみならず教職員までもがざわつく。「なんつった?」「修学旅行の意義は?」「リハーサルにはなかった……」
「先生方、私語厳禁では?」
彼女はそう、こともなげに反論のいくつかをいなして、持ち時間五分を使ってマシンガントークを繰り広げた。
「第一次、第二次世界大戦、そういった戦争について学習する機会を与えていただくのは結構。けど本質的に、我々が欲しているのは平和であるはず。で、実際問題、平和って一体何なのか誰もわかってませんよね」
「平和を構成する要素は、自由と平等。しかしこれらを同時に実現するのは不可能であると断言できます。自由とは資本主義、平等とは社会主義と位置付けられるからです。現状、いわゆる先進国はどちらかの勢力についており、長きにわたって冷戦や情報戦を繰り広げている始末。仕方ありませんよね。我々は競争を成長の機会としているのだから」
「では競争は如何にして起こるのか。多くは三大欲求に起因します。隣人より長く怠けたい、隣人より良いモノを食いたい、隣人より好いヒトを抱きたい。だから数字にする。丁度テストの点数みたいに。聞いたことあるでしょう? 『受験戦争』」
誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。
「まあ、戦場でしか戦争を学べない以上、こんな環境に立たされるのも当然といえば当然と言えます。ではでは、皆が平等に満点を取れるよう、私からひとつアイデア出しをさせていただきましょう。それは、父兄の皆様方に協力していただき、テストの点数の一点につき十円を我々に支払うというものです」
「百点を取れば千円、五教科で五千円。効果が出なければ報酬を倍にすればいい話です。簡単ですよね? そしてこれが戦争の基盤であり、社会の基盤です。つまり、対価。資本主義においても社会主義においても共通しているのはこの、対価にほかなりません。だから此方人等は、争いを消失させるために対価のシステムや構造を紐解き、まったくのゼロにすれば良いのだと考えたわけです」
「対価を消す、というのはわかりにくかったかもしれません。この世からお金がなくなればいい。結論、平和とは、金亡き世界だと、此方人等の発表を終わります」
そうして百代は誰からも相手にされなくなった。この発表が小学生に向けられたものでないことは誰の目にも明らかだった。恐れ戦いたのは教職員を含む大人全員。周囲の大人たちが彼女に目をかけなくなってから、子供たちも異様な雰囲気に気づきだす。一介の小学生が同様の発表をしたなら、もう少し「ああ、本で聞きかじった内容だろうな」と思えたかもしれないけど、千代も百代も、誤魔化しの効かない出自だったために、ある意味ガチで受け取られたのだろう。
二人は戦争孤児であった。
夕景に広がる田園と塀に沿って歩けば、そこが俺の住む家だ。共働きの両親はまだ帰宅していない。スニーカーを脱いだとついでに靴下を脱ぐ癖は、解体やってれば厭でも身につく。リビングでコーヒーを淹れて二階の自室へと上がる最中、縁の言っていた「今晩のこと」を思い出す。大勢死ぬ。へその緒の花。どれもにわかには信じがたいけど、あの部屋の不可思議を思い出せば、あながちなくはないのではないか? まあ一息入れましょうや。コーヒーを啜る。
「いーぬま、おかえりんさい」
ごちゃついた部屋に土足で上がり込む幼女。あかさかなな、と名乗る彼女は、いつからか存在している俺のイマジナリーフレンドだ。
「また無視? そんなことしても消えないよ私」
フレンド、というのは些か語弊がある。この子は俺にしか見えず、俺にしか干渉できないにも拘らず、むしろ積極的にコミュニケーションを試みてくるから厄介なんだ。
彼女が発現して間もないころ、普通に会話していたのを友人に見られ、しかもその相手が幼女だと自らバラしてしまったために、しばらく変わり者扱いされてしまった。それからというものこうやって無視を続けているのだけど、かつてオフィスソフトに存在していた鬱陶しいイルカみたいに消えてくれない。
「今日は大変だったね」
「……」
「肩揉んであげよう」
俺の背後に回り込み、んしょ、んしょと肩をもむ仕草。もちろん、何も感じない。それどころか幼女に肩揉みされている事実に、少し背徳感さえ憶える。ただひとつ言えるのは、ななの見た目は常人のそれではない。薄緑色の長い髪に、褐色肌。目の色は明らかに赤く、まるで妖精のようだ。やめてくれ、と手を払いのける気にもなれずにコーヒーをどんどん飲み進める。と、今日の現場の進捗が一斉メールで共有され、確認しようとしたときだった。
「いーぬま。私は、生まれたときからいーぬまを知ってるよ」
「なんだと」
あまりにも興味深かったのでつい反応してしまった。
「うん。助産師さんに取り上げられてから今まで、ずっと知ってる」
「ほお。ちょっと聞かせてもらおうか、そのときのこと」
「いいけど、どうして? 今まで散々無視してきたくせに気になるの?」
「そりゃ、そうだろう。俺は病気だ。お前という存在が見えるようになってしまったがゆえに、ずっと精神病か何かだと薄々気づいてる。でもお前がもし、俺の知らないことを知っていたら?」
「私が実在するってことになるね!」
「そういうこと」
背後のななに居直り、ベッドの上に胡坐をかく。
「それより聞いておきたいことはない?」
「今んとこ、生まれた直後以上に気になることはないかな」
「どうして?」
「縁の言ってたことも気になるし。ほら、へその緒がどうたらっていう」
「んー。まずそこが聞きたいわけね。咲いてたよ、花」
「は?」
「えっと、へその緒が胎盤につながってなくて、先っちょに白い血管混じりの花が咲いてた」
ファクトチェックしよう。隣の部屋……両親の寝室へと入り、クローゼットを開ける。俺の幼稚園からの作品集やらなんやらが入った段ボール箱から、母子手帳の類がまとめられた桐箱を見つけ出す。
「もうひとつ、いーぬまの知らないこと教えてあげようか?」
ななが耳打ちしてきたと同時。
強かに床が揺れ俺は姿勢を崩して桐箱の中身をぶちまけた。中から出てきた小さな桐箱から、カリカリに乾燥したへその緒が転げ出る。それとは別に、ユリの花に似たなにかしらが出てきた。
「もう、来た」
ドクドク脈打つその花に触れると、ななの声を後目に視界がグッと後ろへ引っ張られる感覚ののちに、体中がどこまでも沈んでいくのを感じた。背中にふさふさと、こそばゆい何かが当たっている。
これは草だろうか。いや、一面の花畑だ。
さっきまで家にいたはずの俺の体は――夢でも見ているのだろうか――ビビッドな青空に覆われた真っ白な花畑に引きずり込まれた。眼前には何やら鉄の塊、それもなんかロボットのような見た目をしている、デカブツがそびえ立っている。
「怖っ」
「怖くないよ」
なながひょっこり現れて俺の体に乗っかる。重い。
……重い?
「お前、もしかしてこれ……」
「うん?」
「お前の仕業か?」
「ハハ、違うよ。誰の仕業か、ちゃんと定義はされてないけど、強いて言えば庭師の仕業だね」
「庭師?」
「うん。私たちはそう呼んでる」
とっさのことでうすぼんやりしていた視界が徐々にクリアになっていく。デカブツの姿がみるみるうちに鮮明に映ってくる。
ずんぐりむっくりした体躯。普通の一戸建て二戸分はあるだろうか。見た目は明らかにうさぎを模したデザインに、後ろ足がやたらとごつく、接地面は無限軌道だ。履帯はユンボのそれとはかけ離れており、むしろ地面を抉るような……というより、むしろ注目すべきは顔だろう。二対の角、或いは耳のようなものが生え、つるんとした丸い顔面には横一文字にスリットが入っている。
「で、これがどうした?」
よほど俺の疑問が気に食わなかったのか、肩をすくめるなな。
「これにいーぬまが乗るんじゃん」
「ん? なんで?」
「今は説明してる暇がないし、こういうの男のロマンでしょ?」
「いやまあ興味はあるけどさ。なんのために?」
「いいから乗った乗った」
ななに促されるまま俺はデカブツの中に乗り込む。
え? 俺どうやって乗った?
「乗ろうって思えば乗れるよ」
「ちょっと待ってくれ! いろいろ理解が追いついてない! まずここはどこだよ!? 見たこともない景色だし、というよりここほんとに地球か!?」
「とりあえず地球どころか宇宙でもないってだけ教えとくね!」
「ちょ……お前どこいった!?」
「ん? 私は乗れないから、あとはよろしく」
「よろしくつってもこのあとどうすりゃいいんだよ……」
コックピット……とでもいうのだろうか。やけに狭い空間に、硬い座面。操縦桿が手元に二対、左には何やらスイッチがたくさんついた箱があり、どれも今は下を向いている。
「まず電源を入れて、エンジンを掛けよう。バッテリーを消費しちゃうから素早くね。左下にボタンがあるから長押ししてみて」
「お、おう……」
指示された通りに次々とボタンやらスイッチやらを押していく。すると目の前のブラウン管テレビがパッと光り、何やら英語のられつが浮かび上がった。
「それBIOSの設定画面! 一旦無視して、ブレーキ踏みながら左下のボタンもう一回長押し!」
ドルン!! とけたたましくエンジンが駆動し、テレビに何やら外の情景が映し出される。
「あとはもう、いーぬまのセンス頼りだよ」
映っているのは嘉邦市の見知った田園風景だというのに、なぜかそこには、デカブツと同じくらいの背丈の人間らしきものが。
いや、よく見ると首から上はヤギだ。
異形の存在。まるでタロットカードの「悪魔」みたいな。それでいてふらふらと落ち着きがなく、あたりを見渡している。
『ザ……ザザ……』
ノイズのような音がコックピット内に響く。
『さて、初陣ですな』
『演習通りやるっすよ! ジジイ!』
男性のしわがれ声と、若い女性の声がする。無線通信だろうか。テレビの中に映り込むのはヤギ頭のほかに、人型のロボットが二体。上半身がやたらごつい藍色のヤツと、細身の黄色のヤツだ。なんか画質が悪くてよく見えない。
『見慣れない奴が一機いるな』
ん? なんか聞いたことある声がするような……。
『新入りか? 型式番号はなんだ? 回答求む』