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俺と涼森千代が悲鳴を上げるのは時間の問題だった。
赤レンガ風の外壁にやや苔むした風貌のガゼルズマンション嘉邦、千代の住む807号室のちょうど真下。昨年707号室で殺人事件が発生したようで、「それなら現場を見に行ってやろうぜ」と俺が提案したのがすべての発端だった。
「やめとこうよそんなの……。やばいおばけとかでたらやばいじゃん」
さっきから千代は俺を止めてくるのだが、幸い人為的災害に全く恐怖心を抱かない俺は「大丈夫だって」の一点張りで千代を見事説き伏せる。殺人犯だろうがなんだろうが、人の起こせる事由に限界はある。事故物件の野次馬だろうがなんだろうが、小規模も小規模、誰に恨まれる筋合いもないのだ。千代が長い髪を首にぐるりと巻き付け、グエーと絞殺のしぐさをやってみせ、「体液とか漏れてるかも」と怪訝そうに言う。
「お前だって面白半分で来てんじゃん」
「いや、今のそういうつもりじゃ……」
メーターボックスを開けてキーボックスの番号を合わせ、中から鍵を取り出す。番号はここのリフォーム会社の伝手から聞いた。キーを左に回して難なく玄関を開けると、やはり興味には勝てなかったのだろう、先行した千代の顔面が薄ら青く変わる。「ねえこれ、ちょっとやばいかも」と振り返る千代に、俺は内心ドキュリドキュリしながらも、「大丈夫」という姿勢を崩さない。
ああ。ここで人がやおら死んだのだ。
千代によると、かつてこの部屋に住んでいたのは初老の男性だったという。引っ越しの挨拶に訪れた際、彼は「ヤ○ルト持って帰りい」と優しく差し出してくれたそうだ。ただ、そんな彼に『殺されるほどの人格的因果』はあったのだろうか。
俺はいつからか知っている。悪いやつなどいないのだと。どうやって足し引きしても、殺されるようなやつには殺されるような因果があり、それは殺す側も同様だってこと。つまり悪いことするためには悪いことをする因果があるってこと。結果ではなく、経緯が重要なのだ。いかなるときも…… と、俺は志望校を落ちてすべり止めの私立高校に通い始めた自分を、ふと思い出した。
事実は事実にして漸く事件となる。だからして寝室から引きずられたように伸びる血痕を踏まないよう、注意深く見つめたとき、俺にもすっかり恐怖心が芽生えていた。ジメジメとした粘っこい夕方4時半の影に、背の低い千代の影がうすぼんやり血痕と混じり合う。無意識に前傾姿勢となった俺の長い前髪がうざったらしく、目の前に垂れていた。それを真ん中で分けたとき、視界の端、たしかに現れた死の影。
人の形をした血痕だった。
おかしいな。殺人事件が起こったのは昨年のはず。ここもつい最近リフォームが済んだばかりで、まだまだ空き部屋のはずだ。どうしてまだ血痕があるんだろ。
「あれ、絞殺だったはずでは」
思わず口に出すといよいよ震えだした千代。何やらヤバい、警察に通報したほうが良いんじゃないか、部屋に充満する鉄と油っこい匂い、乾いていない血痕。なにもかも新鮮だ。事件直後だ。だけど遺体のみがない。ほんで不法侵入の俺たちにできることといえば、ズラかることだけ。
だがそこは正義漢・千代。すぐにスライド式のケータイを取り出して「1・1」まで番号を押す。俺がその手を掴み、乱暴に部屋を出る。玄関のドアを閉める。すぐにはエレベーターに乗らず、肩で呼吸しながら、上ずった声で
「話と違うだろ!」
八つ当たりとはわかっていながら、彼を叱責する。
「いや私だって聞いた話と違うし……」
「……誰から聞いた?」
「管理人さん」
「信頼できるソースじゃねえか」
再度左に鍵を回して、物音を立てないよう静かに鍵を収納しておく。早く立ち去ったほうが身のためだけど、その場にへたり込んでしまった千代に、汗びっしょりでうだつの上がらない俺だ。5分ほど経っただろうか、エレベーターが7階で止まって誰かしらが降りてくる。まずい、早く逃げないと、と思ったのもつかの間、
「お前らなんてトコで乳繰りあってんだよ」
金髪でマッシュルームカット、銀縁の眼鏡にあくびをかみ殺した表情で、スラっと伸びる長い脚。声の主は堅田縁だった。どれほど安堵したことか。嘉邦高校のクラスメートだ。
「俺その部屋に用があんだけど、どいてくんね?」
安堵訂正。すぐに焦燥感やら疑問やらで胸いっぱいになる。
「用あるっつったって、ここ空き部屋だろ」
とっさに口を突いた言葉だが、果たして大丈夫だったろうか。否、首を傾げた縁は
「なんでンなこと知ってんの」
太ももの横でぎゅっと拳を握りながら、やや怒気を放つ。
「あ、いや、だってこのちょうど真上が千代の部屋だし」
「そうか。んでその空き部屋の前で飯沼と涼森が何やってんのって話。回答求む」
「何って、イチャイチャしてたんだが」
かなり苦しい言い訳だ。
「涼森男の娘説って嘘だったのか」
申し訳なさそうに千代を見つめる縁。残念、こいつは男だよ。学校には性同一性障害と届け出ており、スカートも履いていて、背も低い。傍目には女子に見えるだろうが、残念、こいつは男だよ。
千代も「私は女だよ」震える声で否定して見せる。
「僕ねえ……」
訝しむ縁だがこれ以上の詮索は不要だと判断したのだろうか、はたまた千代の事情を配慮したのだろうか、こともなげに玄関のドアをガチャリと開けた。
……開いた?
「は? お前ら入ったんか、回答求む」
「たまたま鍵開いてたんじゃね?」やや苦しい言い訳か。
「おー、しらばっくれる気か。このボケ」
「し、知らねえよ。千代も何か言ってくれ」
「入りましたごめんなさい」
「そう、入ったのは千代だけ」
何かぶつぶつと恨み節が聞こえるが、縁の光る眼鏡から目が離せないので、千代が怒ってるのか泣いてるのかわからない。
「……おっけ。とりあえず他言無用で」
そのまま部屋に入っていく縁を見過ごすはずがなかった。
「お前、ここで何して……」
「誤解のないように言っとくけど、別に悪さはしてねえよ。ここが便利だってだけだ」
「人を殺すのにか? 俺のバイト先の解体会社に言えば、不動産屋にも管理会社にも極秘でリークできるんだぞ」
「やっぱ飯沼も入ってんじゃねえかよ」
ポリポリと頭を掻きながら、縁はドアを全開にしてみせる。西日射し込むワンルームには、リフォームが終わったばかりのワンルームには、汚れのひとつも見当たらなかった。
「クラスメートとして忠告しておく。今晩大勢の人が死ぬから、巻き込まれたくなきゃ嘉邦市を出てけ」
「おまっ……気でも触れたんか」
「或いはお前らがもし、住人だったとしたら、残念ながら俺みたく巻き込まれる形になる。家帰って『へその緒』引っ張り出してみろ。花が咲いてたらすぐに連絡くれ」
「早口すぎて内容が入ってこねえよ」
「しゃーないだろ、忙しいんだよ。俺は」
呆然と立ち尽くす俺たちを後目にスーッと閉まるドア。は? アイツ中二かよ。とは、一概には言えなかった。俺たちはたしかに見たのだ、血痕を。で? 今は? なくなってた。もう頭がおかしくなりそうだ。へその緒? なんで花?
「誓花ちゃん、もう帰ろうよ」
一足先に正気に戻ったらしい千代が俺の手を取る。千代の手はいつも温かい。でも男同士で手なんかつなぎたくなくて、とっさに振りほどく。そう、いつもなら。
「……千代はどうすんだよ。出ていくんか?」
「私、出ていけないかも」
「は? それってどういう……」
エレベーターに向かいながら、千代は
「昔見せてもらったお姉ちゃんのへその緒、花が咲いてたんだよね」
その横顔はどことなく、彼の死んだ双子の姉・百代に似ていた。