第60話 闇に囚われた一年・1(※フレデリック視点)
長い悲劇の始まりはフローラの一言からだった。
「兄様……マリー姉様は私と一緒にいる時間が苦痛のようです……」
寮の食堂でマリーを待っている時、酷く悩んだ顔をしたフローラがそう打ち明けた時から僕の幸せは崩れていった。
「兄様にとっても……フローラはお邪魔でしたか?」
「な……そんな事はないよ、フローラ。僕はフローラを邪魔だと思った事は一度もない」
「でも、マリー姉様はそうではないようです……私、兄様と姉様の邪魔にはなりたくないし、だけど姉様からあんな目で見られるのは辛くて……」
2人は仲良くしてると思っていた。僕達が卒業してからも結婚してからも、仲良くしていけると思っていた。
これからマリーとの障害になりそうなのはマリアライト家の跡継ぎと、それに関わってくるかもしれない異世界人の問題だけで――後は何の問題もないと、その時まで本気でそう思っていた。
「落ち着くんだフローラ……よく考えてみてくれ。マリーがとても優しい子なのはフローラも分かっているだろう? 何か誤解があるかも知れない」
そう言って頭を撫でていると、フローラはポロポロと大粒の涙を零し始める。
「お兄様、マリー姉様をよく見てみてください。お兄様に向ける目と私に向ける目は明らかに違うのです」
そう涙ながらに言うフローラの言葉を無視することも出来ず、その日からマリーを観察する事にした。
可愛いマリーは僕によく笑顔を向けてくれる。ただ、フローラといる時は……微笑んではいるが時折少し陰りがあると言うか、心から楽しんでいないように見える時がしばしばあった。
フローラがそう言ったからだろうか? 彼女のふとした時の表情の陰りが妙に気にかかった。だけど、僕の妹だから不快な思いをさせてはいけない、と気を使っている可能性だってある。マリーは優しい子だから。
だからこの時はまだフローラの言葉を信じきってはいなかった。
「一度、私抜きで過ごされてみたらどれだけ私が邪魔に思われているか、分かって頂けると思います」
どう説得してもフローラがそう言うから試しに二人でデートしてみたら確かに、マリーは心の底から嬉しそうに――今までのデートで一番嬉しそうに見えた。
ああ、本当にフローラが邪魔だったのだ。僕の大切な妹が邪魔だったんだ。フローラはマリーの態度からそれを敏感に察知して、傷付いていた。
そう思うと自分が非常に愚かしく思えて、急激に彼女に対する熱が冷めていくのを感じた。
それでも今すぐ婚約破棄すれば、マリーは心無い噂に晒される事になる。
冷めたからと言って、彼女に酷い事が出来るほど嫌いになった訳でもなかった。
長期休みが近い、週末――なるべく噂が広まらないタイミングで誰もいない教室で婚約破棄したい旨を告げる。
だがそこに僕を心配したフローラが現れて、マリーがフローラを見て驚く視線にまた、心が冷えて。
その後すぐ中等部からマリーがフローラをイジメていたという噂が出てきた時は驚いた。フローラが女友達に相談したら広まってしまったと涙を零して謝ってきた。
僕が居ない時に何度か嫌味を言われた事があったらしい。婚約破棄してもう何の関係もなくなると思ったら、今まで抑えてきた物が溢れてしまったと。
因果応報――した事はいつか自分に帰ってくる。
もしこの噂を否定すれば、僕はフローラの叫びを否定した事になる。気まずさに心襲われながらも、フローラを嫌うマリーを表立って庇う程の想いはもう残っていなかった。
ただ――後期休みに入って帰省し、婚約破棄したい旨親に伝えると母上から意外な言葉が帰ってきた。
「こちらからの婚約破棄など許しませんよ」
母上は声こそ落ち着いていたけれど表情は厳しいものだった。
「母上は僕にフローラを虐げた相手と結ばれろとおっしゃるのですか?」
「そうは言っていないわ。だけど例え子爵令嬢とは言え他領の令嬢相手と一度婚約したものをおいそれと破棄する訳にはいかないの。それは貴方が婚約する際に念を押したはずだけれど? ましてアルマディン領の娘よ? 他領の男から女に対して婚約破棄なんてしてごらんなさいな。絶対にコンカシェルが黙っていないわ」
マリーの家――ソルフェリノ子爵家が仕えるアルマディン領の女当主。見目麗しく有能な男達をはべらかす様子から愛人侯と呼ばれている魔性の女性。
「子爵家の婚約破棄にわざわざ侯爵自ら首を突っ込むとは思えませんが……」
自分に直接仕える伯爵家や特別可愛がっている家の娘が婚約破棄されたならまだしも、マリーからアルマディン女侯爵と親しいという話は一度も聞いた事がない。
「フレディ、貴方もいずれ私の後を継いで侯爵となるのですからよく覚えておきなさい。人の上に立つ者が必ずしも常識や礼儀を弁えているとは限らないのよ。むしろ傲慢で自分勝手な思想を抱いている人間だからこそ人の上に立ち、駒のように的確に指図する事ができる……だからこそ厄介なの。こちらが婚約破棄するよりあちらから辞退された方がまだマシな位にはね」
「そんな……彼女はフローラをイジメていたのに、僕に不名誉を被れと……!?」
思わず声を荒らげた僕を母上が厳しい眼差しで見据えてくる。
「フレディ……どんな理由があろうと一度結んだ婚約を一時の感情で一方的に、相手の名誉を傷つける形で破棄するなんて許される事ではないのよ。自らの都合で切りたいのなら自らが汚れる事位我慢しなさい。私は貴方をそんな卑怯者に育てた覚えはありませんよ?」
「卑怯とは……母上……自分の娘がイジメられているのですよ!?」
引き下がらない僕に呆れたように、母上が深いため息を吐く。
「フレディ、フローラ……辛いのは分かるけれど、私も広大な領地を治める主として家族の事だけを考えて動く訳にはいかないのよ。ここで『娘が虐げられたから』と一方的な婚約破棄に加担するような領主に、誰が安心して仕えられるの?」
母上の厳しい言葉に押し黙らざるを得なかった。まるで冷たい水を浴びせかけられたように心が収縮する。
マリーの家柄や領地の事を気にしていなかった訳ではない。婚約時に母上からも言われていた事だ。しかし母上がここまで婚約破棄を重く捉えるとは思っていなかった。
「母上……申し訳ありません。私が軽率でした。侯爵家の後継ぎとして、婚約するという事の重大さを分かっていませんでした……」
「フレディ……貴方、マリーさんに頭を下げて向こうから婚約解消を申し出るよう手紙を書きなさい。それが一番無難だわ。最悪、向こうからの婚約破棄という形でも構いません。それが嫌だと言うのなら私がマリーさん宛てに婚約解消を依頼する手紙を送っても良いですけれど……」
母親に自分の婚約破棄の後始末を任せるのは恥でしかない。
「……いえ、母様の手を煩わせるような真似はできません。僕が、マリーと……直接話してみます」
「直接会うのはやめなさい。お互いに未練があればよりややこしい事になってしまうわ。はぁ……向こうが傷物にでもなってマリアライト家にはふさわしくないからと婚約解消を申し出てくれたらいいのだけど……彼女、とても可愛いから襲われる可能性がありそうだけれど、そう都合良く襲われてくれないわよねぇ。学院内だと尚更ね……」
母上がぼやくのは珍しい。そしてそのぼやきも母上にしてはとんでもない暴言だった。
マリアライト領から帰って寮に戻る際、髪を切ったマリーと遭遇した時は言葉を失った。
マリーの淡い緩やかなストロベリーブロンドの髪がバッサリと切られていて、その後フローラに抱きつかれるまで、僕は幸せだった過去の想い出を思い返していた。
だから、その後フローラから学科変更したらしいという話を聞いた時は衝撃を受けた。しかもコッパー卿に手作りらしいお菓子を渡していた事も。
「兄様に婚約破棄された後すぐに新しい殿方を見つけたから魔導工学科へ転籍されたのかも知れません。後一年しか無いですもの……ソルフェリノ嬢は美しい方ですからすぐに次の殿方を見つけますわ」
フローラの言葉がざらりと心の表面をなでた後、刺さるのは忌々しいリビアングラス卿の言葉。
『イジメの噂は本当に事実なのか、きちんと妹君とソルフェリノ嬢の両方に確認して二人の証言を照らし合わせた方が良いのではないですか?』
フローラには何度も考えすぎじゃないか、誤解じゃないかと聞いた。婚約破棄の際にマリーがフローラを見た目は冷たかった。
フローラは僕に嘘をついていない。だから――マリーから嘘を聞きたくない。
進級試験の際、マリーの姿がなかった。同じクラスでマリーと親交があったスピネル嬢に確認する。
「スピネル嬢……マリー嬢は本当に転籍したのか?」
「……見ての通りです~。変な噂のせいで私に迷惑かけたらいけないからって~……マリーはとっても優しい子だから~」
いつもニコニコ朗らかな印象を受けるスピネル嬢の表情が暗い。心なしか睨まれているような気もする。
当たり前だろう。彼女が転籍した理由は間違いなく僕にあるのだから。だが――
「……噂については把握しているが……何故スピネル嬢に迷惑がかかる?」
「フレデリック様、噂っていう物は飛び火するんです~。あの子の友達もおかしいよね~、そう言えばさ~って~。私はそんな事気にしないでいいって言ったのに~……マリーは、本当に優しいから~……」
スピネル嬢はそれだけ言うと、もう僕とは話したくないと言わんばかりに背を向けて去っていった。
良い子、優しい――そうだな。マリーは、優しくて良い子だった。
だけどそれは好意を持っている相手に対してだけで、フローラには冷たかった。
(……冷たかった、か?)
いや、確かに、あの時――フローラ向けた眼差しは冷たかった。
だが――僕はその冷たい眼差ししか見ていない。
理由はどうあれ、マリーが魔導工学科に移った事で彼女の姿をめっきり見なくなった。
彼女が少しでも視界に入れば気づく自信があるのに構内の食堂や寮の食堂でもその姿を見かける事はなく、1週間全く見かけない時もあった。
フローラもマリーと離れて少しは明るくなるかと思ったけれど、何処か陰りがある。
「私のせいでお兄様が婚約解消される側の不名誉を被る事になるなんて……」
「いいんだよフローラ。母上の言う通り、アルマディン侯爵家と険悪になるのは避けたい。それに向こうの言い分を一切聞かずに一方的に破棄しようとしたのはこちらだからね」
フローラがこんなに苦しんでいるのだ。マリーの言い分を聞きたくなかった。僕の中の綺麗で美しい彼女の想い出を醜い彼女で穢したくなかった。
「でも、リボンも未だに返さないし……」
「リボンに拘るね、フローラは」
「女なら皆そうですわ。あれを持っている限りソルフェリノ嬢はずっとお兄様の婚約者と見なされます。未だに向こうの親から婚約解消の申し出もありませんし……いつか悪用されてしまうかも知れません」
マリーはそんな事するような子じゃない。
心の何処かで、そう叫ぶ自分がいた。だけど――そういう子じゃないと思っていたのに実際はフローラに辛い思いをさせていたのだから、自分の人を見る目が無かっただけなのだ。
「それは……向こうの方から連絡がないのは僕の方から伝える、と言ってしまっているからね。こちらの出方を待っているんだと思う。どの道、一度マリーと婚約解消について話さないといけないからリボンはその時返してもらう事にするよ」
「直接話すなとお母様は言っておられましたわ。手紙にしなければ」
「……そうだね」
そう言っても――いざ手紙に認めようとすると何の言葉も思いつかず。やっぱり直接話したい、と思っても魔導工学科への通路の前でいつも立ち止まる。
進級試験の成績が思っていた程良くなく、屋外訓練場で自主練習していた時に工学準備室にいるマリーを見たのは偶然だった。どうやら工具点検のバイトを始めたようだ。
マリーの美しさは髪を切っても変わっていない。いや、むしろ――髪を伸ばしていた時より明るく見えるのは何故だろうか?
どちらにせよ、楽しそうに過ごせているのなら良かった――と安堵すると同時に、また関わってマリーの顔を曇らせなければならない事に胸が痛む。
関われば何か言ってくるだろう。マリーの醜い部分を、フローラの醜い部分を知る事になってしまうのが怖かった。
心が痛み、憂鬱になるのなら見なければいいのに――そう思っていても自然とここに足を運んでしまう。ここに来てマリーの懸命に作業する姿が目に入ると、心に空いた穴が埋まっていくような気がした。
ただそれも短い間だけで――フローラにお願いされて勉強を見てあげた日の翌日から工学準備室にマリーは姿を見せなくなった。どうやらバイトを辞めたらしい。
また、心に穴が開いたような虚しさが襲った。




