第58話 かつての恋を終わらせて
「フレデリック様」
微笑みを作ってそう呼びかけると、フレデリック様は驚いたように顔を上げた。
「ソルフェリノ嬢……僕の相手などしている時間はないのではないか? 僕の事は放っておいてくれ。今更、構う義理もないだろう?」
苦笑いしながらそう言われた後、フイと顔を背けられる。私に対して完全に心を閉ざしている。このまま話した所で何も伝わらないだろう。
どうすればちゃんと話を聞いてもらえるだろう――そう思った時に中央ホールの方からダンスの曲が聞こえてきた。
「フレデリック様……もし良かったら、一曲踊って頂けませんか?」
そう言うとフレデリック様の顔が驚きに満ちる。
「……いいのかい? 君にはもう相手がいるはずだ」
「彼は私が誰と踊っても良いそうですから」
その言葉の中にはレオナルド様に対するちょっとした反発心もあったけど、フレデリック様の心を開くきっかけには十分だったようだ。
フレデリック様が恐る恐る差し伸べてきた手を取ると、彼の表情が少しだけ楽になったような気がした。
そのまま手を引かれて中央ホールへと足をすすめる。周囲の視線が気になったのか、フレデリック様は目立たないようにホールの隅で止まり、こちらに向き直した。
「……また君と踊れるとは思わなかった」
私の背中を支えるように右手が添えられるのに合わせて、私の左手はフレデリック様の肩に。右手はフレデリック様の左手に重ねる。
そして緩やかな曲に合わせて体を揺らす。フレデリック様の目が潤んでいる。
「……フローラの事だが……」
先に私から言葉を放つより、まず彼の言葉を最後まで聞こうとじっと耳を傾ける。彼は途切れ途切れに言葉を連ねていく。
「……僕が君の方ばかり見ているから段々悲観的になってしまっていったようだ。その結果君に迷惑をかけてしまったようで、本当に済まない……だが合同課題実習でフローラも色々思う所があったみたいで……君への態度も凄く反省していた」
ああ、本当にこの人は純粋な人。妹が自分の前ではどれだけ儚くか弱く愛らしい妹を演じているのかも知らないからそんな事が言えるんだ。
「これから君とフローラを近づけない事を約束する……だから、もう一度……もう一度僕と、やり直してくれないだろうか……? 今こうして誘ってくれたという事は、まだ望みがあると思って良いんだろう?」
そんな風に調子に乗りやすい所も嫌いじゃなかった。辛い事があった時に一人で抱え込む所はちょっと嫌だった。
フレデリック様がフローラ様を盲愛しているのも本当は嫌だった。それが例え家族に対する親愛なのだと分かっていても、嫌だった。
過去の、フレデリック様を想っていた自分から暗い感情が心の中に吐き出されては喉を通る前に消えていく。
「……もし、フローラ様と私との間にまた問題が起きたら……フレデリック様はどちらの味方をなさいますか?」
「その時は……公平な目で見るよ。どちらの話もちゃんと聞く。ちゃんと自分で考えて冷静に答えを出す。これまでのような過ちはもう二度と犯さない」
いくら盲愛しているとはいえ流石に命術の件で多少は学んでくれたようだ。私の散ってしまった想いは少なくともこの人の成長の糧にもなったのだと思うと、心の何処かが救われる。
でも――まだ足りない。ハッキリ言ってあげないと、この人は変われない。
「……私、フレデリック様の事が大好きでした。きっと数節前なら今の言葉を素直に喜べたし、目を瞑る事も出来た……でも、遅すぎたんです。私の心はもう貴方から離れてしまいました。私が今貴方と踊っているのは、貴方との最後を良い想い出で終わらせたかったからです」
「マリー……」
フレデリック様の手が微かに震えている。それでも体が教え込まれているのだろう、ダンスを中断する事はしない。眉を下げて、穏やかな曲に合わない悲しげな表情をすぐさま取り繕う。
「……そうか。そうだな、もう1年も経つんだな……何だかずっと暗い闇の中にいたような気持ちだ……この1年、何1つ良い事がなかった……」
寂しげに呟くフレデリック様の紫の目が潤んでいる。ふと、思う。この人は私のように助けてくれる人がいたのだろうか? 仮にいたとして、私のように差し伸べられた手を取る事が出来ただろうか?
きっと出来なかっただろう。この人は辛い事があった時全部一人で抱え込んで、自分一人で乗り越えようとするから。かつての私と同じ様に。
だけど一人で乗り越えられない物だってある。それを延々と抱え込まれてウジウジされていたって――困る。
「……すまない、これ以上君に格好悪い姿を見られたくない。失礼するよ」
曲が終わったタイミングでフレデリック様の手が離れる。このまま終わらせたくない。
私は貴方にも――幸せになってほしいから。
「待って下さい、フレデリック様……最後にこれを受け取って頂けませんか?」
フレデリック様の服の袖を掴んで引き止め、フリルスカートのポケットに忍ばせておいた物を手渡す。
「これは……音石……いや、映石か?」
フレデリック様は戸惑ってはいるものの、突き返しては来なかった。
「私の気持ちが込められてます。本当に私の事を想っていたのなら……私を突き離した事を後悔しているのなら、どうかそれを誰にも聞かせず、一人で聞いてください。フレデリック様なら、そうしてくれると信じています」
そう言った後フレデリック様は無言で私から背を向けて中央ホールの階段を静かに上がっていく。
スラリとした背中――かつて何度も追いかけた事のある、その背中。
婚約破棄された時、悲しい気持ちでいっぱいになって俯いて見送れなかった背中を、今はもうしっかり見送れる。
(フレデリック様……素敵な恋をありがとうございました。どうか、幸せに……)
お腹の辺りで両手を組んで俯いて静かに祈っていると、入口の方でどよめきが起こる。
振り返るとそこには見事な刺繍が施されたやや落ち着いた色合いのタキシードに身を包んだレオナルド様がいた。
「マリー嬢……!」
目が合うなりレオナルド様は真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「レオナルド様……!? どうして……!?」
「打ち上げる準備をしていたら、パーティーに不参加のクラスメイト達がやってきて、『後は俺達に任せて、マリー嬢と踊ってこい』と……あ、この服はリチャードが予め用意しておいてくれて……」
驚きで言葉を詰まらせていると頬をかきながら戸惑い気味に説明される。
私がフレデリック様の幸せを祈って行動したように、私の幸せを祈って行動してくれる人がいっぱいいる。
かつての恋は先程綺麗に終わらせる事が出来た。この学院生活も心から楽しむ事が出来た。
恋以外にも楽しい事がいっぱいある事を知った。もう、同じ間違いを犯さない。
自分の世界を大切にしつつ――新しい恋に踏み出そう。
そう決意したと同時に、レオナルド様から手を差し伸べられる。
「マリー嬢……どうか、私と一曲、踊って頂けませんか?」
「はい、喜んで……!」




