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月暦、八百七十七年———。
一人の少女が公爵家、グラナダ王国のハウゼント公であるカイル・ド・アルザスに輿入れした。
少女はまだ十五になったばかりのあどけない容貌の異国の娘であった。
名を、リー・ルイジェと言う東方の国の王家の娘である。
容姿は大層美しく、まだ蕾のような青さが残る両性的な見目であった。
彼女は、東国との戦果として一番の功績を挙げたハウゼント公に下賜された。
♢
見た事も無い様式の庭であった。
綺麗に狩り揃えられた木々や整然と並ぶ花々はルイジェの国には無い種類だった。
街並みも、この巨大な館すらルイジェには異質だ。
———ああ、随分遠くまで来てしまった。
ルイジェはしみじみとそう思った。
港から乗せられた馬車の扉がやっと開く。
ステップに足を掛けると、すっと手が差し出された。
「ようこそ、いらっしゃいました。長旅でお疲れでしょう」
東国では見ない程長身の男性がルイジェを馬車からエスコートし、言った。
男性は、幼い頃に見たこの国から持ち込まれた絵画のように美しい男性であった。
鍛えられた肉体は、服の上からでも良く分かった。
加えて、垂れ目気味の甘さのある顔立ちが金糸のような肩までかかる長髪に良く似合っていた。
彼がカイル・ド・アルザスで間違いないだろうとルイジェは思った。
そして懐かしさが同時に込み上げた。
「ええ、少し疲れましたが、大丈夫です」
ルイジェがそう言うと、カイルは少し目を見開いた。
「どうかしましたか?」
ルイジェが尋ねると、カイルは笑みを浮かべて答えた。
「いえ、あまりに流暢な発音でしたので」
その言葉にルイジェは笑みで返した。
そもそもルイジェがカイルに輿入れする事になった経緯は、東国の王の子の中で唯一グラナダの言葉を操る事が出来た点だ。
王には数え切れない側室が居た。
だが、それは王の手が付いた女のほんの一部である。
ルイジェの母は元は貧民であった。
王の目に留まるくらいの美しさではあるが、取り柄といったらその美貌くらいで、王の中ではそんなに価値のある事には変わりなかったのだ。
幾度か手をつけられた後、港近くの娼婦街に捨てられた。
その時既に母の腹の中にはルイジェと双子の妹であるルーウェイが宿っていた。
母は懸命に二人を養ってくれはしたが、稼ぎに関しては年を追うごとに下がった。
やがてルイジェは幼いながらに聡明さを発揮し、そこに目を付けた商人に雇われあれこれと教わった。
その中で幾つかの言語を習得した。
特に、グラナダの言語を教えてくれた教師ともなった人物は非常に優秀で、日常会話なら全く困らない程度と、簡単な読み書きを教えてくれたのだ。
長子であったルイジェにとっては七歳年上だと聞いていた彼は兄のような存在に感じていた。
双子の妹ルーウェイはその間、身体の弱った母の世話を買って出てくれた。
母子三人、倹しく暮らせる足掛かりがやっとついた辺りで此度の戦争が起こった。
あっという間に東国は負けた。
暮らし向きは一層苦しくはなったが、母子三人無事に生き延びていられるだけで幸せな事であった。
その束の間の幸せが崩れたのは、ある日の事であった。
一人の役人がルイジェの元に訪れた。
役人は、ルイジェを見ると、書簡を渡してすぐに母子の小さな家を後にした。
ルイジェは書簡を読み、戦慄した。
どこまで苦しめれば気が済むというのだろうかと絶望したのだ。
書簡には、こう書かれていた。
曰く、今回の敗戦により戦勝国に対する賠償が行われる事。
その中には人質の意味を持つ王家からの輿入れがある事。
王の血筋に当たる人物を精査した結果、候補にルイジェが該当した事。
命令に背いた場合、母と妹の命の保証が無い事。
ルイジェにはなす術もなく、母と妹に別れを告げた。
しかし、ルイジェは書簡を読んで違和感を覚えたのだ。
が、その違和感は足を運んだ王宮ですぐに解かれた。
ルイジェにとって抗う事の不可能な此度の輿入れは異様な速さで纏まったのだった。
王宮でルイジェは王の十一番目の側室の養子になった。
さして力の無い下級貴族の娘である側室の子という肩書きに加え、リーという名字を与えられた。
それから半月程で貴族の振る舞いを詰め込まれた。
ルイジェは、皮肉な事に自身の母と妹、そして自身を捨てた王の計らいで教養を得られたのだ。
その裏にある事は総て、東国が再び復活する為に仕組まれた事であった。
ルイジェは、グラナダ王国にただ輿入れする為に送り込まれた訳では無い。
母と妹を人質に取られた上で、グラナダの軍事に関わる夫から情報を得るべく送り込まれた存在だったのだ。
だからルイジェが男である必要があった———。
ミイラ取りにならぬように。