あらざらむ
最期にたったひとつ、思うのは。
*
「すまない、ジェーン」
ぼんやりとした視界の中で、つむじが見えた。燦々と降り注ぐ光をはじいて、きらきらと輝くきんいろ。胸を潰されそうな、眩しい色。
ふかふかの椅子に埋もれるようにして座る自分が、溶けてしまいそうなくらいに輝いている。
次の言葉を予想しながら、どこかで、納得している自分がいた。
「君との婚約は、無かったことにしてほしい」
耳に心地よい、やさしい響き。チェロに似た、あたたかい音。いつだったか共に聴いたあの曲は、なんだったかしら。
気のせいだけではない胸の痛みで、うまく思い出せない。
私にだけ出された、甘ったるいお茶の香りが、ひどく重い。
「身勝手なことを言っているのは分かっている。君にはなんの落ち度もない。だがーー」
「ええ」
微笑んでみせる。いちばん美しいと、いつだったか、確かに褒めてくれた表情で。
こんな時だからこそ、最高の笑顔で。
「理解しておりますわ、閣下」
もう、名を呼ぶこともない。何も無かったのだ。わたしたちの間には。はじめから。
そうやってちゃんと思い知るから、だからもう、そんな暗い瞳をして見ないで。
「わたくしこれでも、理解しておりますのよ。淑女ですもの、口には出しませんけれど。
ですから、閣下がそのようなことをなさる謂れはありませんわ。どうぞお顔をあげていらして」
ひとつ、お茶のカップを撫でる。
幸せになれると思った、わたしがきっと愚かだったのだ。
「王女殿下とおしあわせに、閣下」
*
「……ジェーン」
夕焼け色のサンルーム。紅茶だけは湯気が立ち上っているけれど、もうきっと目の前の椅子からは温もりなど消えてしまっているだろう。
かけられた声にびくりと震えて、肩から毛布が滑り落ちた。いつ、誰がかけてくれたのか、記憶にない。ずっとこうして、座っていたはずなのに。
手を伸ばすこともできないまま、その人が毛布を拾うのをぼんやりと見つめる。
「おとう、さま?」
「ここは冷えるだろう? 部屋に戻ろう」
毎日鏡の中に見る瞳と同じ色の、哀しみと寂しさを覗かせた青がわたしを映す。
――こんな目をさせたくなかった。
お互いにそう思っていると、信じている。
それだけは、信じられる。
着々と削られていく残り時間を少しでも伸ばすため、わたしの負担を少しでも減らそうとそばにいてくれる父の手のひらに、そっと頬を寄せた。
「……いじわるを、したの」
父は、母に先立たれた私を、心から愛し慈しみ育ててくれた。今も、愛されていると分かっている。疑いようもなく。
もうこの家にとってお荷物にしかならない娘だというのに、変わらずに。
この国で最も高い身分の女性に憎まれている娘など、放逐しても誰も責めないのに。
「絶対に、責めたりしないと決めていたの」――苦しんで。
「笑って、おしあわせに、と言おうって」
――明らかな非を詰られることも、罪を糾弾されることもなく。
「いつか、好きだと言ってくださった、いちばんの笑顔で」
――誰よりも裏切りを知っている、自分で自分を責め苛み苦しんで。
「だってそうすれば、あのかたはきっと、わたくしを忘れられないわ」
――わたしを忘れないで。
――ひどく傷つけ、裏切り、ゴミのように捨てた女のことを。
「庭に出ても、観劇に出ても、食事をしていても。わたくしが、いなくなった後も」
――ともに過ごしたすべての場所で。
「ご自分のことを、許さないでいてくれるでしょう」
初めて会った日に歩いた庭。きっと造りは変えられてしまうけれど。
初めての観劇。人気の演目だから、すぐにまた上演される日が来るでしょう。
お茶をしたり食事をしたり、そのたびに味の好みや食材にまつわる貿易の話もしたわ。
たくさんの話をして、たくさんの約束をして。
ずっと隣にいようねと笑い合った遠い日の記憶が、ほんとうに大切だったならきっと。
甘すぎる香りの冷えたカップを傾けて、中身をゆっくり味わう。喉を通ってカラダの中へ落ちていく。ひやりと沁みるのは、温度かそれとも。
「開き直ってしまえばよろしいのに、できないの。小娘ひとりと一族とを天秤になどかけられないのだから、貴族として正しい選択なのに」
鎖骨に触れ、そこにあるべきだった物が無いことにため息が出た。首まわりに飾りのないドレスは、本来なら首飾りを付けるべきなのだ。婚約の際に男性から女性に贈られるものを。
「そうだな、ジェーン。おまえは正しい」
「――ねえ、お父さま。お母さまにお会いしたら、わたくし、お父さまと出会った頃のお話を聞くわ。たくさんたくさん、お父さまのお話を聞くわ。だから、寂しくないわ、きっと。
だから、あんまり早くこちらへ来てはダメよ」
本来なら今こうして話していることさえあり得ないはずの父は、この数日、宰相としての仕事をほとんど放棄している。勅命で、数日の謹慎を命じられたのだ。
わたしのせいで。
「妻に先立たれ、このうえ最愛の娘とも引き離されてもかい?」
「陛下をお止めできるのはもうお父さましかいないわ。これ以上、わたくしのような令嬢を増やさないで」
国王陛下は第一王女殿下の虜。彼女の願いはなんであれ、必ず聞き届けられる。
――あの子の金髪がほしいわ
そう言われた娘は女性の象徴ともいわれる髪を切られ、嫁ぎ先を失い修道院へ。
――あの首飾りがほしいわ
婚約者に贈られた首飾りを所望された娘は、冗談だろうと思ってやんわり拒否したところ、その場で首を撥ねられた。
――あの場所に別荘がほしいわ
領地の中心ともいえる穀倉地帯をその一言で取り上げられた貴族は、即座に抗議したが不敬罪を問われて一族もろとも処刑され。
王妃陛下は既に亡く、もはや彼女を諫められるものはいない。
幾人もの侍女が、騎士が、貴族が、彼女の言葉ひとつで露と消えた。
そしてそう遠くない日に、わたしもその一人になるのだ。
「永遠など存在しないんだよ、愛しいジェーン。永遠に栄える国などないんだ。太陽が昇った国には、いつか必ず夜が訪れる」
「それでもよ、お父さま。それでも、お母さまやわたくしが愛した国を、無くしてしまわないで」
冷えたカップを見つめる。甘く、澱んだ、蠱惑的な香りだけが残っている。
国王陛下の名で毎日届けられるこの茶葉は、私だけが飲み続けている。
徐々に体の自由を奪い、思考を奪い、ゆっくりと闇に呑まれていくのだと、かの女性は言った。
――アナタが生きていたら、私のことだけを考えていられないでしょう? それって、とっても可哀想なことだと思わなくて?
「陛下のご命令は、今日まででしょう? 明日からは、またいつものように登城してくださいね」
でなければ、父も死を賜ることとなってしまう。そうなればこの国はもう、滅びへの道を転がり落ちるしかない。
宰相の娘、公爵家の娘としても、そんなことは許せない。
たとえ愛してくれた人を失っても、
一人で最期を迎えるとしても、
この手には望んだものが何ひとつ残らないとしても。
それだけは、許してはならないのだ。
*
ベッドの側に、いつも誰か控えるようになって、どのくらい経っただろう。
ひとりでは体を起こすこともできず、食べ物も受け付けなくなった。
「お嬢様! お嬢様、私が分かりますか!」
「王城の旦那様に早馬を!」
「主治医にも、ご連絡を! 急いで!」
皆が、叫んでいる。
大丈夫、聞こえているわ。泣かないで。
口を動かしただけで、声にはならなかった。
「泣いて、ません……お嬢様が元気になってくださらなくちゃ、ダメなんです」
手を握ってくれているのは、小さな頃から側付きをしてくれていた侍女だった。
あたたかい、手のひら。
覚悟していたほど苦しくも痛くもなく、こんなものかと思った。もしかしたら、ぼんやりとしていた間に薬湯を飲んだのかもしれないけれど。
「お、とう……さま、に。だいすき、と、伝え、て……」
「ご、ご自分で、お伝えしなきゃ、ダメですよ……!」
「そ、そうですよお嬢様! 旦那様、拗ねてしまわれ、ますよ!」
涙声の返事がふたつ。
母のように慕った侍女の言葉に、ふふ、と笑みがこぼれた。
大好きな父を思えば、まだ笑えるのだ。わたしは。
「お嬢様……」
ロウソクの炎が揺れる。
ゆらりと震えるひかりは、あの日の眩さに似ている。
―― ああ、それでも。
まばゆいほどの金色に、穏やかな森の緑。差し伸べてくれた手の熱さ。
――死ぬ前にもう一度だけ、あなたの笑顔が見たかった。
最期の思い出に。