薄紅の記憶、届かない手
少しだけ変更しました。
眼前に広がるのは薄桃色。雪のように降り積もるそれに、茶色の髪の少年は手を伸ばす。ひらひらと舞う薄紅色の花弁は広げた手には乗らず、そのまま足元へと落ちていく。
『――』
かけられた声に弾かれたように顔をあげた少年は、そこに立つ人影を見て細い目を更に細め、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「――!」
呼んだはずの声は音にならず、口だけがパクパクと動いた。まるで水の中にいるかのように、呼吸も上手く出来ない。
「……っ!」
もう一度声を出そうと試みるが、やはり口だけが言葉の形をなぞるだけだった。少年は苦し気に顔を歪め、泣きそうになりながら手を伸ばす。
霞む視界は薄桃色に覆われて。伸ばした手の先にいる――の顔さえよく見えず、少年は焦燥にかられ
「――!!!」
その名前を叫んだ……つもりだったが、やはり音はなく、降り注ぐ花弁の隙間から微笑んでいる口元だけが見えた。はくはくと金魚のように口が動く。鼻の奥がツンとし、目の奥に泣く直前に感じる特有の痛みが走る。
「~~!!」
もう一度その名前を呼んだところで、視界がぐにゃりと歪み、薄紅色の世界は霧散した。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、寒色系でまとめられたベッドの上を照らしている。ベッドの上には人型のふくらみがあり、そこに人が寝ていることが判る。
布団から覗く髪は明るい茶色で、ふわふわとした印象だ。髪と布団で隠れている目が眉間の皺と共に動く。持ち上がった睫毛の奥にピントの合わない茶色の瞳が見え隠れし、ぼんやりと開かれたそれには、白い天井と丸くて平たい電気が映っている。夢うつつの目が左右に揺れると、その目じりから涙が一筋こめかみを伝って枕へと吸い込まれていった。
少年と呼んでも差し障りのない幼い顔立ちの男は、数度ゆっくりと瞬きをし、乱れていた呼吸を落ち着けるように深く息を吸い込み、そして吐き出した。
その直後、カチンと軽い音がし、ピピピピ、ピピピピ、と高めの電子音が頭上のベッドボードから響いた。やや不快そうに眉根を寄せ、少年は甲高い音を鳴らす掌サイズの置き時計に手を伸ばして掴み、それを黙らせた。
コチコチと時を刻む音だけになった時計を元の場所に戻し、軽く目を擦ろうとした所で自分の目元が濡れていることに気づいた。それを手でゴシゴシと拭い、うぅーと小さく呻く。
微かに覚えている薄紅色の世界。呼べない名前。
そして――
グッと胃の辺りが気持ち悪くなり、口の中に不快感が広がる。茶髪の少年は勢いよく体を起こし、ベッド横にある三段ボックスの上から、あらかじめ用意していた袋入りの洗面器を掴んで口元へと宛がう。
うっうっと数回えずきゲホリと上がってきたものを吐きだした。洗面器の中には胃液や昨日食べた内容物等はなく、薄ピンク色をした桜の花が幾つか入っていた。
吐き出した花を暫く見つめ、手にしていた洗面器を枕元へ置き、再びベッドへと体を沈める。
「美姫ちゃん……」
明かりのついていないシーリングライトをぼんやりと眺め、夢で呼びたくても呼べなかった名前が口からポロリ、こぼれ落ちた。
「うっ、ぐぅ」
口元を手で押さえて枕元の洗面器を引き寄せる。パラ、パラ、パラ、桜の花の上に落ちる白くて細長い花びら。先ほどの桜と違い、すんなりと吐き出す事が出来ない。少年は苦しそうに喘ぎ、異物を吐き出そうとするが、喉の奥に引っかかっているのか、口から白い花弁が見えるだけでそれ以上出てくる気配がない。
息が苦しくなり、頭がくらくらと揺れる。呼吸困難にパニックになりながらも、花が詰まった口の中に指を入れて、引きずり出そうと口元から見えている花弁を摘むが、ブチブチと花びらが千切れるだけで、塊は出てこない。
目からは生理的な涙がこぼれ落ち、苦しさで喉を掻き毟る。朦朧とする意識の中で、部屋の扉をノックする音を聞いた。
「友雪? 起きてる?」
返事がないのを疑問に思ったのか、部屋の扉が開かれる。開かれた扉の前には青いチェック柄のエプロンをつけた女が立っていた。
「友雪?!」
苦しさでもがいている少年を認識した瞬間、女はすぐに駆け寄り、背中を強く叩く。ヒュッと空気が漏れる音が一瞬聞こえたが、気道を塞いでいる物がまだ出てきていない。女は躊躇うことなく、少年、友雪の口の中に指を突っ込み、指先に触れた少し硬い部分を掴み、一気に引き出した。
ずるりとそれが引きずり出されると、友雪は激しく咳き込み、そのまま大きく胸を上下させ、酸素を取り込むように荒い息を繰り返している。女は呼吸の落ち着かない友雪の背を撫でながら、引き出したソレをまじまじと見つめる。あれだけ口内にある状態で苦しんでいたにも関わらず、出てきた花は不自然なほどに綺麗な状態だった。半分ほど花びらがなくなっていたが、大人の手の平大はあり、こんな大きな物が……と驚きながら、甘い匂いを放つそれを洗面器の中へと放りこんだ。
「友雪、大丈夫?」
呼吸が落ち着いてきたところで背中をさすっていた手を止め、まだ顔色が悪い少年の顔をじっと見つめる。
「うん、有難う。母さん」
友雪は心配する母親に弱々しく微笑み洗面器の中へと視線を動かした。甘い匂いを放つ白い大ぶりの花。それを指先で軽く突きながら、見た事がない花でも吐くのだとぼんやりと思う。
「今日の病院、やっぱりお母さんも一緒に行こうか?」
友雪は母の申し出に首を横に振った。
「大丈夫。今日はたまたま夢見が悪くて吐いちゃっただけだから。母さんは気にせずお仕事行ってきて」
「……そう。分かったわ」
先ほどより幾分か良くなってきた顔色を確かめながら、母親は渋々といった感じで頷き友雪から離れた。
「やっぱりしんどいなって思ったら、お姉ちゃんに付き添ってもらってね?」
そう言い、友雪が小さく首を縦に動かしたのを確認し、エプロン姿の女は部屋から出て行った。少年はドアが閉まった音を聞きながら、ため息を1つ吐き出す。
彼がこの病を発症したのは、中学2年生に上がる直前、今から約4年前の事だ。
それは突然起こった。
いつものように朝から起き、朝食を済ませ、残り僅かな春休みをどう過ごそうかと、リビングのソファに腰を下ろして、のんびりと考えていた。
朝食の後から何となく胸に何かがつっかえているような違和感があったものの、それ以外に体の不調はなく、強いて言うなら花粉症で鼻が詰まって気持ち悪いな、くらいのものだった。
テレビを何となく眺めていると、まだ間に合うお花見特集なるものが流れ、まだまだ綺麗に咲いている桜の花の映像を見たとき、昔の記憶がちらりと脳裏を掠めた。
――瞬間。
胸から胃にかけてムカムカとした感覚が広がり、何かがせり上がってきた。あまりに強い吐き気に戸惑いながらも慌ててトイレへと駆け込み、便器の中へと上がってきたものを吐き出した。
パチャパチャと水に何かが落ちる音が耳へと届く。苦しさに思わず瞑っていた眼を開きその顔が驚きに染まった。
――白い陶磁器の中に浮かぶのは、先ほどテレビに映し出されていたのとそっくりな、ほんのりとピンクがかった桜の花だった。
「……え?」
目の前の不可思議な状態に呆然とする。もしも友雪が朝から桜の塩漬けのお菓子を食べていたのなら、こんなに驚くこともなかっただろう。しかし、友雪が朝から食べたのはトーストと目玉焼き、コーンスープにコーヒーといった内容だった。にもかかわらず、それらは少しも混ざらず、綺麗な花だけがプカプカと友雪の眼前に浮いていた。
「桜の花……」
呟いた途端、再び襲ってきた吐き気に、そのまま便器へと吐く。先ほどよりも吐きにくく、自分で胃の辺りをぐっと押して吐き出した。今度は赤い花びらが幾重にもついたものが水の上に浮かんだ。友雪はぐったりとしながらそれを眺め、何となく見覚えがあるような……と考え、それが母の日に贈る花だと気付いた。
「……カーネーション?」
茎はなく、ガクから上の部分だけが桜の横に浮いている。明らかに自分の体内から吐き出されたその花達を、何かの幻覚や夢でも見ているのかと頬をつねる。
「……いたい」
ギュッと指を押し当てた箇所が痛み、これが夢ではないことを示していた。その時、トイレの扉をコンコンとノックする音が響いた。
「友ちゃーん。大丈夫? お腹痛いの?」
条件反射で思わず便器のレバーを動かし、中に浮いていた花を流す。ゴボゴボと音を立てて吸い込まれていった花を見て、花なんかを流しても大丈夫なのかと動揺し、詰まったらどうしようと顔を青褪めさせた。
「友ちゃん? 本当に大丈夫?」
「あ、大丈夫。ちょっと吐いただけ……」
そこまで言って慌てて口を塞ぐも、時すでに遅しである。
「え、吐いたの? 平気? 病院行く?」
動揺してポロッと言ってしまった言葉は取り消せず、少しの間悩み、取り敢えずトイレのドアを開けた。トイレのドアの前には、Tシャツとスウェット姿のこげ茶の髪を1つにまとめた眼鏡をかけた女が立っていた。
「友ちゃん、顔真っ青だよ。歩ける?」
顔面蒼白の少年に眼鏡の女が心配そうに声をかけ、冷たくなった手を握り、リビングへと一緒に歩いていく。女よりも頭一つは大きい少年は手を引かれるままソファへと連れて行かれ、そのまま座らされた。
「水飲む? 吐いたなら水分補給した方がいいけど、水も吐きそう?」
友雪は首を横に振り、ポロリと涙を1つ零した。
「お姉ちゃん……」
ぽろぽろと涙を零す弟に、泣くほど具合が悪いのだと姉は判断し、近くの病院が開いているかをスウェットのポケットにしまっていたスマートフォンを取り出し検索をかける。検索結果が画面に表示されるか……といったタイミングで、弱々しい弟の声が姉の耳に届いた。
「僕、死んじゃうのかなぁ」
「え!?」
手に持っていたスマホを落としそうになりながら、涙を零す弟を思わず抱きしめた。落ち着くように背中をトントンと一定のリズムで叩く。
「どうしたの? 血でも吐いた?」
吐いて死ぬかもと感じるなら吐血でもしたのかと思い問いかけるが、友雪は首を横に振ってそれを否定した。
「友ちゃん、病院行こう。死ぬかもって思うくらい不安なら、しっかり診て貰おう」
その言葉に頷いたのを確認し、友雪から離れて頭を撫でる。
「用意するから少しだけ待っててね。洗面器いる?」
「うん。大丈夫」
それから姉は友雪の診察券や保険証を用意し、どこかへと電話をかけ、1度二階へと上がって行き、手早く身支度を済ませ、その後二人は家から少し離れた場所にある総合病院へと向かった。
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