香子
これは昔むかし第五小国で、高御座の〝座〟を親王達が争った時の、乙女達の一話完結の恋のお話しです。
香子は静かに目を閉じた。
……我が身は如何なるのだろう……
そんな事すら、考えられずに重たい瞼を閉じた。
瞼を閉じれば、あの懐かしくも光り輝いて、甘酸っぱい柑橘類の香りが漂う顔容が浮かぶ。
恋うて恋うて、狂いそうになるその顔容……。
あの笑顔が見えぬのだから、別段いつ死んでもかまわない。
否、もはや死んだ我が身だ。
父に兄弟に力強くで、狂う程に愛しいお方と引き裂かれた時から……。
無理矢理入内させられ、天子様に捧げられた時から……。
香子は瞼を閉じて小さく唇を綻ばせた。
もはや二度と、天子の手が我が身を触れる事は無い。
二度とあの男に、夜な夜な抱かれる苦痛を受ける事は無い。
重ね目の色合いが美しい五衣に小袿姿の香子は、朱の長袴を微かに擦らせて横たわる身を少し動かした。
御所の内裏に在る、天子の寝所が置かれる清涼殿の一角に、壁で囲った塗籠に閉じ込められて、灯も無い暗闇の中で安らかに眠れる。
恋しすぎるあのお方を兄は押さえつけて、大事な御髪を切り落としたと聞いた。
官位を下げられ、遠方に追放されたと聞いた。
年老いた天子に我が娘を仕えさせ、更なる一門の繁栄に欲をかいた父は、以前から誓い合った二人を引き裂いて、あのお方を遠方に追放させ、抜け殻となった香子を後宮に送ったのだ。
この海に囲まれ山に囲まれた第五小国は、娘を高貴な男に差し出して出世を果たす国だ。
下賤の者は少しでも高貴な貴族に、貴族は最も高貴な公卿に、公卿は最も高貴な天子に、その一門の繁栄を賭けて子女を差し出す。
子女達は産まれた時から、その希望欲望を背負って育てられる。
後の天子の生母となる子女を得る為に……。
香子はかなり高貴な一門の姫だ。当然の様にその様に育てられた。
東宮の妃として育てられたが、東宮の妃選びの折に天子に見初められてしまった。
父としては先の短い天子より、前途洋々の東宮の妃としたかったが、年老いているとはいえ天子の意向に逆らえるはずは無い、父としても渋々の入内ではあった。入内ではあったが、一門の繁栄は保証された。
「姫様……親王様をご誕生なされまし」
幼い頃から香子に傅く、侍女の長女が囁いた。
「東宮様がおいでとは申せ、先は分かりませぬ。昨今の今上帝様と東宮様のご関係は、殊更悪しくあられます。さらに申せば、東宮様のお母君様の出自は卑う、更衣の女御様でございます。姫様のご身分は、その他の后妃様方にも引けはとりませぬ。親王様をご誕生なされて、今上帝様にご誕生の親王様を、東宮様に立して頂けば宜しいのです。そうなされば、今上帝様亡き後、姫様が幼帝様をお支えして参れば、かのお方を呼び戻すは容易い事にございましょう?」
長女の囁きは悪魔の囁きだった。
悪魔の囁きだったが、香子にはその囁きは天の助けの声の様に思えた。
醜く年老いた天子の夜のお召しを堪えられたのも、かのお方以外の男に弄ばれる事を厭わずに我慢ができたのも、その囁きのお陰だった。
若い香子は直きに御子を授かり、翌年には親王を誕生させた。
そして長女の助言の通り天子を唆し、東宮を陥れて我が子を東宮とさせたのだ。
だがしかしそれから天子が臥す様になると、東宮の座を狙って親王達の争いが始まり、香子は前の東宮によって天子の寝所の側にある塗籠に閉じ込められたのだ。
……ああ眠い……眠い……。かのお方と手に手を取って逃げて、兄弟達に捕まって以来、かのお方のお顔を見る事が叶わなくなってからずっと、眠っていなかった様に思える……。
だが、今日は眠い……。我が御子はどうしたろうか?腹違いの兄達に殺されただろうか?……別にそれならそれでも構わない。だってあの子はかのお方の御子ではないのだもの……。触られても見つめられても、鳥肌しか立つ事しかないあの男の胤だもの……可愛いともなんとも思わなかった。乳は何人かの乳母がやるし、乳母か女房が抱いてあやしていたし、私はただ嫌いな男の慰めものとなって胤を植え付けられ、一門の為と言い聞かされて腹を貸して育てて誕生させただけだ。愛情の欠片もなく、ただあの御子の為に、命を賭ける事だけは厭だった。だから歯を食いしばって誕生させた。父と一門の為。上手くすればかのお方を再び我が身の側に置く為に……そんな哀れな我が御子の事が、頭を過ぎったのは一瞬だけ、深く深く眠りにつくその一瞬の時だけ。後は深く眠って御子の事は忘れてしまった。
どれ程眠っていただろう……。
暗くて分からない。幾日経ったのか、幾日眠ったのか……。目を開けているのか、閉じているのか……。
塗籠の枢戸が開いて、光りが目を射った。
香子は瞬時に瞼を閉じた。
「香子、香子!」
聞き覚えのある声が聞こえる。
恋うて恋うて狂いそうになったあの声……。
香子は天からのお迎えに、最後にかのお方の声を聞いたと観念した。
神々しく光り輝く菩薩様をお仰ぎして、その身を菩薩様にお託しするが為に重い瞼を開けた。
かのお方のお声をお聞かせくだされた、ご恩情に感謝して瞳を向けて手を合わせた。
「香子!」
「鳴瞭様。最後にお姿を見る事が許され、香子は幸せでございます」
「香子、何を?」
香子は力強く抱きしめられ、その懐かしく恋い焦がれた腕に包まれた。
「鳴瞭様?まさか……まさか……」
「私だ香子、私だ」
香子は温かな恋しい腕に包まれたまま、フッと意識が遠退くのを覚えた。
鳴瞭は年老いた天子の皇嗣問題で、やはり親王達の争いがあった折に、陥れられて失脚した兄親王の忘れ形見だ。
貴き身分でありながら身分を下げられ、やんごとなきお方となっていたが為に、香子の父や兄弟からは見下され酷い扱いをされ、遠方に追放されても災難が続き、耳が余り聞こえなくなっていたが、そんな状況化で香子を思い続けて詠んだ歌が人心を得て、かの地で歌人として名を高めていた。
香子は寝所で目を覚ました。
今にも落ちそうな陽が真っ赤に歪んで揺れている、その赤々と染まる天を見つめて目を覚ました。
「香子」
「ああ……ああ……」
香子は慟哭して突っ伏し、鳴瞭の腕をひいた。
「お逢いしたかった……お逢いしたかった……ただただ……」
「私も逢いたかった……」
「ただただお逢いしたかった……それ故に……それ故に……」
「……そうではない……そなたでは無い……」
鳴瞭は香子をきつく抱くと、宥める様に言った。
「全てそなたの父と兄がした事だ。そなたを唆し御子を産ませて……そなたは帝に御子様を東宮に立する事をねだっただけだ。東宮と帝には余りに深い確執があった。帝は東宮を廃して他の親王を立てる旨を、宣旨として遺されている……だがそれはそなたの御子では無い」
「御子は?我が御子は?」
「帝ご崩御の後、それなりの者を後見人として立て、御身を保証してくださる」
「……殺されてはいないのですね?生きているのですね?」
「……ああ、だがそなたは、二度と会う事は叶わない」
「……如何してにございます?」
鳴瞭は香子の口の動きだけで、言葉を解して語る。
「そなたの父と兄は遠方に送られる。無論官位も下げられる……そなたは後ろ盾を失い、帝のご崩御の後は仏門に入る事となる」
「ああ……貴方様とは再びお逢いできませぬか……」
香子は一筋二筋と清らかな雫を溢した。
真っ赤に燃えて歪んだ陽が、静かに光りを鎮めて色を消して行く。
香子はそれを見つめて微笑んだ。
逢いたくて逢いたくて、長女の悪魔の囁きに飛びついた。
逢う為だけに心を失った。
いや違う……。
この目の前のお方が側に存在しなければ、香子に心など存在しない。
この方の存在が全てだ。優しくなるも心があるのも……。
だからこのお方が存在しなければ、心など失くなってしまうから、だからどんな事だってできてしまう。
例えば、嫌いな男に媚びを売る事も、御子を産む事も捨てる事も……。
香子はただの抜け殻と化してしまう。
……ああ……。いいかもしれない……
あの塗籠で、菩薩様を見たのだから……
お側に連れて行って、頂こうと思ったのだから……
抜け殻となって、悪事も厭わずに致すよりも……
香子は恋い焦がれた、鳴瞭の腕に再び包まれて瞼を閉じた。
温かく鳴り響く、鳴瞭の鼓動を聴きながら目を閉じた。
めくるめく恋心は残酷だ。夜叉にも鬼女にも乙女を変える、それでもいいと香子は思う。
最後にこの方に抱かれれば、もはや思い残す事は何もない。
天子は暫くして、その貴い一生を終えられた。
最期に香子の願いで、お悩みの種だった東宮を廃した。
それは香子の願いだったからだ。いくら昨今は関係が悪化していたとしても、母の身分が卑かろうと、東宮の素行が目に余ったとしても、一度立てた東宮を廃するなど難しい事だが、年老いた天子は、老いらくの最期の恋の名残りとして、香子の願いを聴く事とされ、それはいとも簡単に東宮を廃されたが、幼帝を立して愛する香子が不幸となる事だけはお避けになられた。
それ程までに天子は、一目で見初めた香子を溺愛していたのだ。老いらくの恋に溺れられていたのだ。
天子は母の出自も低くなく最も仁義に長け忠義に長ける、親王の中で一番の孝行者と思しき親王に、天子の座を譲る事を宣旨として遺した。
その親王とは、鳴瞭の境遇を知りながらも、なんの偏見も無く懇意にして頂いていたから、親王達の争いを知ると当然の事ながら、親王に加担すべく馳せ参じた。
最も信頼できる親王以外に、香子母子を救う事は出来ないと思ったからだ。
ゆえに香子の御子は信頼のおける後見人を得て、穏やかな一生を送られる。
親王として、今上帝の弟宮として……。
若き新帝が高御座に座るその日、人知れず国を出て行く牛車が関門を後にした。
かつて貴き天子の座の為に、争った親王達によって陥れられた父を持つ、今は官位を戻されて貴き身分と返り咲いた鳴瞭とその妻を乗せて……。
だが、鳴瞭の妻の名を誰一人として知る者はいない。