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春や昔の  作者: 東雲しの
1/2

香子

これは昔むかし第五小国で、高御座の〝座〟を親王達が争った時の、乙女達の一話完結の恋のお話しです。

香子は静かに目を閉じた。


……我が身は如何なるのだろう……


そんな事すら、考えられずに重たい瞼を閉じた。

瞼を閉じれば、あの懐かしくも光り輝いて、甘酸っぱい柑橘類の香りが漂う顔容かんばせが浮かぶ。

恋うて恋うて、狂いそうになるその顔容……。

あの笑顔が見えぬのだから、別段いつ死んでもかまわない。

否、もはや死んだ我が身だ。

父に兄弟に力強くで、狂う程に愛しいお方と引き裂かれた時から……。

無理矢理入内させられ、天子様に捧げられた時から……。


香子は瞼を閉じて小さく唇を綻ばせた。

もはや二度と、天子の手が我が身を触れる事は無い。

二度とあの男に、夜な夜な抱かれる苦痛を受ける事は無い。

重ね目の色合いが美しい五衣(いつつぎぬ)小袿(こうちぎ)姿の香子は、朱の長袴を微かに擦らせて横たわる身を少し動かした。

御所の内裏に在る、天子の寝所が置かれる清涼殿の一角に、壁で囲った塗籠(ぬりごめ)に閉じ込められて、灯も無い暗闇の中で安らかに眠れる。

恋しすぎるあのお方を兄は押さえつけて、大事な御髪を切り落としたと聞いた。

官位を下げられ、遠方に追放されたと聞いた。

年老いた天子に我が娘を仕えさせ、更なる一門の繁栄に欲をかいた父は、以前から誓い合った二人を引き裂いて、あのお方を遠方に追放させ、抜け殻となった香子を後宮に送ったのだ。

この海に囲まれ山に囲まれた第五小国は、娘を高貴な男に差し出して出世を果たす国だ。

下賤の者は少しでも高貴な貴族に、貴族は最も高貴な公卿に、公卿は最も高貴な天子に、その一門の繁栄を賭けて子女を差し出す。

子女達は産まれた時から、その希望欲望を背負って育てられる。

後の天子の生母となる子女を得る為に……。

香子はかなり高貴な一門の()だ。当然の様にその様に育てられた。

東宮の妃として育てられたが、東宮の妃選びの折に天子に見初められてしまった。

父としては先の短い天子より、前途洋々の東宮の妃としたかったが、年老いているとはいえ天子の意向に逆らえるはずは無い、父としても渋々の入内ではあった。入内ではあったが、一門の繁栄は保証された。


「姫様……親王様をご誕生なされまし」


幼い頃から香子に(かしず)く、侍女の長女(おさめ)が囁いた。


「東宮様がおいでとは申せ、先は分かりませぬ。昨今の今上帝様と東宮様のご関係は、殊更悪しくあられます。さらに申せば、東宮様のお母君様の出自は(ひく)う、更衣の女御様でございます。姫様のご身分は、その他の后妃様方にも引けはとりませぬ。親王様をご誕生なされて、今上帝様にご誕生の親王様を、東宮様に立して頂けば宜しいのです。そうなされば、今上帝様亡き後、姫様が幼帝様をお支えして参れば、かのお方を呼び戻すは容易い事にございましょう?」


長女(おさめ)の囁きは悪魔の囁きだった。

悪魔の囁きだったが、香子にはその囁きは天の助けの声の様に思えた。

醜く年老いた天子の夜のお召しを堪えられたのも、かのお方以外の男に弄ばれる事を厭わずに我慢ができたのも、その囁きのお陰だった。

若い香子は直きに御子を授かり、翌年には親王を誕生させた。

そして長女(おさめ)の助言の通り天子を(そそのか)し、東宮を陥れて我が子を東宮とさせたのだ。

だがしかしそれから天子が臥す様になると、東宮の座を狙って親王達の争いが始まり、香子は前の東宮によって天子の寝所の側にある塗籠(ぬりごめ)に閉じ込められたのだ。



……ああ眠い……眠い……。かのお方と手に手を取って逃げて、兄弟達に捕まって以来、かのお方のお顔を見る事が叶わなくなってからずっと、眠っていなかった様に思える……。

だが、今日は眠い……。我が御子はどうしたろうか?腹違いの兄達に殺されただろうか?……別にそれならそれでも構わない。だってあの子はかのお方の御子ではないのだもの……。触られても見つめられても、鳥肌しか立つ事しかないあの男の胤だもの……可愛いともなんとも思わなかった。乳は何人かの乳母がやるし、乳母か女房が抱いてあやしていたし、私はただ嫌いな男の慰めものとなって胤を植え付けられ、一門の為と言い聞かされて腹を貸して育てて誕生させただけだ。愛情の欠片もなく、ただあの御子の為に、命を賭ける事だけは厭だった。だから歯を食いしばって誕生させた。父と一門の為。上手くすればかのお方を再び我が身の側に置く為に……そんな哀れな我が御子の事が、頭を過ぎったのは一瞬だけ、深く深く眠りにつくその一瞬の時だけ。後は深く眠って御子の事は忘れてしまった。

どれ程眠っていただろう……。

暗くて分からない。幾日経ったのか、幾日眠ったのか……。目を開けているのか、閉じているのか……。


塗籠(ぬりごめ)枢戸(くるると)が開いて、光りが目を射った。

香子は瞬時に瞼を閉じた。


「香子、香子!」


聞き覚えのある声が聞こえる。

恋うて恋うて狂いそうになったあの声……。

香子は天からのお迎えに、最後にかのお方の声を聞いたと観念した。

神々しく光り輝く菩薩様をお仰ぎして、その身を菩薩様にお託しするが為に重い瞼を開けた。

かのお方のお声をお聞かせくだされた、ご恩情に感謝して瞳を向けて手を合わせた。


「香子!」


鳴瞭(なりあきら)様。最後にお姿を見る事が許され、香子は幸せでございます」


「香子、何を?」


香子は力強く抱きしめられ、その懐かしく恋い焦がれた腕に(くる)まれた。


「鳴瞭様?まさか……まさか……」


「私だ香子、私だ」


香子は温かな恋しい腕に(くる)まれたまま、フッと意識が遠退くのを覚えた。



鳴瞭は年老いた天子の皇嗣(こうし)問題で、やはり親王達の争いがあった折に、陥れられて失脚した兄親王の忘れ形見だ。

貴き身分でありながら身分を下げられ、やんごとなきお方となっていたが為に、香子の父や兄弟からは見下され酷い扱いをされ、遠方に追放されても災難が続き、耳が余り聞こえなくなっていたが、そんな状況化で香子を思い続けて詠んだ歌が人心を得て、かの地で歌人として名を高めていた。



香子は寝所で目を覚ました。

今にも落ちそうな陽が真っ赤に歪んで揺れている、その赤々と染まる天を見つめて目を覚ました。


「香子」


「ああ……ああ……」


香子は慟哭して突っ伏し、鳴瞭(なりあきら)の腕をひいた。


「お逢いしたかった……お逢いしたかった……ただただ……」


「私も逢いたかった……」


「ただただお逢いしたかった……それ故に……それ故に……」


「……そうではない……そなたでは無い……」


鳴瞭は香子をきつく抱くと、(なだ)める様に言った。


「全てそなたの父と兄がした事だ。そなたを(そそのか)し御子を産ませて……そなたは帝に御子様を東宮に立する事をねだっただけだ。東宮と帝には余りに深い確執があった。帝は東宮を廃して他の親王を立てる旨を、宣旨として遺されている……だがそれはそなたの御子では無い」


「御子は?我が御子は?」


「帝ご崩御の後、それなりの者を後見人として立て、御身を保証してくださる」


「……殺されてはいないのですね?生きているのですね?」


「……ああ、だがそなたは、二度と会う事は叶わない」


「……如何してにございます?」


鳴瞭は香子の口の動きだけで、言葉を解して語る。


「そなたの父と兄は遠方に送られる。無論官位も下げられる……そなたは後ろ盾を失い、帝のご崩御の後は仏門に入る事となる」


「ああ……貴方様とは再びお逢いできませぬか……」


香子は一筋二筋と清らかな雫を溢した。

真っ赤に燃えて歪んだ陽が、静かに光りを鎮めて色を消して行く。

香子はそれを見つめて微笑んだ。

逢いたくて逢いたくて、長女(おさめ)の悪魔の囁きに飛びついた。

逢う為だけに心を失った。

いや違う……。

この目の前のお方が側に存在しなければ、香子に心など存在しない。

この方の存在が全てだ。優しくなるも心があるのも……。

だからこのお方が存在しなければ、心など失くなってしまうから、だからどんな事だってできてしまう。

例えば、嫌いな男に媚びを売る事も、御子を産む事も捨てる事も……。

香子はただの抜け殻と化してしまう。


……ああ……。いいかもしれない……

あの塗籠(ぬりごめ)で、菩薩様を見たのだから……

お側に連れて行って、頂こうと思ったのだから……

抜け殻となって、悪事も(いと)わずに致すよりも……


香子は恋い焦がれた、鳴瞭の腕に再び(くる)まれて瞼を閉じた。

温かく鳴り響く、鳴瞭の鼓動を聴きながら目を閉じた。

めくるめく恋心は残酷だ。夜叉にも鬼女にも乙女を変える、それでもいいと香子は思う。

最後にこの方に抱かれれば、もはや思い残す事は何もない。


天子は暫くして、その貴い一生を終えられた。

最期に香子の願いで、お悩みの種だった東宮を廃した。

それは香子の願いだったからだ。いくら昨今は関係が悪化していたとしても、母の身分が卑かろうと、東宮の素行が目に余ったとしても、一度立てた東宮を廃するなど難しい事だが、年老いた天子は、老いらくの最期の恋の名残りとして、香子の願いを聴く事とされ、それはいとも簡単に東宮を廃されたが、幼帝を立して愛する香子が不幸となる事だけはお避けになられた。

それ程までに天子は、一目で見初めた香子を溺愛していたのだ。老いらくの恋に溺れられていたのだ。

天子は母の出自も低くなく最も仁義に長け忠義に長ける、親王の中で一番の孝行者と思しき親王に、天子の座を譲る事を宣旨として遺した。

その親王とは、鳴瞭の境遇を知りながらも、なんの偏見も無く懇意にして頂いていたから、親王達の争いを知ると当然の事ながら、親王に加担すべく馳せ参じた。

最も信頼できる親王以外に、香子母子を救う事は出来ないと思ったからだ。

ゆえに香子の御子は信頼のおける後見人を得て、穏やかな一生を送られる。

親王として、今上帝の弟宮として……。


若き新帝が高御座(たかみくら)に座るその日、人知れず国を出て行く牛車が関門を後にした。

かつて貴き天子の座の為に、争った親王達によって陥れられた父を持つ、今は官位を戻されて貴き身分と返り咲いた鳴瞭とその妻を乗せて……。

だが、鳴瞭の妻の名を誰一人として知る者はいない。


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