明確な、過去
転がり込むように、手近な教室に飛び込む。
「はぁっ……! はぁっ……!」
屈み込むようにして、息を整える。
ぽたぽたと……汗、そして涙が床に点々とにじんでいった。
「なに……これ……。なんなの……これ……っ……!」
本当にわたし……どうにかなってしまったんだろうか……。
怖い……怖いよ、乱世さん……!
「…………?」
目の前に……何かがひらりと落ちた。
親指の先ほどの『それ』を、指でつまみあげる。
「桜の……花びら……?」
その……うす桃色の花びらは、まるで今しがた枝から離れたかのように瑞々しかった……。
だけど……桜の季節なんて、まだ先のはず。
まして、この校舎の中に花びらなんて――。
「………………!?」
顔を上げるとそこは、それまでの教室の中じゃなかった。
それどころか校舎の中ですらも、ない。
「どこ……?」
むせるような桜のにおい――。
足元には石畳が敷かれ――。
「あれ、は……」
目の前には、真っ赤な――大鳥居。
「神社……? でも、どこの……」
つぶやくように口にしながらも……わたしにはその言葉に違和感があった。
何処――?
(知ってる……。わたしは、ここを……知ってる……?)
たしか――。
わたしはお父さん、お母さんと一緒に車で事故にあって――。
そう――。
車は――全てをこわすもの――。
全てを破壊する『力』の象徴――。
どんなものでも壊す――。
どんなものでも破壊する――。
つよい――もの――。
らん――せ――さん――。
「う……」
目眩を振り払うように頭を振る。
(なんで……いま……乱世さんが……?)
みぃん――。
蝉の声が、耳朶に割り込んできた。
急に聞こえた――という感じじゃない。
みぃん――みぃん――。
それまでずっと……聞こえていた。
それに、いま……初めて気づいたという感じ……。
みぃん――みぃん――みぃん――。
気づいていしまえば、それは……蝉時雨などという、風情に満ちたものなのではなく――。
みぃん――みぃん――みぃん――!
まるで豪雨か滝かというような、音の洪水――。
「うッ……」
こみ上げてくるような不快感に、口元を覆う。
こんなものを浴びていれば……人は壊れてしまう。
穏やかな日差しと、吹き抜ける冷たさを残した風――。
そして咽るような桜の香気と昆虫の咆哮――。
人間は――吃度――毀れてしまう――。
『きゃああああああっ!!』
「……!!」
悲鳴が聞こえた。
それで……わたしはかろうじて正気を取り戻したんだと思う。
「どこ……?」
首を巡らせると……ぎし、と小さく痛んだ。
それだけで……自分がいままでどれだけの時間、呆っとしていたのかが察せられる。
『いやっ……! いやだぁっ……!』
『この……! お、おとなしく……しろっ……!』
『そっち……ちゃんと抑えてろよっ……!』
『やだっ……! や、やめてっ……!』
注連縄の張られた大きな樹――。
これも、桜――。
その根元のあたりに、それは居た。
数人の男の人が、女の子を押さえつけるようにしている。
男の人たちの隙間から見える、その子は……衣服は乱暴に肌蹴られ、零れた肌が、やけに白く……艶かしく見えた。
それだけで……何が行われていようとしているのか、判ってしまい……わたしの嫌悪は喉元にまであふれようとしていた。
「なにやってるんですかっ……!」
わたしが慌てて駆け寄り、声を上げるも……。
『おい……! そっち、持ってろよ……!』
『いてっ! おとなしくしろっ……! どうせ……こうなっちまったら……』
『そうだ、手遅れだ……俺も……お前もっ……!』
『いやああぁぁぁっ!』
彼らはわたしに気づきもしない。
女の子のほうも……ただ悲鳴を上げているだけ……。
「あなたたちっ……!」
彼らの一人に手を伸ばそうと――。
「…………!?」
すっと……手が彼をすり抜けて、空を切る。
「え……?」
呆然とするわたしの目の前で―ー。
『この……おとなしくしろってんだ……!』
『きゃっ……』
女の子の頭が、強く押さえ込まれた拍子に、桜の木に激しくぶつかる。
生々しい……鈍くくぐもった音が、彼女の首の後ろから聞こえたように思えた。
その直後――。
『あ――』
空気の漏れるような……ひどく自動的な聲を口から漏らして……彼女の抵抗がくたりと止んだ。
『おい……。やばいんじゃないか……?』
『いや……息はしてるぜ。気絶したんだろ、好都合だ』
『だいいち――』
『もうこれ以上にやばいことなんか、あるか――』
『俺たちにも……こいつにも――』
『……………………』
少女の首が、かくりと力なく折れる。
その拍子に――。
『………………』
目が――合った。
「………………!」
少女のうつろな瞳と、わたしの目が――。
『…………………………』
つぅ、と――。
少女の唇からひとすじ、血が零れた。
他と等しく白い肌に……顎から喉に伝うように……。
赫い筋が胸元にまで線を引く。
「あ……あ、あ……」
こみ上げる―ーこみ上げる――。
悲鳴か、嗚咽、か……。
そう、だ――。
「わ、わたしは――」
このときに――。
「このときに――」
死んだんだ――。
『そうだ』
「え――」
後ろから、懐かしい聲が――。
『そしてこのとき――』
振り返る――振り返ることはできない――。
相反する衝動が、わたしを縛る。
背中の聲は、優しく――それでいて、厳しく――。
『俺は――』
「あ――」
涙が……知らず、こぼれた。
頬を伝うそれは――吃度――あか、い――。
少女とおなじ――あかい――。
『俺は……生まれた』
「あ――」
穏やかな言葉――。
その刃に背中から斬り付けられたかのようにして――。
「乱世――さん――」
わたしはひどくゆったりと――意識を失った――。
(わたし、は――)