羽多野勇という存在
聖徒会室の扉を開くが、中は静まり返っている。
表に警備も居なかった以上、期待はしていなかったが……。
(それにしても……)
なんだ、この荒れようは。
書棚は倒され、端末の類も無残に破壊されている。
まるで何者かが慌しく物色をしていったかのような……。
「乱世さん、あれ……!」
「む……?」
勇が聖徒会室の奥にある椅子を指す。
「誰か……います」
革張りの椅子は、窓のほうを向き……一見こちらからは誰も居ないように見えたが……。
確かにこちらに椅子の背を向ける形で誰かが座しているようだ。
気配も感じ得なかったが……。
「頼成……ではないな」
あの男が仮に気配を消そうとしても、これほどの静かな気になるはずもない。
「ふ……」
椅子が軽い軋みを上げつつ、こちらを振り向く。
そこには――。
「おまえは……!」
「副会長……さん……?」
「気配を……殺していたわけでもないのだが……な」
牙鳴遥は……机に凭れるようにしながら、椅子から立ち上がる。
「……! おまえ……」
「どうも……思っていた以上に、手酷いようだな、今のわたしの有様は……」
笑みはしているものの、唇からは赤い血筋が伝い――。
漏れる言葉にしても吐息にすらもその赤さが混じっているかのような覇気の無さが――。
牙鳴遥の体は、正面から一太刀に斬られていた。
「誰かにやられた……のか?」
「まさか……頼成……!?」
「頼成などが――」
気丈に一歩を踏み出す。
ぼたり、と血の塊が足元に零れた。
いや……あれは肉か臓腑か……?
「これほどに……綺麗な斬り方をするものかよ……」
「まさか……!」
「ふ、ふふ……。想像のとおり、だ」
「つ、椿芽さん……?」
「………………」
勇の問いかけに……俺は黙したままに、小さく頷いた。
今や……この牙鳴遥をまっとうな闘いでこうも打ちのめせるのは、あいつしか存在しない。
頼成はもとより……。
恐らくは、我道、真島……俺ですらも、無理だ。
「すまない、な……」
「……?」
俺は一瞬、その言葉の意味を図りかねたが……。
「立ってみると……判る、な。そう……長くもない」
気力が持たないのか、彼女は再び椅子に体を預けた。
「弱気だな。鬼の霍乱……か?」
「ら、乱世さん……!」
「この女が、そうも簡単にくたばるものか」
「ふ……。わたしを気付けているつもりか? お優しいことだな、天道乱世」
「その傷を身内がしたというのなら……気を使うのも礼儀かもな」
にしても……。
牙鳴遥が、わざわざ先行したのは……椿芽と戦うためだった……?
偶発的に闘いに転じたという可能性もないではないが……。
椿芽にしても、この女と戦う理由は薄い。同じく、牙鳴遥にしても、だ。
意義としては闘いに至る理由は双方とも無かろうに……。
「解せぬ……という顔か? それは」
「……まぁな」
牙鳴遥は……つい、と窓の外に目をやった。
「……本来ならば……自分で手を下したかった、よ」
「手を……? 誰を――」
「ふふ……。しかし、お前が居た。ならば無理と思った……。私とても、いまのお前の力量はわかる、よ。覚悟ゆえか……それは」
「………………」
「え……? ど、どういう……」
「そうさな……いわばお前、だよ。羽多野勇……そう呼ばれるモノよ」
「え……?」
「……聞くな、勇。戯言だ」
「で、でも……」
「未だ……人間を振舞うか? いや……お前という存在はそういうものだものな?」
「な――なにを――?」
「聞くな……!」
「アレは……そういう欲求も満たしたかったのだろうな? 生まれながらに望むべくもないものであれば……」
「貴様……!」
俺はこらえきれず、一歩を踏み出そうとするが……。
「黙らせるか!? このわたしを……! するまでもないがな! こんな有様ではさ……!」
「牙鳴……遥……!」
言葉の上ではなく……本当に覚悟をしている、か。
「聞かせてやれよ、天道乱世! その娘にも……知る権利は有るだろうに……!」
「だまれ……っ!」
「黙るかよッ! お前の仕出かしていることは……ただの偽善だ!」
「貴様……ッ!」
「乱世さんっ……!」
「い、勇……」
「なんの……ことなんですか? 乱世さんも……知ってる? 知っていて……隠してる? 何かを……。わたしのこと……?」
「勇……」
「乱世さん……何を……?」
俺は――。
「簡単なことさ」
「……ッ!」
「お前が――」
「やめ――」
牙鳴遥は、机上にあった書類――。
生徒名簿と記された分厚い書類を、俺たちとの間に投げてよこす。
「羽多野勇、お前が……この世には本来存在しない人間だ、ということだ」
「え――?」
勇の表情が凍りつく。
「正確に言おうか? お前は……あるものに生み出された仮初の存在……。そのモノが望み……希望したために生まれた存在……」
牙鳴遥は口の血を吐き出し、続ける。
「この学園でのみ存在を許された……虚像のような存在ということだ」
「な、なにを……言って……」
「あのモノの行う改竄は……強力だが、ひどく限定的だ。少なくともこの学園で欲求を満たし続けている現状では、な」
投げつけた生徒名簿資料を見遣る。
「紙媒体にまで影響を及ぼすことはできない。だから……その名簿にお前の名はない」
「なんです……それ。い、意味が……言ってる意味が、わかりませんよ……!」
「15年前――。お前を生み出したモノがこの世界に生まれたその日……お前という存在も同時にこの世界に生まれた。未来そのものを決定することのできる……始まりの存在。それが生まれた、忌まわしくも喜ばしいあの日……あの娘が覚醒したあの日……」
その瞳が、それまでとは全く違う意志を映すように揺らぐ。
まるで……何かを思い起こすように。
「それ以前には、お前はこの世界に存在していない。その日……今のお前、羽多野勇としての存在は、唐突に生まれた。『彼女』に望まれるまま……」
「わ、わたしは……そんな……!」
「記憶があるか? 子供の頃の……記憶そのものが……! 母は? 父は? それ以前の知人は? 友人は? 顔見知りは? いいや……あるのかもしれんな、あの『モノ』が生み出した、欺瞞の記憶ならばだがなッ!」
「わ、わたしは……自動車の事故で……それで……」
「調べてみればいいさ! そんな事故は記録にない。否……その事故とやらが起きたとされるとき、お前の故郷とされている仙台は、既に環境兵器の影響で日本地図に無いのだからな……!」
「……!」
「身寄りのないお前を親戚が引き取った? 居ないな、そんな親戚とやらも……そんな現実も」
「わ、わたしは……」
「信じるなッ! 戯言……戯言だ、全て……!」
「らんせ――さん――?」
勇が……首を巡らせて俺を見る。
油の切れた機械のような、ぎこちない動きで――。
「乱世さんは……知って、た……?」
「勇……!」
「わ、わたし……」
「ある筈がないだろう、そんなことがっ! 真に受けるな……!」
「ハハハッ! 残酷なんだな? 天道乱世……」
「き――貴様っ……!」
「欺瞞だよ……! それは……! だから……偽善とも言うッ」
「お、俺は……」
「わたし……わたし、は……」
「勇っ!」
勇はこみ上げる悲鳴を押さえ込むように口元を抑え……そのまま聖徒会室を走り出ていってしまう。
「勇っ……! 待てっ……!」
「ククク……無様だな、天道乱世……」
「貴様ッ……!」
「……さっきの言は……素直な言葉だ」
見れば……いまや牙鳴遥は先刻までの激しい態度は一切見えず……どこか放心したかのように椅子に身を任せている。
「な、に……?」
「皮肉じゃない……ほんとう、残酷だよ、貴様の愛情は……」
「そんなことは――」
言われるまでもない――!
「知らされぬことが……一番に辛いのさ」
「牙鳴……遥……?」
「わたしも……そうだ。姉様は……何も教えてくれなかった」
「………………」
「それどころか……知るくらいなら、恐らく私を殺めていたろう。それだけ……姉様は、私を愛してくれていたからな……」
「牙鳴……」
「だが……! だが、私は……私はッ!」
牙鳴はそこで言葉を詰まらせた。
もう……続く言葉は、ない。
「……討たぬのか、私を」
「…………」
彼女が勇のこと――。
いや、勇を……彼女を生み出したモノの存在を既に知っているのであれば……。
そこに様々な原因の根源を求めたとて、無理からぬことだ。
俺は……この女に対する怒りが既にうせている、冷めている自分に、とっくに気づいている。
いや……。
ついぞ数瞬まで感じていた怒りは、そもそも……彼女に対するものではなかったろう。
俺の……俺に対する……。
牙鳴遥の言葉を借りれば欺瞞、偽善への怒りに違いない。
「これ以上……自分を下げることはできない」
「ふ……。何とも、大人げだな。可愛くもない……」
「……知っているさ。15年前から……」
「そうか……」
牙鳴は――遥は、笑んだろうか?
「ならば……愚図愚図はできまい。わたしは……自分では手を下せないと、言ったぞ」
「まさか……お前は……!」
「……そうだ。既に……あの女、鳳凰院椿芽も……真実を知っている」
「………………!」
「狙うぞ、あの女は……今度こそ、彼女を……」
「………………」
「それが……わたしのできる、ぎりぎりの抵抗だ。お前が抗っているものと同じモノに対してのな……」
「運命、か……」
「……詩的だな? 惚れそうだ」
「……その口ができれば、そうは死ぬまいな」
「どうかな? しかし……急げよ。あとは……どちらにしてもお前次第だ」
「……ああ」
もはや――。
迷うまい。
俺がいかに軟弱で……惰弱であろうとも。
(勇……!)
俺は、そのまま黙って踵を返す。
「やはり……私を討たぬのか? 決意を定め……それでも……尚に」
「その時間もない……というのは理由になるだろうな」
「……そうだな。それは……そうだ」
俺は背中に遥の弱弱しい視線を感じつつも……勇の後を追った。
※ ※ ※
残されたのは、牙鳴遥――。
「そう……だな。ふふ……」
「男は……いつもそう、だ」
「こちらの望むようには……決してしてくれない……」
「運命の神などは……私にいわせれば、男、だな……。ふふ……」
椅子が僅かに軋んだ――。