見えざる冷たい手
以前、興猫に案内されたことがあるが……。
闘技場の奥やさらに地下にあたる場所には、かなりの広さの施設がある。
この闘技場は一応は乱獣が管理運営していたものではあるが……。
頼成自身が闘技場の積極的な運営から遠ざかり久しくなっては、ここでのランキングの上位者――。
興猫をはじめとするフリーの闘技者らが主導になって改築や増築を行っていくようになって以降は、当の乱獣ですらも全体像を把握し切れていない程の変貌を遂げていったそうだ。
(その闘技場が、いまや対頼成の砦となるのも……これはまた皮肉、というものか……)
「……………………」
「平気か、勇」
「あ、はい……」
勇は気丈に笑みを見せようとするが……疲労の色は濃い。
「無理をするな。休めるときに休むのも必要だ」
「はい……。でも、おかしいな……。いくら緊張してたっていても、こんなに疲れてるって……」
その勇の言葉を、強がりでないことを、俺は知っている。
いるが……。
「……気づかないうちに疲労が溜まっているということは、ある」
「そ、そうですね……」
俺がそうも言えば、勇は一応に納得をしてくれる。
それは俺を信頼してくれているということの現われでもあれば、有り難くも感じはする。
しかし、このままではいずれ――。
「む……」
廊下の先からこちらに歩いてくる人影――。
「乱世さん……?」
俺は……反射的にその『女』から、勇を庇うようにしてしまっていた。
「……………………」
「牙鳴……遥、か……!」
「……久しいな」
成る程……これが俺が驚く『顔』ということか。
(確かにな……)
「聖徒会の……副会長さん……?」
「勇……!」
無防備に会釈をしようとした勇を、背に庇う。
「え……?」
当の勇は、不思議そうな顔で俺を見返していた。
「……何をそう、警戒する?」
「………………」
「乱世……さん……?」
確かに――。
勇からすれば、ここにこの女……牙鳴遥が居ることは、そう不思議に思うことでもない。
頼成が聖徒会を掌握した以上、それを奪還しようとする対抗勢力と目的が合致し、手を組むことそのものは、むしろ自然なこと。
しかし――。
「お前こそ……なぜ、こんなところに居る」
「知れた事だろう? 私は……聖徒会を、そして……姉を助けなければいけない」
「……お行儀な返事だ」
「ふふ……どうかな?」
「お前が……いや、俺が識るお前が……況やその目的に於いてをや、それでもここで俺たちと合流し、手を組むものとは思えない」
「随分と高く買われたものだな。しかし……私も女だよ。そうそう……何もかもを自分の手でとは思うまい?」
「それこそ笑止なことだ」
「ふふ……」
矢張り――。
この女は明確なことを識って、識った上で此処に居る。
「乱世さん……? ちょ……どうしちゃったんですか? おかしいですよ……」
勇は訳も判らずに、困惑したまま俺に問う。
彼女に言われるまでもなく、俺が目の前の女に向けていた姿勢は必要が以上に剣呑すぎるものになってしまったのだろう。
判ってはいるが……。
「体裁は無用か?」
「………………」
「知って……お前は知ったうえで、その女と居ると見ていいのだな」
「え……?」
突然に視線を向けられた勇が、目を瞬かせる。
「その……忌むべき、はじまりのおんな、と……」
「わ、わたしが……? なに……?」
「……関係ない。耳を貸すな」
「で、でも……?」
「いいから……! 聞くな!」
「乱世さん……?」
「ふふ……」
「……笑うか」
「可笑しいさ……! お前のその態度が滑稽だからな!」
「……………………」
「貴様の立場にすれば必死も判るが、その態度こそ、認めうるものだということくらい……判ってもいるだろうに」
「……黙れ」
「言うさ……! いまや私にもその権利がある」
「黙れ、と言う」
「ならば貴様が言えばいいだろう。全ての元凶が何処にあるか……! 何を憎むが正義であるか……!」
「黙れッ!」
「…………!?」
俺の剣幕に、勇が怯えるのを感じる。
それに……その俺への態度に、どこかがずきりと痛むのを感じるのも……今の俺だ。
しかし、だからこそ……!
「言えば……ここで口をふさがねばならん」
「物騒だな?」
「間尺に合わぬものでないと……それも識っているのだろうに……!」
「如何様、もっともにな」
アクセラのギアを急速に上げる。
「…………!」
勇もその俺の気配を察し、尚に怯えるようにもするが……。
過剰な反応ではない。
「………………」
ヤツもまた……剣を抜いている。
実に際して、腰のものを抜き、放ったのではない。
それどころか……唾に手をかけすらもしていない。
然し……それでも目の前の剣鬼は抜いている。
それは、先のように実際に剣を構えたということなどよりも、ずっと……怖ろしいこと。
白刃を喉元に突きつけられるよりも――。
否、その切っ先が実際に喉を貫いていようとも、感じ得ない恐れ――憎悪――。
怖気走るほどの、ナマの殺気。
「ふ」
小さく息を吐き……殺気を解く。
「貴様も本気……否、正気、と謂うべきか?」
「………………」
お前もな――。
その言葉は喉を出ぬ。
俺は未だに、闘いの姿勢を解けない。
そういう意味に於いては――。
(俺は……この女に遅れをとっている……!)
「疑念は尽きぬが……とまれ、当座の目的は同じだ」
くるり、と踵を返す。
「ならば……ここで消耗するのも馬鹿が過ぎるな?」
「あ、ああ……」
「ふ……。急くなよ。そんなことは……せんよ」
女は……元に来たほうへ、歩み行く。
「そんな真似をして……志もない、頼成などという小物に楽をさせるのは……冗談でもないことだ」
「………………」
「共に目的は果たすさ。当座のな……当座の。ふふ……」
牙鳴遥はそのまま、施設の奥へと消えた。
「………………」
俺は……息をつくようにして壁に背を持たせかけ、尻餅をつく形となった。
「乱世さん……!?」
「大丈夫だ……大丈夫……」
大丈夫などでは、ない。
目に見えぬ汗……そして緊張による痺れ……。
(俺は――)
こんなことは……生まれてこっち、幾度もない。
(俺は……弱くなっている……)
気づかぬ振りをしていれば、やり過ごせるものかと思っていたが……こうも早く、直面させられれば……そう、弱音を吐きたくもなる。
何かを諸手に持つ……支えようとすることが、こうも……自分を惰弱にさせるものとは……。
(椿芽……お前はこんな風にしながら……居たのだな、いままで……)
「乱世さん……」
「……すまない。少し……このままさせてくれ」
「は、はい。それより……」
「………………」
「さっき……あの人が言っていたことって……?」
「……なんでもないことだ」
「で、でも……!」
勇は食い下がる。
それはそれで当然のことだ。自分が……ああも名指しされた話なのだから。
しかし――。
「聞くな……!」
「…………!」
勇が……びくっ、と体を震わせる。
また、だ――。
実感にも等しい痛みと……そして悔恨。
「す、すまない……。つい……」
「い、いえ……。でも……」
「勇……」
「あ……!」
俺は……勇の腕を取り、やや強引にも過ぎる力で、彼女を抱き寄せた。
「………………」
「………………」
勇は……身を任せてはくれていたが、僅かな緊張を解いてはくれない。
当然だ。それは……。
「……こんな誤魔化し方は……ずるい大人がすることですよ……?」
「そうだな。そうだが……そんな器用ではない」
「知って……ます」
「そうか……」
何かを守るということ……。
そんな、人間じみた目的が、あるのなら……。
「すまないな、勇……」
「いえ……」
それなら……苦痛であろうが、惰弱であろうが……。
全て受け入れて、それを果たそう。
「わたし……」
「……?」
「聞きません。いまのことも……もしかしたら、乱世さんが……何かを隠し続けているとしても……」
「………………」
「あなたを信じてるというだけじゃない。わたしは……」
俺の腕に巻かれ、窮屈そうにさせられながらも……俺を見られるように顔をよじった。
「わたし……弱いから……」
「勇……」
「だから……知らなくても、いい……」
「………………」
求められるがまま……唇を重ねる。
それで――いい。
いいんだ。
欺瞞をしているのは……俺のほうなのだから。
しかしだからこそ――。
「勇……」
「乱世……さん……」
だからこそ……俺はきみを愛することだけに勤めよう。
全ての不純物を削ぎ……ただそれだけのため……。
それは、なんて……幸福なことであろうか、と。
そう――やはりに――自分をそうして欺瞞しながらも……。