繋がれた女
必要以上に重い扉――。
(いや――)
ここに収監されている者の本来の力を鑑みれば、この世界において充分と思える扉があるかどうかも疑わしい。
しかし……いまや、『彼女』は最低限の拘則で充分な程に堕している――。
(少なくとも……頼成はそう思っている、か……)
とまれ私は、その扉を潜った。
部屋の奥に繋がれているのは――牙鳴円。
いまやその身には刀はもとより、一枚の衣服さえ身につけてはいない。
部屋に満ちるのは……淫臭。
汗を始めとする様々な体液のニオイに満ちている。
その臭気の元こそは、目の前の牙鳴円なのだ。
かつてこの学園最高の剣士は、いまやこうして拘束され……戯れに頼成はじめ、乱獣の男どもに陵辱されている。
身の内も外も汚された学園最高の剣は、ただただ……様々な汚れにまみれ、いまは意識を失っているように見える。
※ ※ ※
あのとき――あの、学園が文字通りに揺らいだあの決起の時。
『……歯ごたえが無いな。それが……学園最強の剣か』
頼成に指示され、私は牙鳴円の制圧に向かった。
『フフ……。判っていたこと、でしょう?』
『……そうだがな』
『私でも……未来を見透かされては……手のうちようがないもの?』
『観念……? ちがうな。策……でもないか』
『そのちから……誰に齎されたか、知っているの?』
『……これは私の技、だ。鳳凰院の――』
『あなたは違うって、知ってる』
『戯れるのか、この後に及んで……』
『狂言回しは必要よ?』
『聖徒会の……学園のトップが、道化を?』
『残念だけど……貴女は、彼女にはかなわない』
『頼成はお前に執着しているが……こちらは、場合によっては鱠に刻むことも許可されている』
『……無理よ』
『できぬことであるかないか――』
『心を殺し……毀れた真似をしてみても、貴女は彼や彼女には追いつけない』
『何と……?』
『ふふ……貴女は人間……。ヒトが過ぎるもの……』
『……やはり、戯言か』
『人は何かを失えば……いいえ、失うことによって強くなる。得ようとするものは、執着を増やし……弱くなるだけ』
『………………』
『強さを得る、最善の方法は……人が人であらんとする……心を壊すこと。ふふ……わたしのように』
『その……強さが、この様か』
『そうね。一言もないけど。ただ……仮令毀れても……無い者ほど純粋にはなれない』
『な、に……?』
『最初から持たざるもの……いいえ、いまでも厳密には何も持たぬもの……。それに貴女は勝つことはできない』
『あの娘が……そんな大層なものを? はっ……。事情を知っていると話させておけば……面白みもない』
『気づいて……いるんでしょう?』
『ふン……』
『全ては彼女の思惑の……望みのままに動いている』
『なに……?』
『あなたは未来を視る。だけど彼女は……未来を決める。だから……貴女たち……いいえ、彼とともにある』
『……黙れ』
『そして……ふふっ……ふふふふっ……』
『い、謂うな……!』
『ふふふふ……。結果的にぃ……貴女も、ここに……あは♪ こんなとこに……居るぅ! は、はははははッ!』
『うるさいっ……! これは……これは私の意志だ! 私が自らの意思で、そう……!』
『箱庭の蟻さんが……それを観察する人間を認識することができて?』
『な――謎かけは……たくさんだ……!』
『確かに貴女は未来が見える。その力はまだまだ伸びるのでしょうね。おそらく……早晩、ラプラスの悪魔に近しい――いいえ、そのモノにすらも』
『……………………』
『同じジャンルで称すれば……貴女はアレね。シュレディンガーのにゃんこ♪ 論理のことじゃなく……箱の中の猫そのもの……』
『わ、わたし、が……?』
『箱の中の猫が生きているか死んでいるか……それをこの世で唯一知っているのは……その猫自身』
『な、なにを……何を言いたい……!』
『だけど……。だけど、猫は……猫自身は外の世界を知りえない。どうして箱の中に居るのか……何をされているのか。そして外にはまだ人が居るのか。識っているのは……自分が生きているか死んでいるかのひとつだけ……。たったひとつの……確かな事実』
『け、煙に巻こうとしても……! 往生際が……』
『だけど……『彼女』は猫を生かすことも殺すこともできる。実験の意味を知らないまま……ただ、その生殺与奪だけを決めることができる……ううん? ともすれば……箱に猫を入れるか入れないかまで……決めてしまえるのかも? 猫ちゃんを殺しちゃうなんてかわいそう! ……って?』
『く、くだらぬっ……!』
『……彼女の純粋さ……。心をもたぬ無垢さで……私たちは生きている……生かされているのよ? 運命の女神? 違うな……運命の天秤たる彼女のバランスによって……』
『……もう……聞かぬ』
『怖いの?』
『こ、怖くなど……!』
『ふぅん? それじゃ、貴女は……貴女の心は、やっぱり偽者なのね』
『何を……!?』
『ふふ……。いいじゃない。それなら……覗いてみれば? できるんでしょう……未来を』
『………………!』
『あら? ひょっとして……もう、既に?』
『だ、黙れっ!』
『あの女が――』
『だ――』
『彼と――』
『だ、黙――』
『彼と結ばれる、幸せな結末を――! きゃはははははははははッ!!』
『う……うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!』
※ ※ ※
「……………………」
白昼夢のような……記憶の濁流から目覚めれば……。
現し世にあるのは、やはり……言葉もたぬ肉の固まり。
不快な臭気を纏わせた……ただの、繋がれたおんな。
もはや牙鳴円は私に何も言わぬ。
(道化は……私か……?)
そのとき……携帯が鳴った。
「私だ。…………なに? そうか……判った」
手短に電話を切る。
「……………………」
もう一度……言おう。
私は……早晩、あの男にすらも捨てられる。
だが……それでも、だ。
「……使われている以上は……責を果たさねばならない……そういうことか」
鍔に手のひらをかけ……踵を返す――。
(ふふ……)
「…………!?」
刹那、円が哂った、と見えたが――。
見えた筈だが――。
振り返るも……そこには只の女の成れの果てが繋がれるのみ。なんら……表情とも呼べるものをその面差しに持たず。
「………………」
改めて、踵を返す。
もはや……ここには来ることもあるまい……。
せなばならないことは……多すぎるのだから。