誘惑
それから小一時間後――。
「あう~」
「もう手続きも終わったんだ。いつまでもウジウジとしているのは男らしくないぞ、茂姫」
「だーかーらー! 茂姫はおにゃーのこだっちゅーのに! んでも……ま、さすがに気持ちを切り替えたもき。茂姫はさっそく、今の寮からの引越しの準備をしてくるもき」
「そうか。いい心がけだ。それじゃ椿芽、俺たちは先に……その、Zランク寮だかに行っておくか」
「……私は、ちょっと空が見たい」
「なんだ。お前までそんなアンニュイな顔を」
「いきなり最下層に放り込まれたのだ! それは……あんにゅい、にもなる!」
椿芽は再度、俺に食いつきそうな顔をするが……。
「椿芽……」
「……と、いいたいところだが……。まぁ、それだけではない。流石に……この校舎にまだ慣れぬ。普通に新鮮な空気が吸いたいだけだ」
「……そうか?」
「ああ。案じてくれたのなら、それは感謝もする…………もっとも、お前に案じられるというのも、それはそれでどうにも情けないがな」
苦笑するようにして……椿芽は行ってしまう。
「屋上にでも出てみようと思う。後で件の寮には向かう。それでは、な」
「……………………」
俺は……ぎりぎりまで迷ったものの、とりあえずその場は見送ることにした。
そこには、椿芽の力への信頼もあったものの……。
ここに来る前あたりに師匠――つまるところ、椿芽の祖父殿が言っておられた『あいつも年頃だ』などという言葉も多少はあったのかもしれない。
……俺には良くわからないことだが。
「アニキアニキ」
「うん? なんだ」
「椿芽の姐さんは、なんかワケありもきか?」
「ほう、判るのか?」
正直そういう人間の機微に敏感なタイプにはとても見えなかったが……。
「まー……そりゃ、Zランクとか超多額の負債とかはあるもきけど……この学園に来る人間って、男女問わず、あんまし深く考えないタイプが多いもきからねー」
「ああ、そういうことか。まぁ……クラスをざっと見渡しても、三歩以上の記憶を刻んでいられそうなタイプは少なかったな」
「そういうこともき」
「……いろいろあるんだ。あいつには」
「いろいろ、もきか?」
「ああ。強いて言えば古いタイプなのだな。あいつは」
「はぁ……」
もちろんそれが好ましい、と俺には思えるのだが……。
「ま、いいもき。とりあえず茂姫はとっとと準備してくるもきよ」
「そうか。それでは俺は先に寮とやらで待っている」
「アニキ、判ってるとおもうもきけど……学園はバカみたいに広いもき。迷子にならないでもきよー」
「子供じゃあるまいし……そんなワケ、なかろう」
「ま、そうもきねー。手帳には地図もあるもきしねー」
「そういうことだ。それじゃあな」
※ ※ ※
「……まずいな」
もう一度……手帳を操作し、地図を表示する。
ふむ。
毎度、この手の状況で思うことなのだが……。
地図というものは、自分が実際にどの場所に居るか、そして引いてはどう迷っているかの状況がわからないと、ただのラクガキだな。
「陽が落ちていくのが、あちらの方向だ。ということは……北はこっちか。いや……待てよ。おお、大きな発見だ。この赤い三角形は、自分の現在位置か。ほう。これは気づかなかった。大きな躍進だ」
そういえば先ほどから、俺が歩く度に共に動いているな、とは思っていたが……。
「ふむ。経験則からすると……これならあと数時間でこの状況から脱出できそうだな」
危なく、茂姫に言われたように『迷子』などという情けない状況に陥るところだった。
迷子などというものは、自分が認めさえしなければその状況に該当しないからな。
「あら……天道くん。さっそく迷子?」
「……………………」
振り返ると……そこには晴海先生。
「困ったものねぇ。まぁ……でもさすがに初日じゃ仕方ないかしら」
「俺は……認めていない」
「え?」
「いや……。先生の判断に異をさしはさむようで申し訳ないが……現状の俺は、ただ現在位置が不明瞭で、目的地への方向が不確定で、今まで通ってきた道順も失念しただけだ」
「……それを迷子って言うんじゃない?」
「うち現在位置及び、方角に関しては暫定的ながら解決に向かっている。すなわちこれは先生の言う状況には該当しない。少なくとも俺の認識では」
「やれやれ……」
先生が苦笑する意味が全く以ってわからない。
「そうだ……。暇なら、ちょっと先生のお手伝いをしてくれないかしら。そうしたら、先生が道案内してあげるから」
「だから俺は迷ってなどは……」
「それはわかったから。ね……どう?」
「暇……という訳でもないのだが……」
基本的には、俺はあの二人と寮とやらの前で待ち合わせをしている。
……が。
時間を見れば、二人と別れてから、ほぼ一時間かそこいらだ。
茂姫はともかく……椿芽の奴であれば、過去の経験から俺が合流する時間には、前後3時間は余裕を見ていることだろう。
ならば、まだ全然、時間はあるな。
「いいだろう。先生という立場に貸しを作っておく、というのも悪くはない」
「はいはい……。ここは借りに思っていてあげるわ」
晴海先生は、またも……何故か苦笑してそう言った。
※ ※ ※
「んっ……ちゅっ……んむっ……ん、ふぅっ……」
人気のない教室。ここに連れられた刹那、晴海先生は唐突に俺に唇を重ねてきた。
「んふぅっ……。ふふ……どうしたの? こういう経験は……ん、ちゅっ……あまり無い? 驚かせちゃったかしら……ん、ちゅっ」
「確かに多くはないが……そういう意味合いではなく、驚いてはいる」
「ふふ……どんな風にぃ? 先生の魅力にドキドキしちゃった?」
「……世には珍妙な『お手伝い』もあったもんだなと」
「まぁ、憎らしい……ん、ちゅぅっ……」
尚も俺に唇を重ね、積極的すぎるほどに舌を絡め、唾液を流し込んでくる。
「うふふ……もちろん、この程度じゃ終わりにしないわ……? ねぇ?」
体を密着させ、俺の手を取り自らの下腹部に添えさせるようにさえしてみせた。
「……………………」
「どうしたの? もしかして……先生に幻滅しちゃった?」
「いや。この程度で幻滅などしない。ただ……」
「ふふ……ただ?」
「ただ……少しだけ、あんたの事が見えてきた、くらいだ」
「ふぅん? 悪い印象じゃないといいんだけど……」
「悪くは、ないか」
「ふふ……そうでしょうね」
満足げな表情で笑みながら、女教師は俺のそこかしこを弄るように愛撫してくる。
俺はその行為にただ身を任せるようにしていたが――。
「……………………」
やがて――。
「天道くん……?」
「…………」
「ふふ……そろそろ……いいよう、ね」
先生は、確認するように俺の顔を覗き込むと……くすくすと嗤う。
「それじゃ聞かせてもらおうかしら。天道乱世くん……貴方がこの学園に来た目的は?」
「…………………………」
「天道……くん?」
俺が『命令』に従わない事に、晴海先生は僅かに眉を寄せ怪訝な表情を浮かべた。
「真実の血清……か。骨董品を使っているものだな」
「…………っ」
慌てて俺から離れようとする先生の腕を、捕まえる。
「い……痛いわ、天道くん……!」
俺は無視して続ける。
「もっともかつてその名を冠した薬物よりはずっと洗練されてはいるが……。ふむ、これはアルカロイド系の成分か」
「………………」
「純度はよくない……いや、これは意図的に調合したがゆえ、か。これは……興奮剤、媚薬の類か?」
「天道……くん……」
「ここまで配合を変えていればほぼオリジナルと言って差し支えはないのか。とまれ、ベラドンナ抽出物を基とした自白剤、だな」
「……………………」
「かつてこの系統を用いた独裁国家の其れに比べ、致死量はじめ身体への影響そのほか、危険度が低いのは……流石に人道的な意味合い、か?」
「なんの……ことかしら」
「次からは、致死量を使うほうが、いい」
言って、俺は独特の色に濁った唾液を教室の床に吐き捨てた。
最初に唇を重ねたときだ。
効果が抑えてある分、効き目が出るまで時間を稼がねばならなかったのだろう。
「粘膜からの吸収摂取程度であれば……影響は制御できる」
「なるほど、ね……。それで『あんたのことが見えた』か……」
先生は、観念したかのように笑みを浮かべる。
「教師に編入初日に一服盛られる心当たりと、理由までは判らないが、な」
「そろそろ離してくれないかしら? 痛いのは……本当よ?」
「ああ」
俺はつかんでいた腕を離す。
「もっともその気になれば、自分で振りほどくこともできたろうが……。専門は銃器かそれに類する軍属の戦闘術のようだが」
「さすがね」
「まだ茶番を続けるつもりか? その程度の曖昧な判断なら……見ただけでも判る程度のことだろう」
「ふふ……そうね、過小評価は謝るわ」
言いつつ……手早く乱れた服を整える。
「目的は……」
「……?」
「俺の目的と聞くのであれば、あいつの……椿芽の付き添い、だ。それ以上、それ以下でもない」
「え……?」
「身長は170センチ、体重は……いや、その辺りは書類を信用してくれていい。他に聞きたいことがあれば、普通に答えるが」
「……それを……信用しろって?」
「真実である以上、信用以外の担保は無いな」
「そうかしら……?」
「俺にもそっちの目的を聞く権利くらいはありそうだが? 同じく信用以外に担保がなくとも、だ」
「この学園には、良からぬ目的を腹に入ってくる輩も多いわ。その……テストのようなもの……」
「俺はめでたくその……良からぬ輩に認定された、と?」
「それはそうよ……というのは、行動を正当化するにはちょっと傲慢かしら? でも過去の記録も実績もほぼ皆無に等しいあなたのような人が入学してくるなら、それは普通、怪しむわ」
「記録や実績が無いのは、実際にそれが無いからだ。それに俺は呼ばれただけのことなんだがな。椿芽のついでに」
「ついでで召集されるほどには、この学園の門戸は広くないのよ?」
「それこそ、そちらの問題じゃないのか? 呼びつけて疑われるのは……流石に理に合わない」
「それは道理ね。でも……」
「……?」
「この学園にしても、意思はひとつではないのよ。こうも大きくなれば……」
「……思惑もひとつではありえないと? そしてその別の思惑が俺を呼んだ? 筋は通らなくもないが……それに巻き込まれた俺は災難だ」
「ふふ……。それはそうね。一応、謝っておくわ」
「謝るということは……信用を担保としていい、と?」
「だから『一応』……なのよ」
「なるほど。もっとも実際、こちらも多少は愉しんだのだしな。それでとやかく言うのは、男としてはむしろ間抜けか」
「どっちにしても、納得してくれるなら助かるわ」
「ただ……」
「ただ……?」
「あいつには……椿芽には、手を出すな」
「……いきなり語調が強くなるのね」
「……………………」
「あら、怖い顔。心配しなくても彼女は動機にしても明白だわ。自らの家と流派の復興……」
「そうだ。その目的を果たさせてやるのが俺の目的と言えば目的だ。それを邪魔するというのであれば……」
無意識に目が細まることに自分でも気づく。
「……看過はできない」
「ふふ……。本気、ね。ひょっとして……」
先生は、俺にどこか意味ありげな視線を送り、それから勿体をつけるようにしてから……。
「彼女……恋人さんなのかしら?」
などと言った。
「……………………は?」
「……そんなに心底意外そうな顔、しなくても」
「いや……正直、意外だったが。そう、か……あいつも性差で言えば、女性か。それならば第三者的にはそういう関係性に見えうることもあるのか。なるほど……」
「ま、真顔で言うのね……。それは……さすがにちょっと……」
「いや……今まで気づかなかった。ふむ……なるほどな」
「いいわ、もう……。なんだか鳳凰院さんが可哀想になってくる……」
「可哀想? なぜだ?」
先生はそれ以上は答えず、ただどこか呆れるような視線を向けてきていた。
心外な。何故、この流れで呆れられねばならない。
「まぁ、いい」
俺は服を整えると、そのまま教室を出ようと立ち上がる。
「あら、行くの? 本当に私の言葉を信用した?」
「こちらを一応にでも信用したというのなら、こちらも信で返すのが道理だ。それに……」
「それに?」
「もともと、一筋縄で行く場所とも思っていない。この程度なら真実、娯楽のうちだ」
「ふふ……それはそう……かもね」
「寮はどっちだ? 約束通りそれは聞かせてもらってもいいはずだな」
「ここを出て、右に突き当たるまで行けば、寮のある区域側の出口に出るはずだわ」
「ふむ。助かった。ありがとう」
「あ……天道くん……!?」
教室を出たところで……先生が呼び止めてきたが……。
「世話になった」
俺は振り返らずに言って……教室を出た。
彼女の真意、そして目的に『信用』以上の確証が持てない限りは……あまり長く接していてメリットはないだろう。
少なくとも、これでそうそう容易には手を出せない、油断のならない相手であるとでも思ってくれれば椿芽への余計な影響も減るかもしれない。
「さて……」
俺は先生に言われたとおり、寮に向けて、『左』に歩き出した……。