牙鳴の、妹
「斯様な場所にまで足を向けてしまうとは……」
苦笑交じりに言葉を漏らす。
学園市街地の裏路地……。
先刻までの道筋にはちらほらと姿を見せていた下世話な店店の客引きや、街娼の類も、ぱったりと見えなくなっていた。
「私のこの身なりでは当然か……」
聖徒会役員の聖服――。
抜き打ちの取り締まりにしては私一人という時点でまず在り得ないこととも思うが……。
彼らにとってはそこまで考える余地も無い事なのであろう。
立場と、それに伴う身なり……。
それにより、こうも人は変わるものか。
数年が前までは、姉妹共々にむしろ彼らと近しき――。
……いや、彼らなどよりも、尚、卑しい場所に居たというのに……。
「……………………」
再び、周囲をぐるりと見渡す。
殊に意識もなく、ただ歩みのままに来たものとはいえ……。
我ながら、矢張り愚かしいことだと思う。
あの男が――。
ここ数年に渡って、目撃証言どころか、その噂すらも耳に届かなかったあの男が、こんな場所に姿を現す筈もない……。
「判って……判ってはいたことだが……」
それでも……いや、それだからこそ、私はこうして、あてもなくただ足をさまよわせているには違いないのだが……。
他に目当てや心当たりなぞがあるはずもない。
だからこそに――。
「――――?」
その気配は――突然に背後に現れた。
気を張っていなかった、などということではない。
本当に忽然として、背に現れたというほかは、ない。
「久しぶりだね……牙鳴の妹くん」
「きさま――」
私が――
「探していたのは……僕なのかな?」
わたし、が――
私が……幻視か何かの類と感じえたのも、無理からぬことだ。
「なぜ……?」
その『何故』は幾つもの意味を重ねて持っていた。
何故――ここに。
何故――いま。
何故……私の前に。
「うん……? 何故ってことは……お望みは僕じゃなかった?」
「い、いや……」
「もしかしたら……直接、『彼女』を探していたってことも……あるまいね?」
「………………」
それは――そうだ。
私には、そんなことは……できない。
『あれ』と……直接に対峙することなどは。
「ふふ……」
「な、なぜ――」
なぜ――笑う。
「また……何故? ふふ……きみには疑問が多いんだね。あの時と変わらず……」
「い……言う、な……!」
その言葉は、牽制はおろか……勢いすらも乗っていない。
ただ……怯えた心、素のままの……言葉。
虚勢の態すらにもなっていない。
「ごめんね」
「え……?」
「からかったんだ。あまりに……久しぶりだったからさ。妹くん」
「………………」
「……辛い思い出を想起させてしまったのなら、素直に謝るよ。だけど……」
彼は……まるで滑るような足取りで、近づいてくる。
そして――。
「だけど……あの男の慰み者となっていた君と彼女……。そこから開放をしてあげたのは……僕だ」
そして……私の髪に、触れた。
「あ……」
あのときと同じく……やさしい指先で……。
「そして……その過去があればこそ、彼女は……姉くんは人を超えた……。それを忘れてはならないよ、きみは……」
「いうな……」
私の声には……もはや、怯えもない。
濡れて、いた。
心ごと……その感触に。
「いわないで……」
「……ああ。きみが嫌がるなら……しない」
こうして触れれば……私はもう、虚飾も怯えも……それ以外のなにもない。
わたしは……やはり、この人の焦がれてる。
「全部……知っているよ、妹くん……」
「は……い……?」
「きみが何を畏れ……どうして僕を探していたのか」
「あ……あぁ……」
喉から漏れるのは、熱い嘆息……。
明らかに発情をしている私は……まるであの頃の卑しい少女に戻ってしまったかのようだ……。
「しかし……こと、ここに及んで……きみや彼女、そして……僕もできることは少ないんだ」
「姉様や……あなたも……?」
「そうだ。既にすべては……彼女と、そして……彼女が求めた彼が、決めること」
「それでは……やはり、彼女が……」
「そう。運命を決定する女神……そして、『はじまりの娘』だ」
やはり――。
そう、なのか。
だとすれば、私は……。
「……今日は何もない、至って平穏な一日だった――」
「え――?」
「手馴れた詐欺師か……手に負えない正直者なら、きっと……そう、この日を称するのだろうね」
彼がそう言った刹那――。
「――――!?」
激しい爆発の音、そして衝撃が――。
「……始まったね」