揺らめく炎を前に
日が暮れてからもしばらくは走ったが……。
流石に自転車に装着されたライトだけが頼りでは心もとく無くなり、この森林地帯の只中で野営をすることとなった。
もっとも、椿芽はそれでも先に進もうとして……半ば無理矢理に下ろした感があるが。
「椿芽……」
野営の火を挟み、俺は今日の件を問いただそうとするのだが……。
「言うな、乱世」
椿芽はぴしゃりと制止してくる。
「しかし……」
「判っている。自分でも……重々に」
布で刀身を巻いた愛刀、小豆長光を抱えるようにしながら……椿芽はぼんやりと火を見詰めたまま、言う。
「わかっている……」
「……………………」
「少々……焦っているのかもしれない。それは認める」
「焦り、か? 本当に……」
「ああ。焦り……そうだ。焦りには……違いない」
「……………………」
「嘘は……つかない」
「椿芽……」
「私はお前に……嘘はつかない」
「……わかった」
「……………………」
「先刻、少し先に川をみつけた。水を汲んでこよう」
俺は水筒を持ち、腰を上げた。
「乱世……」
腰を上げかけた俺を、椿芽は視線を向ける事もなく……呼び止める。
「どうした?」
「……………………」
「椿芽……?」
「いや……いい。すまなかった……」
「………………」
気にはかかったが……俺はそれ以上、追及はしなかった。
※ ※ ※
川へと向かう途中……。
「あ、いたいた。乱世……みっけたよ、椿芽の鞘」
木陰から姿を表した興猫に椿芽が落とした鞘を差し出される。
「おお、興猫、すまなかったな」
「まったくニャ。選手でもないのに……そろそろ秋にも差し掛かろうって季節に水泳なんてさ。へくしっ……!」
「すまないついでに……椿芽に渡しておいてくれ。この先だ」
「それ、いいけど……」
「なんだ?」
「あくまでこれ、届けてくるだけだよ、あたし。それ以上のフォローはできないから。専門外だから」
興猫は、それまでの口調を変え、真剣な顔で俺にそう言う。
彼女もやはり気付いていたか。
「ああ……わかってる」
「ま-、仮にやってみたトコで、あたしが言ったとこで、どうもならないって思うけど……」
「そんなことはない。あいつが何らかの壁に突き当たって焦っているというのなら……」
道は違っているとしても、実力者の言葉に何らかを感じることもあるかもしれない。
まして興猫のように、椿芽とはまた違う強さを求めてきたものならば――。
「……………………」
「……なんだ? そんな……呆れたような顔をして」
「なんだかなぁ……」
「?」
「ま、いいわ。どっちみち……やっぱりあたしには専門外だし」
「なんの話だ?」
「いいのいいの。ともかく……あたしはこれ渡したらさっさと行くよ。聖徒会の運営部隊にでも見つかったら面倒だし」
「ああ。助かった……恩に着る」
「そんな殊勝なこと言うんなら、とっとと椿芽のトラブルのほう、解消してやってあげてよね。ほんじゃ」
言うなり、興猫は来た時と同じように闇の中に姿を消した。
「俺が……?」
確かにそうしてやりたいのは山々なのではあるのが……。
(専門外……。それこそ俺には、だな……)
※ ※ ※
簡単に食事という名の栄養補給を終えると……椿芽は素直に眠ってくれた。
既に、行程の半分ほどには達している。
それならば……無理をしてでも走る、などと言い出すのではないかと……。
それをどう説き伏せるべきか、食事の最中にも思案していた俺にとっては、肩透かしでもあるが、安堵でもある。
(休息を取れば……頭も冷えるかもしれん)
そう思うのは、短絡ではある。
しかし……。
翌日には、選手同士の闘いも頻発することだろう。
それも、これまでの小競り合いで淘汰が進んだままに先行する、実力を伴う先頭集団との闘いがメインだ。
力押しのみでは乗り切れない。
冷えた頭でなければ……上位は狙えまい。
そのようなことを俺が思案していたとき――。
『乱世さん……起きて、ます……?』
念のために付けっぱなしにしておいたインカムから、控えめな羽多野の声がした。
「ああ。何か……アクシデントか?」
『い、いえ……そういうことじゃないんですけど……』
「ふむ?」
『あ、あの……椿芽さん、は……?』
「ああ。今しがた眠ったところだ」
『そ、そうですか……』
「ああ。今日はちょっと張り切りすぎだったからな。疲れもあったんだろう」
『張り切りすぎ……ですか……?』
「ああ」
羽多野に心配をかけてもしょうがあるまい。俺は……あえて、そう断じた。
『乱世さんは……眠らないんですか?』
「ん? まぁな。火も見ておいたほうがいいとは思うしな」
一応、周囲の安全は確認したつもりだが……。
茂姫の話ではトラップとして大型肉食獣などが放たれているということも聞いている。
警戒しておくに越したことはないだろう。
『大丈夫ですか? 眠っておかなくて……』
「ああ。一晩程度なら、問題ない」
むしろ俺の場合は仮眠程度であったにしても、ここで精神を休めないほうが調子はいい。
体力は動かず居ればそれなりに回復もする。
それよりも……緊張感を途切らせないほうが、肝要だ。
まして、椿芽の今日の様子を鑑みれば……。
『あ、あの……それじゃ……』
「うん?」
『ちょっと……お話……してもいい、ですか……?』
「ん? ああ……それは構わないが……羽多野のほうこそ、大丈夫なのか?」
『ええ、いまは……茂姫ちゃんが寝てますから、私が起きてなきゃいけないですし』
『んがー。んにゃんにゃ……。もー食べらりないもきー……』
……言われてみれば羽多野の背後で、アレの寝言も聞こえる。
「仕方ないヤツだな、あいつも……」
『ふふ……。でも……茂姫ちゃんも今日は頑張ってましたから……』
「ああ。それは……一応、認めてはいるがな」
興猫に椿芽の鞘を捜す件も、ちゃんと頼んでおいてくれた事だし。
「それで……」
『?』
「何を……聞きたい?」
『え? わ、わたし……?』
「ああ。ボロが出ないうちに言ってしまっておくが……俺は正直、世間話のようなものは苦手だ」
『あ……はい。それは……知ってますけど』
「……いきなり手厳しいな」
『え? あ……! そ、そういう意味じゃ……ないんですけど……』
「いいさ。実際、自覚していることだ。つまらない話で退屈させてしまうよりは……羽多野に話を振ってもらったほうが、まだしもいいかもしれない」
『そ、そうですか……。それじゃ……』
羽多野はちょっと考えるようにしてから……。
『乱世さん……』
「ああ」
『乱世さんって……子供の頃は……どうだったんですか?』
「どうだった……と言われてもな」
気付けば椿芽と共に修行に明け暮れていた。
そういった話が羽多野に面白いとは思えない――と、やや躊躇したのだが……。
『あ……ほら……どこに住んでたとか……』
羽多野は、質問が曖昧すぎた、とでも思ったのか、さらに呼び水を向けてきてくれた。
『考えてみれば……私って、乱世さんに関して、そんなことすら知らなかったんだなぁ……って』
「ふむ……。そう言われれば……」
俺も語った記憶がない。
聞かれなかったから、と理由を挙げるのは簡単なことではあるが……。
『だから……教えてほしいんです。乱世さんのこと……』
「羽多野……」
いかんな……俺は。
夏期休暇の例の一件もあるが……。
羽多野のような『普通の娘』は、『聞かれなかったから言わなかった』という、俺の論理ではともすれば知らぬ間に心を痛めることもあるのだと……。
ここ最近の俺は思う。思えるようになっていた。
それは正直、不思議なことではあったものの……同時に不快なことではない。
それがまた不思議でもあったのだが。
「覚えている中で、一番過去に遡っても……やはり、椿芽の家……鳳凰院流宗家での修行の日々だな」
『椿芽さんの……おうち……?』
「ああ。場所は昔、福島と呼ばれていたところとだが……わかるか?」
『い、いえ……あんまり……』
「気にすることはない。この国の分割統治以前の話……俺や羽多野の生まれる遥か昔に呼ばれていた地名だからな」
「位置的にはこの学園からもそうは遠くない。弾丸鉄道一本程度の場所だ。とにかく、気付けば俺はそこで修行に明け暮れていた。それ以前の過去は……前にも言ったが、俺にはない」
『無いって……? でも確か、あのとき……』
「ああ。あの時はああ言ったが……俺も……羽多野、お前と同じように過去の記憶がない」
『え……? そ、それじゃ……』
羽多野の声が、やや明るく聞こえる。
例の『王子様』……。
過去、羽多野のことを事故から救ったという男が俺ではないか、と……。
また希望のようなものが見えてしまったのだろう。
「いや……。そういう期待を無為に抱かせたくなくて……あの時には伏せていたんだが……。あの時にも言ったが、かなり幼い頃のことだ。少なくとも10かそこいらの誕生日は、道場で迎えた記憶がある」
『そう……ですか……』
羽多野の僅かに落胆した声が、かつての胸の痛みを思い起こさせる。
(またあの時の……。しかし……)
しかし……。
あの時のような不安、そういうものは感じられない。
違う種類の痛み――。
むしろ―ー。
(羽多野を救った『王子様』とやらが……本当に俺であれば……などと……?)
そんなことを……俺は思ってしまっていたのだろうか。
『あ……す、すみません! 本当……気にしてるわけじゃないんです。わたし……』
「ん? ああ……」
また羽多野に要らない気遣いをさせてしまったか……。
本当に、いかんな……俺は。
「羽多野は……」
『はい?』
「羽多野はどうなんだ? 子供の頃は……」
それは……気まずさから話題を変えた、ということではあったろう。
「もちろん、覚えている範囲、言って不快にならない範囲で構わないが」
しかし、俺が羽多野のことを……。
彼女が俺に求めたように、俺も彼女に求めた……それもまた、本心でもあったようにも思える。
『あ、はい……。私……北部地域に住んでたんです』
「北部地域……? まさか……」
『はい――』
羽多野が……僅かに言いよどむ気配が感じられた。
『仙台……かつてそう呼ばれていた街……シティ、です』
「センダイ……。ということは……羽多野が巻き込まれた事故、というのは……」
「はい。北部分断戦……『血の桜前線騒乱』の時……」
「そうか……」
かつてこの国の最北だった地域――。
『ホクカイ』だかと呼称された場所。今や独立自治を果たしているその地域を中心に発生した内乱……。
その戦乱で使用された、大規模生物・環境兵器は、北部地域の一部を巻き込んだ。
羽多野が住んでいたというセンダイを含む、かなりの区域が、向こう百年は人がまともに住めない土地に成り果てたと謂われ……。
環境兵器にの影響によって、今も重度の遺伝子病に苦しむ被害者が多数存在するということは俺のような田舎者さえも知っている歴史だ。
「そうか……」
『……………………』
「それじゃ、羽多野……お前も……?」
『いえ、私は……それに巻き込まれる前、家族で逃げる途中で交通事故に巻き込まれたって聞いてます』
「成る程……」
しかし、状況にも拠るが、北部地域の人口を限りなくゼロにしたとまで謂われる、あの悪名高い騒乱から救い出されたというのは……。
羽多野の運が余程に良いのか、もしくは――。
「それは……確かに、『王子様』の仕業、だな……」
――羽多野を救い出したその男が余程の人間か、だ。
『もっとも……全部、後で聞いたことなので……』
「……そうだろうな」
あの事件のことは、ただでも関係者の口が重い。
どういう状況だったかなどとは我が身のことであっても、そう細部に至ってまでは知れることでもないのだろう。
「……すまなかったな」
『え? な、なんで乱世さんが……』
「いや……あまり思い出して楽しい記憶でもあるまい……」
『そ、そんな……』
「いや……やはりすまなかった」
『ら、乱世さん……』
※ ※ ※
――そのとき。
(乱世……)
鳳凰院椿芽は瞑目していなかった。
焚き火に――天道乱世に背を向けて身を横たえたまま、耳に付けていた通信機で、羽多野勇と交わしている会話を黙したまま聞いている。
(…………………………)
(そうか……そうなのだな、お前は……)
(……………………)
(いや……お前は……それでいい……そのほうが……きっと……)
(しかし……)
(しかし、私は……)
(私、は……………)
その先を、頭の中での述懐でありながら、継ぐことができない。
椿芽はそこで初めて、瞼を閉ざす……。
※ ※ ※
『乱世さん……』
「なんだ?」
『知って……ますか……?』
「うん?」
『夏、咲く桜のこと――』
え――?
『血よりも赤い、緋色の桜を――』
それ――は――。
俺が問おうとした刹那――!
『きゃあああっ!?』
『な……なにもきか、おまいら……! ちょ……なにを……!』
「おい……! どうしたっ! 羽多野っ!」
インカム越しに聞こえる、明らかな異常。
何者かが侵入し、乱暴を働いていると思しき騒音……!
「乱世……ッ!」
椿芽も異常を察知してか、飛び起きてくる。
「羽多野っ! おい……どうしたっ!」
『ら……乱世さんっ! た、助け……! いやああっ!!』
「羽多野っ!」
『ククク……』
羽多野の声と入れ替わりに聞こえてくる男の忍び笑い。
「誰だ……貴様っ!? 羽多野に……何をしたっ!」
『なにもしちゃいないさ……まだ、な……』
「なにっ!」
次の瞬間、大きなノイズと共に通信は完全に途絶した。
「切れた……!」
インカムからは……もう雑音しか聞こえない。
「乱世……!」
「ああ。何か……起こっている……!」
それも、あの聞き覚えのある声は恐らく……!