夏季休暇のはじまり
補習の期間も終了し椿芽の恢復も待ち……俺たち天道組はランキングバトルに完全復帰していた。
「しッ……!」
「………………っ!」
早い――。
拳が頬のすぐ側を通り、すぐまた引き戻され――。
「くっ……! ちょこまかと……よく……かわすねッ……!」
何度も何度も、ちょうど俺の皮一枚の隙間を過ぎてゆく。
早い、が……それだけだ。軌跡は読みやすい。
「呼吸とリズムが肝要なボクサースタイルで、お喋りは良くないんじゃないか?」
「へへ……。自分でも悪い癖だと思うんだけどねぇ。どうにも治らないんだよねぇ」
俺の対峙する相手、パンクラス3年の鳥喰実は、一旦距離を置いてから、グローブで頭を掻いて困ったように笑う。
……意外と憎めないヤツだ。
補習期間を開けて一発目のランキングバトル。
対戦相手はパンクラス。3on3の正統ポイントマッチ。
(軍馬銃剣が補習で不参加と聞いたときは落胆もしたが……)
それでも相手側のメンバーはこの鳥喰、そして――。
「ふふ……」
パンクラスのナンバー2とも目される龍崎志摩が椿芽と対峙しながらも、余裕の笑みを浮かべる。
「くっ……」
俺が推し量るに、実力そのものは、『今の』椿芽ならば充分に相手になるレベルではある。
しかし……。
「ふふ……。さすがに期待のルーキー。そうそう簡単に間合いに入れさせてはくれないご様子ですわね?」
「言う……! そっちこそ……こちらに隙を与えぬ癖に」
「あらあら。あまり焦れると、可愛いお顔が台無しですわね。もっと闘いは優雅で華麗であるべき。違うかしら」
「無用だ……ッ!」
距離を詰めにかかろうとする椿芽だが……。
「ほらほら……まぁた、そんなに」
「くぅっ……!」
その所作を見透かしたかのように踏み出す龍崎の一歩。それだけで挙動そのものを制されてしまう。
「ち……ぃッ!」
「うふふ……」
流石は場数を踏んでいる。
椿芽は傍から見ても明確に焦らされ、精神的優位を龍崎に奪われている。
実力そのものが逼迫するということは、どんな瑣末なミスだけで決着を付けられてしまう危険性をも持っている。
ましてや椿芽の得物が剣、龍崎がスピードと技術に裏打ちされた、合気とレスリングスタイルの独特な混合技術。
間合いを読み違えるか、踏み出しの一撃を迂闊にしてしまえば、それだけで決着が付いてしまうと言っても過言ではない。
もちろんそれは龍崎にしても同じことであるのは言うまでも無いが……。
(経験か……人間の底の違いか。龍崎は隙を見せない)
場合によっては加勢することも――。
「……場合によっちゃ……カノジョさんを助けに行こうって? 軽く見られたなぁ……」
鳥喰が見透かしたように言う。
わずかの視線を読まれるとは……俺もまだまだだ。
「誤解を招いたらすまなかったが、アンタを過小評価はしていない」
「そう? それならいいけどさ……」
「もっとも過大に評価もしていないが」
「うわぁ……。ひどいなぁ。キミ、もうちょっと上級生に敬意をだね……」
鳥喰の口調は相変わらずの軽いものだが、それでも俺をその間合いから逃がしてくれそうにはない。
そこは流石はパンクラス内でランカーと呼ばれるだけのことはある。
(しかし……椿芽も気にはなるが……)
それよりも問題は――。
「はぁっ……はぁっ……」
羽多野の息は上がっているように見えるが、その実スタミナはまだまだ残っているはずだ。
しかし……。
「ちッ……。意外とやるじゃねぇか……」
「は、はい……。どうも……」
「ほ、褒めてるワケじゃねぇっ!」
「す、すみませんっ!」
相対する、パンクラスの無名生徒にペコリと大きくお辞儀して謝る羽多野。
相手が毒気を抜かれていたから見逃されたが、今の事ひとつ取っても、致命的にも過ぎる隙だ。
(やはり問題は羽多野か……)
「ぶーぶー。なんであたしが補欠なのさー」
ベンチで興猫が拗ねたように言うのが聞こえる。
「アニキの決めたこともき。まー、勇ねーさんもそろそろ本格的にバトルに参加しないといかんもき」
「ま、いいけどもさー。あんなザコとやっても面白くもニャーし」
本来は、軍馬が参加するのであれば順当に興猫をぶつける予定でいた。
急遽、相手方の3人めのメンバーが、いまフィールドに出ている無名の格下と判明した段階で、俺は羽多野をぶつける決断をしたのだ。
今後はパンクラスに限ったことではなく、有名上位ランカーのみとの対戦は多くなってくるはずだ。
羽多野に実戦を積ませるという意味では、ここしかないというタイミングに思えたのだが……。
「この……!」
「ひゃっ……!」
突進してくるパンクラス生徒を、羽多野は体を捌いて躱す。
ああいった技術のみで見れば、対峙している無名生徒よりも羽多野のほうが遥かに格上とは言える。
「また……! ちょこまかと……やる気あるのかっ!」
「そ、そういわれても……。やる気は……その……まぁ……」
そう、成果はそこそこに出ている。
相手のパンクラス生徒も、興猫にかかれば雑魚の扱いではあるものの、仮にも軍馬の代わりとして出ている者だ。
ランカーとは呼ばれないまでも、中堅クラスの実力を持っている。
それをああも手玉に取れれば、上等と言ってもいいのだろう。
俺と椿芽が教える、教科書どおりの柔術ではあるが……。
セオリーというものは、効果的であればこそセオリーとして成立するものだ。
ああして回避や防御に徹してしまえば、それを突き崩すのは容易なものではない。
ないのだが――。
(……問題は羽多野自身がそれを意図してやっている訳ではないということ……)
要は、ただ単に自分からは攻めあぐね、どうしていいか分からないまま、相手の攻撃を回避しているだけ、ということ。
さっきのような、素で見せる致命的な隙もあるが、何よりもこうした羽多野自身の戦闘モチベーションの低さは問題だ。
あれではともすれば……。
(自らの油断か、相手側のラッキーパンチ。そのどちらかが発生してしまえば、それだけで状況をひっくり返されかねない……)
「……まーた余所見かい?」
鳥喰が不満そう――というよりは、半ば拗ねたような顔で言う。
「……すまんな」
「いいけど……あんま舐められたままじゃ居られないんだよね、立場もあってさ!」
「くっ……!」
刹那、鳥喰のラッシュが襲う。
(先刻よりも……早い……!)
実力を隠していたか……それとも、時間を経てエンジンがかかってくる性質なのか。
ボクサーであれば、後者が多いとも聞くが。
今のラッシュの速さも見えてはいるが、流石に全てをかわすのは難しい。
(状況が状況。博打はしない……!)
俺は咄嗟にガードを固める。
「……かかったね、天道クン」
「な――――!?」
繰り出された拳のうち、ひとつ……明らかに性質の違うものが混ぜられていた。
本能的にガードを解いて避けるべきだと判断したが――
(間に合うはずもない――!!)
ガードした俺の腕、都合二枚を、『その拳』は文字通りに貫通してきた。
(『剄』か――!!)
剄――中国武術の技を用いた打撃であれば、直接的な防御の類はほぼ無意味に等しい。
体の各部の動作で発生させた運動エネルギーを攻撃の一点に集約させ、対象との接触と同時に開放する――。
ボクシング的な腕で壁を作って打撃を防御する方法であれば、そのガードに接触した段階で爆発的な運動エネルギーを流し込まれることになる。
剄の達人ともなれば、運動エネルギーが生じる距離や場所さえも調整し得る。つまりは……ガードした腕のさらに先から衝撃を発することもできる。
そして、この鳥喰はボクサーでありながら、その剄の達人でもあったのだ。
いずれ俺の油断ではあったのだろうが……。
この鳥喰、この一撃のために、いままで『欺瞞』を続けていたのだろう。
それに俺としても、ボクサーが剄を用いるとは――。
(いや……有り得ると考えるのが普通だ……! この学園では……!)
その……時間にすれば1秒にも満たない俺の思考を見透かして――。
「甘く見たね、天道クン」
爆発的な運動エネルギーを浴びせかけられ体ごと吹き飛ぶ俺の視線の先で……。
鳥喰が勝利を確信したかのような笑みを浮かべ、さらなる追撃の拳を固めていた――!