天文学園
「おい……」
聞きに馴染んだ、凛とした声音が俺を現実に引き戻す。
そして俺――天道乱世は急速に現実感を取り戻す。
体に感じる揺れと軋むような耳障りな走行音……。
「眠っているのか?」
「ん……。ああ……少しの間だが」
「ふむ……」
彼女――鳳凰院椿芽が、呆れたような一瞥を寄越していた。
多少の嘘を、ついた。
眠ってはいない。
いわゆる『ゆめ』と呼んで差し支えないものを見ていたのは確かだが――。
現に、その間の車両内の些細な会話から……隣で苦虫を噛み潰すようにしていた椿芽の一挙一動においてまでを仔細に覚えている。
俺は……眠るのが嫌いなのだ。
「相変わらず……暢気というべきか、大胆不敵というべきか……」
「後者の方が、若干、聞こえはいいか。どちらにせよ……好意的に取ってくれればありがたいが」
椿芽は慣れたもので、やれやれと小さく肩を竦めるのみだ。
それでも普段よりは僅かに饒舌になっていると思えるのは、やはり彼女にも僅かな緊張がある所為なのだろうか。
「もう……到着する」
言うと同時くらいに路面電車は何のアナウンスもなく、制動をかけ、停車した。
案内が必要になる筈もない。
俺たちが乗り継いだ、帝都市中央駅の専用乗車場からこの路面電車に乗った時から……。
行き先はただのひとつに決まっている。
「降りるぞ、乱世」
「ああ」
わざわざと、そんな言葉を交わすことですら……やはり緊張というものがあればこそ、なのだろうか。
帝立・天文学園前――。
申し訳程度の駅設備に降り立つと……濃厚な桜の匂いが鼻腔を擽る。
「こうも香れば……とても風雅とは思えんな……」
椿芽が眉間に僅かに皺を寄せつつ刀を腰のままに小さく鍔鳴らせる。
彼女が不快を示す時に見せる、行儀の悪い癖だ。
こればかりは師である父上殿にいくら注意されても直らない。
いまは、ただ桜の濃密な香りという自然の事象に苛立った程度なので横に立つ俺にしか聞こえない程度のものではあったが……。
椿芽はアレルギーという訳でもないが花粉の香り全般があまり好きではないらしい。
俺はといえば、弥が上にも先刻にも見た、いつもの記憶の残滓が喚起されるが……。
あれはあくまでも夏の日のことだ。
桜の芳香、などというものは、恐らくあくまで何かのイメージ的な産物でしかないのだろう。
(年月を経れば記憶などというものはこうも曖昧なもの、か……)
思うも……ならばその曖昧な記憶を今も悪夢に見る俺はといえば、なんなのだ。
「……何を笑う」
怪訝そうに言われ……俺は自分の笑みを知る。
「いや……聞きしに勝る大層なものだって、な」
「ああ……」
その言葉で、椿芽は一応の納得をしたようだ。
実際……その、学園と外界を隔てる壁は――。
「……壁の外周が霞んでいる……」
俺よりは予備知識もあった筈の椿芽までもが、首を巡らすようにして、呆れたような声を漏らすほどだ。
そう。
到着と言いつつも、まだ校舎すらも目に出来てはいないのだ。
眼前に広がるのは、ただただ学園敷地を取り巻く長大な壁――。
「まぁ……都市のひとつふたつがすっぽりと治まる敷地であれば……こうもあろう」
都市のひとつふたつ――。
それは比較的、控えめな表現だったろう。
俺が事前に調べた話では、この学園の敷地は、かつて関東地方と呼ばれたこの国の区分けをまるごと包括した以上の広さがあると聞いた。
俺や椿芽が育った里などは、隣に並べて添えればほんの米粒にも満たない。感覚が追いつかず、控えめな表現になるのもむべなるかな、だ。
そして……その広大にも程がある敷地を全てすっぽりと目の前に立ちふさがる塀で覆い尽くしているのだ。
それは端が見えようはずもない。
ぐ、と顔を上げてとりあえず目に映る範囲の壁を観察してみる。
高さは20メートルを裕に超える。
これを乗り越えるのは、さすがに骨が折れる事だろう。まぁ、する意味も特には無いが。
「徹底した外界からの隔絶……この中は正しく別の社会、というわけだ。乱世、お前もいつまでも気を抜いているなよ」
「隔絶――か」
「そうだ。通常社会との……隔絶だ」
「……………………」
何故――だろうか。
俺はその言葉に、僅かな違和を抱いた。
「やれやれ……」
傍らで、椿芽が再度、肩を竦める。
「鳳凰院流伝承者の私はともかく……何故、お前のような半人前までもが、この学園に呼ばれたのか……」
「またその話か」
「何度でもする。やはり……今もって理解できん」
「俺を半人前扱いするのは、お前だけだ」
「誰も口にしないだけだ。剣にも拳にも精通する所のないお前が半人前以外の何であるという」
「まぁ……一人前の判断基準も様々だからな」
「……成る程、減らず口に関しては一人前ということか。兎に角、私の足を引っ張るような真似さえしてくれなければ、いい」
言って、学園正門の方に歩みだしていく。
どんな巨人に配慮してその大きさがあるのか、というほどの高さがある門扉の横には、些細かに過ぎる、小さな小窓のようなものがある。
それに手を翳せば事前に入学手続き書に添付した血判に記されたDNA情報が自動的に読み取られる仕組みだ。
「鳳凰院流抜刀術宗家、鳳凰院椿芽」
椿芽に続き、俺。
「天道乱世。流派はない」
共に、声門認証の為に名乗りをしていく。
「……鳳凰院流を名乗れと言っただろう……!」
小声で椿芽が諌めてくるが……。
「俺も同じく言っていただろう。世話にはなったが流派を学んだ覚えはない」
「育ての恩を受けておきながらそれか……!」
「だからこそ、だ。流派を騙るような真似はできない」
「勝手にしろ……!」
椿芽は吐き捨てるように言い、拗ねたように面差しを逸らせてしまう。
もちろん椿芽にしても、俺に好意でそう言ってくれているのは判る。
学園の中においての初期ランクは、何らかの流派に属している方が有利であるという情報はさすがの俺ですらも知っていることだから、だ。
「……異なるクラスに編入された場合は……お前の面倒など見れないからな」
「心配無用だ。自分の身くらいは自分で守れる」
「それができる男に見えるのなら、私もこんなことは……!」
尚も椿芽が言おうとしたとき――。
重苦しい金属の擦れあう耳障りをさせつつ『帝立天文学園』の巨大な門扉が開いていった。