母
「……………………」
――この先だ。
この先に……勇が、居る。
俺は確信めいた衝動に突き動かされながら、歩を踏みしめていく。
かさかさと……。
足元で、くしゃくしゃになった紙が音をたてる。
こんなものを……。
こんな世界を生み出してしまっている以上、勇もまた、あの時のことを思い出して――。
いや、思い出させられているのだろう。
「……ここか……?」
俺は、ひとつだけ……薄く開いている教室の扉に手をかけた。
「ここは……現実の空間、なのか……?」
その呟きは愚問であるかとは思う。
この……確実に実際の校舎からは隔絶された場所が、正しい意味で現実であるはずはない。
意味合いとしては、実感としてある空間なのか……という意味ではあったのだが……。
しかし、それでなお、そのようなことを俺に呟かせたのは――。
(桜……か……)
この……むせ返るような桜の芳香。
それが弥が上にも……あの夢を思い出させる。
いや――。
「もはや……夢ではないのだな、あの記憶は……」
正しく現実の記憶ではない。
むせ返る桜の花弁……そして――蝉の狂ったような声。
そう、か。
あの夢と記憶のないまぜの世界を無意識に思い出させられたからこそ――。
「勇……?」
俺までも、この記憶の煮凝りの中に浸る訳にはいかない。
教室の中に歩を踏み出す。
同時に――。
「…………!」
教室の中が……変わる。
桜の花――蝉の声――。
続く石畳に大きな赤い大鳥居――。
ここは……まさしく、あの時の場所……。
「なるほど……現世では、ないか……」
歩を踏み出すごとに、夢は記憶に転じ、さらにはそれを現実の体験として現そうとしてくる……。
「いまや……この領域は彼女の思うまま、か……」
それならば……俺はそれに従うまでだ。
過去は変えられない。
いかな悔恨があろうとも、だ。
しかし……。
「未来に関しては、別だ……」
何も気取った言い回しじゃない。
むしろ……それしかできないというのが、人である我が身の限界だ。
一種、諦観にも近い想いでもあれば……奇麗事にはならないだろう。
『きゃあああああぁぁぁっ!』
悲鳴が聞こえた。
何処からと、探す意味もない。
あの時と……同じだ。
桜の樹の下には、一人の無力な少女と――。
『この……! お、おとなしく……しろっ……!』
『そっち……ちゃんと抑えてろよっ……!』
彼女を陵辱せんとする、数人のけだものたち。
『やだっ……! や、やめてっ……!』
あの時と同じように……俺はその光景を見ている。
動けない――。
あのときと同じく。
あのときの俺は、まだその目に映る光景の意味すらも知らない。
生まれた意味すらも持たずに生まれたのであれば……それは生まれる前の光景と同じことだ。
『おい……! そっち、持ってろよ……!』
『いてっ! おとなしくしろっ……! どうせ……こうなっちまったら……』
『そうだ、手遅れだ……俺も……お前もっ……!』
『いやああぁぁぁっ!』
無力――。
目の前の少女も……その時の俺も。
ただその繰り返しの光景を見ているだけのこと……。
彼女はこの場で人としての生を一度、終え――。
俺はその時に初めて存在の意義を持たされる。
彼女を傷つけるもの全てを倒す――。
全ての障害を破壊する。
それが……俺が持たされたものの全て。
あの時と……同じだ。
(そう、か……? 果たして、そうか……?)
確かにこれは過去の投影。
しかし……今、ここは確かにその後の現実だ。
ならば――。
「た――――」
少女の救いを求める目が、俺の視線と結ばれる。
「たすけて――」
「………………!」
刹那――。
俺は弾かれたように、走り出す。
あの時とは……全く違う意思のもとに。
『この……おとなしくしろって……!』
「止めろ」
少女を組み伏そうとした男の肩に手をかける。
『あ……?』
気の抜けたような声を発し、間の抜けた声が、ぽかんと開いた口から漏れ出る。
同時に……今まさに、少女の頭を樹の幹に叩きつけようとしていた手が止まっていた。
その幹の部分には……ささくれ、尖った瘤状の突起……。
こんなささやかな凶器に、少女の脳は致命的なダメージを負わされたのだ。
『な、なんだ……この餓鬼ッ……!』
『ど……どこから……?』
男たちは、狼狽し……半ば怯えた表情で俺を見る。
押さえるというよりも、ただ肩に置かれているだけに等しい程度の俺の手からも、微かな震えすら、伝わってくる。
「ふ……」
『な、なんだよッ……! なにが……おかしいっ……!』
あの時には……この連中でさえ、悪鬼か物の怪の類にすら思えた。
殺さねば殺されると、怒りの根底に恐怖すら、あった。
だからこそ、俺はああも暴れたのだ。
ああも、殺したのだ。
少女の両親を殺した、自動車のような圧倒的な『力』の体現となるようにして。
しかし……。
いま正に、目の前にあるのは、成る程ただの人間だ。
恐怖と絶望に衝き動かされた、弱い……人の姿だ。
「勇気とは……」
『な、なに……?』
「勇気とは……ひと全てそれぞれに在る、魂の矜持。それを守る為に奮い起こされる心のちから……」
俺は男たちを見据え、地に足を踏み張る。
「人は己の内の何かを守るため、それを奮い、身の丈以上の苦境にも立ち向かう」
背筋を伸ばせ。目は前を見ろ。
お前は本来『そのため』に生まれてきたのだ。
「時に折れることもあろう。時には蛮勇か勇み足などと呼ばれることもあろう。しかし……失敗の悔恨や苦悩すら、自らの勇で成したことは、いずれ人をまた奮わせる。新たな勇気を持つ、その勇気を与えてくれるもの」
『お前……な、なにを……!?』
「この世にひとつ。世界にひとつ。消せぬ罪を負う者が居る。その罪に抗う勇を持つ者がいる」
『な……なんなんだ、お前ッ! お前は――』
「天道乱世。言わせてもらうなら……正義の味方、だッ!」
『ぐわっ……!?』
まずは目の前の男を、少女の前から薙ぎ払うように、蹴り倒す。
加減をして放ったものではあるが、それでも男は地べたに転がった時点で失神をした。
『て、てめぇっ……!』
「………………!」
立ち上がろうとする男に、裏拳での一撃。
『ひ、ひぃっ……!?』
瞬く間に仲間の二人を打ち倒されたことで、残りの連中は完全に気勢を殺がれた。
『な……なんだ、この餓鬼っ……!』
そう、か。
いまや俺か彼女の記憶の中でしか生きてはいない彼らには……俺の姿も当時のままの子供の姿に見えるのか。
それは……さぞや驚いたことだろう。
『ち……ちくしょうっ……ッ!』
最早、俺は追撃をする意図もない。
ただ……視線で見据えるがのみ。
戦意を失った連中は、倒れた仲間を抱えるようにして……石畳を逃げ去っていこうとする。
『どうせ俺たち、ここで死んじまうんだ……!』
『お前だって……お前だってなァ!』
悲鳴に近い捨て台詞を、怯えたままの目で投げ落としつつ……。
「……そうだな。しかし……それはもう、過去のことだよ。過ぎてしまった……過去の……」
今ともなれば、彼らの狂気すらも、俺は理解もできる。
理不尽な恐怖に晒されれば、人は壊れる。
それほどに……弱いものなのだ。人は。
「しかし……だからこその、勇気なのだろうにな……」
俺は……少女のほうを振り返る。
『彼女』の顔をまともに見るのは……恐らくはこれが初めてだ。
彼女は先ほどまでの怯えた表情ではなく、穏やかな笑みで俺を見ていた。
「やっと……助けてくれたね」
「ああ」
俺は……少女に手を差し伸べる。
「こんなことをしても……過去が覆るではない。それは知っているのだがな……」
少女は、俺の手はとらず、ただ小さく笑み返す。
「無意味なことじゃない……」
「そうか……?」
「過去は覆らない。でも……未来は変えられる」
「……ああ」
「そのために……いま、こうして……できなかったことをしようとした……。その意思こそに、意味は、あるの」
「そうかもな……」
それが……望みというのなら、この冥宮校舎のような異常な世界をも、彼女の悪意によるものではないのだろう。
いや……。
「きみは……もとより、悪意などは無かったのだものな」
「………………」
「ただ純粋な感情の発露だけ……」
そして、目覚めるべきではなかった能力の発現……。
「おおきく……なったね?」
「ああ。おかげさま……というべきか」
「あなたの……大人のあなたの顔を見ることができただけでも……わたしは幸せだわ」
「……ああ」
俺の恋人であり……そして『母』でもあろう彼女は、言葉だけではなく、確かに幸福そうに見えた。
少なくとも……今の俺には。
「……………………」
俺は……桜の根元に座している彼女に、もう一度手をさし伸ばした。
「……いいえ」
彼女は少しだけ寂しそうに首を振る。
「あなたの手を取るべき『勇』は、ほかに居る……」
潤んだ瞳で、俺を見つめる。
「いいえ……いまや、あなたと同じく……わたしから生まれながらも、別の……確かな一個の人間となっている、彼女が……」
「……そうか」
「そうよ? わたしは……そういうものが遺せただけでも、しあわせなの」
「……そう、見えるよ」
「ふふ……」
少女は目を猫のように細め、年相応の笑みを見せた。
「未来を覗く力も……世界を変える力も……。そんなのは要らない。ただ、普通に生きて……普通に恋をして……そして普通に死ねれば……」
「だが……」
俺は言いよどむ。
しかし……少女は、促すように俺を見た。
「だが……世界は変えられた。きみ……一人の能力で……」
「そう……。そして……世界は止まっている。歪な形で……あの日から、ずっと……」
「だから……俺、か?」
「信じてほしいのは……そんなことの為に貴方を生み出したんじゃないの……」
「ああ。それは……判っている」
彼女の願いは常に純粋だ。
それゆえに……強く、それだけに……儚い。
「紆余曲折はあったが……俺は感謝している。きみがこの世界に俺を作り出してくれたことを……」
「………………」
「生まれてきて……良かった、と」
「乱世……」
「信じて欲しいのは……この俺の今の気持ちも言葉も、きみが願い、きみに持たされたものだけではないと……そういうことだ」
「ふふ……。そうね。そう……だね……?」
「ああ。そうだ」
「……世界を動かすのは……あなたよ。わかるわね……乱世……」
少女は……笑むのを止めて、俺に言う。
「………………」
彼女の言葉の意味は……俺には痛いほどに良く判る。
「あなたが……やるの。できるわよね……乱世。あなたは……強い子だもの……」
彼女が変え……彼女が止めているこの世界。
それを……そろそろ開放してやらなくてはならない。
そのために俺は――。
「……ああ」
俺が頷くと……彼女はもう一度、笑みをくれた。
「急がないと……だめ。『彼女』は……もう、すぐそばまで至っている」
「椿芽……か?」
「そう。彼女がわたしを憎み……わたしを手に入れようとする意味はわかるわ。だけど……」
「……ああ」
椿芽は自分がそうするように仕向けられたことを知らない。
いや……既に知っていて、それでも尚……そうしようとしているのかもしれない。
どちらにしても……俺はあいつを止めてやらなくてはならない……。
「そろそろ時間だわ……」
「もう、か……?」
「ええ。名残はつきないけれども……。いまのこの時間は……あの子が与えてくれたようなものだもの。あなただけを愛する……あなただけのための、羽多野勇の純粋な気持ちが」
「……………………」
「わたしの心は、既に……あの時に死んで……あの時に止まってる。だから……」
「………………」
「だから……気に病むことはないのよ。あなたは……あなたの成すべきことをするの」
「ああ。判ってる……」
少女が笑んだ。
それが……この時間の終わりの合図だ。
「さようなら……天道乱世――」
「さようなら……わたしの愛しい、ただ一人のひと――」