序
――みぃんみぃん――。
耳朶に響くは蝉の時雨詩。
「はぁ……はぁっ……」
内に響くは荒らぶる吐息。
肢はがくがくと震え、拳は巌のように固く――。
全ての四肢はままならぬ。
汗が……つい、と額を伝い、目元を濡らす。
ちくりとした痛みが眼球をしわりと包む――。
否――。
これは汗と違う体液。
ぬるりどろりとした、不快な汁。
其――う――。
これは――血、か。
視界を埋め尽くす不快な赫紅に――。
「はぁ……」
それを拭おうとするも、叶わないことを識っている。
そしてまた、その行為そのものが無意味にも過ぎることをも識っている。
何故ならば――。
自らの拳が――否、四肢の全てが余すこともなく血潮に塗れていれば、目を拭おうにも余計に塗れるが当然。
そして仮に拭い果せたところで、だ。
世界は恐らく、同じ赫紅に彩られている。
俺も――そして、『きみ』も――。
――みぃんみぃん――。
其――う――。
『きみ』は何処にいる?
この赫紅の世界の中で、『きみ』は。
肢を――踏み出す――。
くしゃりと足元に感じるのは薄桃色の花弁が拉げたおと。
いや――其れは、己の肢が鳴らした音だろうか。
砕けそうな膝は、まるで自分のものでは有り得ないよう。
首を――巡らす――。
ぎこり、と頚椎が鳴った。
これも自分のものに思えない。
この、全てが不確かで全てが曖昧な赫紅の世界のなか――。
(何処に――居るん――だ――)
然し、この焦燥は自分のもの。
『きみ』を見失った……自分の心の焦燥に他ならぬ。
「はぁっ……」
血混じりの吐息が肺からまろび出た。
否……本当に其れは血潮に塗れたものであったかも識れないが……。
何処――だ――。
焦燥は胸の内を焦がす。
その痛みも自分の物ではあったのだろう。
この世界――。
赫紅の世界は……『きみ』のために作ったものだ。
『きみ』を守るため……傷つけるモノを打ち滅ぼすが為に。
なのに――。
なのに、『きみ』は――。
――みぃんみぃん――。
「胡ゥ……」
足元の濡れたモノが、胡乱なけだものの呻きを漏らす。
生きて――いたのか――。
自分のものである不快が、夏の日差しに当てられたかのような酩酊と嘔吐を伴い、喉をヒリつかせる。
「亞胡ゥ」
「誹ィィ……」
見れば周囲の他のモノ――。
『きみ』を脅かそうとした俺の敵が、そこかしこで不快な合唱曲を奏で始めていた。
チっ……ちぃっ……ちぃぃっ……。
無様な蟲の声染みた舌打ちでも、すればそれなりに心は晴れる。
解消などとは程遠いが……。
いのちを絶てなかったのは、己が未熟か――。
其れとも――?
俺は……モノたちの息の根を絶ちたい欲求に駆られもするが……。
――みぃんみぃん――。
「………………!」
そこで――見付けた。
『きみ』を――見付けた。
「……………………」
俺は――『きみ』に歩み寄る。
全身の刺すような痛みも――。
鉄臭いどろりとした感触も――。
全て、その刹那には気にもならなかった。
俺は――ぼく、は――。
守れたのだから。
『きみ』を――いちばん大切なものを――。
気付けば指先が届くほどに近い距離。
櫻の樹を背に座り込む『きみ』は――。
矢ッ張り全身が等しく、朱に濡れていたのだけど……。
その……本来は朱を差すには幼い筈の頬……そして丹花に彩られた凄惨な赫紅は……。
只、この目においては只管に美尽かった。
そして――。
「……………………」
俺は……きっと、『きみ』の言葉を俟っていた。
その丹花から漏れる安堵と喜びの吐息を。
その頬に現れるぼくへの笑みの面差しを。
――みぃんみぃん――。
捩螺くれた蝉どもの咆哮――。
いやー―。
蝉は――桜には鳴かない――。
ならば――。
ならば、この声は誰のものか。
俺が桜の花弁と想ったものはなんなのか。
「ば―――――」
口唇が緩緩と笑みを形どる。
そして、割り開かれたその赤紅から漏れた言葉は――。
――みぃ――ん――。
「ばけもの――――」
言って――。
『きみ』が――哂った――。
――み――ぃ――ん――。
嗚呼――。
其う――か。
果たして――此れは――。
――み――ぃ――ん――。
蝉に非ず蝉が吼える。
頤をがちがちと鳴らせて、啼く。
桜に非ず桜が血濡れた花弁を撒き降らす。
けたけたと哂いながら赤紅い腐肉を零れさす。
ああ――。
そうだ――。
これは――。
きっと――これは。
これは――きっと恋慕にちがいない。
こんな――。
こんなにも――凄烈な愛などはないのだから――。