手紙
玄関に入り、靴を脱ぎつつネクタイを緩める。左手には、切手は貼られているが、消印は押されていない、一通の封筒。
純白のそれに記されているのは、もちろん俺の住所と名前。そして裏には、高校時代の友人の名があった。
乱雑に靴を脱いだまま、揃えることもせずリビングへと向かう。
ドサリと勢いをつけてソファに腰を下ろすと、スプリングが軋んだ。
「ふ~……」
両手を広げて天井を見上げる。そして目を閉じ、しばしの沈黙。今日のことを整理する。それを終えるとゆっくり目を開け、周囲を見渡した。
何の変哲もない自分の家。
そして目は、封筒へと向けられる。
左手をのそりと持ち上げ眼前へ。明かりに透かして見る。中には便箋。当たり前だ。これはあいつからの手紙なのだから。
本来なら封を開けて読むべきなのだろうが、俺はそれが出来ずにいた。
何が書かれているのか、知るのが怖い。
あいつとは、酷い別れ方をしたのだから。
それでも、今、このタイミングで読まないと、きっとこの封筒は机の奥深くへと追いやられてしまうだろう。俺の、あいつへの想いと同じ様に。
俺は封筒の端に指を掛けると、一気にビリリッと破った。
『拝啓 亮真様。東京で元気に頑張ってる?』
封筒と同じく真っ白の便せん。そこに、ブルーブラックのインクで綴られている文字は、まぎれもなくあいつの筆跡だ。
『亮真が東京に就職決まったって知った時、ほんまは一番に祝福したかったけど、あんなことになってたから言えへんかった。やからここに書かせてもらう。亮真はずーっと東京に憧れてたからな。ほんまにおめでとう』
そこまで読んだ俺の眉が寄った。
残念なことに、俺が今いる所は地元である。東京へ行ったものの、水が合わないというか、上手くいかず戻って来たのだ。だけど誰にも言えず、ひっそりとここで再就職している。
お前、これ出していたら宛先不明で返ってくるところだったぞ。ま、そうなっていたら、「お前らしいな」って笑われてたろうけど。
『僕はこっちで相変わらずアホやってます。昨日も間違えてデータ消してもうて……』
それから長々と近況報告が書かれている。
読み進めるにつれ、しかめていた眉が解れていく。口元も、自然と緩んでしまう。
文章でもあいつはムードメーカーらしい。どんな人も、あいつと言葉を交わすと笑顔になっていた。
そんなあいつに俺は……
「触んな! ホモがうつる!!」
払った手の感触と、いつも笑顔だったあいつが初めて見せた、今にも泣き出しそうな表情が甦る。
高校三年。卒業を間近に控えたある一日の出来事。
俺が落とした消しゴムを拾おうとしてくれたあいつに放った言葉。
誰に対しても壁を作ることなく、気軽にボディタッチをしていたあいつは、陰で「ゲイではないか」と噂されていた。
特に俺とあいつは仲が良く、しょっちゅうふざけ合っていた。背中から抱き付いてみたり、胸を揉んでみたり。良くある男子校のノリである。
だけど、この一件以来、あいつは俺に触れてこなくなった。笑顔も、どこか硬くなった。眉尻が、微かに下がっていた。
俺も、そう言ってしまった手前、変な意地もあって、あいつに声を掛けなくなった。必要最低限しか言葉を交わさなくなった。
そして卒業を迎えたのだ。
『亮真。今更こんなこと言うんも何やけど、俺、亮真のこと好きやってん』
ドクッ、と心臓が跳ねた。指先が微かに震える。次の便箋へ目を移すのが怖い。
きっと、『傷ついた』とか非難の文章が続いているに違いない。
一度便箋を下ろすと、「ふう」と一つ息を吐く。そして、視線は自然と机へ向いた。
そこの引き出しに隠されている秘密。そのせいで放った言葉。
便箋を手にしたまま立ち上がり、机へと歩み寄る。
取っ手に指を掛け、ゆっくりと引いていく。
乱雑に、ボールペンやら付箋やらが詰め込まれている引き出しの中、それは高校時代から変わらない、薄汚れた色をしてそこにあった。
半分程度まで使い込まれた消しゴム。
あいつが拾おうとしてくれたもの。
それに触れようと指を伸ばすも、いつものように直前で躊躇ってしまう。
消しゴムに触れることも出来ず、次の便箋も捲ることが出来ない不甲斐無い俺。
だからこんな結末になったのかもしれない。
だらりと両腕を下ろし、俺は俯いた。
本当は俺も好きだった。あいつの柔らかい笑顔も、少し高い声も、滑りまくるギャグも何もかも。だけど、他の友人から、クラスメイトから非難の目を向けられるのが怖かった。苛められたくなかった。
好きなのに、酷い言葉を吐いた。
それ以上に、あいつに告白して、もし振られたら……と思うと言えなかった。
「今更手紙で告白されても……」
ぽつりと一人ごちる。
何でもっと早くくれなかった。何で出すのを躊躇っていた。
東京に入る時これをもらえていたら、連絡を取る切っ掛けになったのに。
いや、変な意地を張らず、俺の方からしたら良かったのか?
ぱさり、と手から便箋が落ちた。
腰を屈め、無感動な目でそれを拾う。
『今でも好きや。多分、これから先、亮真ぐらい好きになれる人には出会われへんかもしれん』
拾い上げた一枚。それは次の便箋だった。
『やから、何回か連絡しよかな? って思った事あったけど、亮真に迷惑掛けたくなくて、自分にも勇気が無くて出来んかった』
「……俺も、本当は怖かったよ」
言葉が零れる。俺とお前、同じ気持ちだったんだな。
ゆっくりと腰を上げ、今度こそ引き出しの中の消しゴムを手に取る。
「女々しいことしてるって思われたくなかった。それ以上に、こんなおまじないに頼るほど、俺はお前が好きだったんだ」
ケースを引き抜く。
白い本体に、黒のペンで書かれている名前。あいつの名前。
好きな人の名前を新品の消しゴムに書き、それを誰にも触らせずに使い切ると、恋が叶う。
今時、小学生でもやらないような児戯。
でも、それだけ想っていた。皮肉なことに、それによって俺たちはぎこちなくなってしまったけれど。
『でも、今度僕が東京に行った時、偶然亮真に会えたら、ちゃんと亮真の目を見て言おうと思う。「好きや」って。それが嫌やったら、亮真、必死で僕から隠れんといかんな。亮真と僕のかくれんぼ』
「ふっ」と笑いが零れる。だけど、目元は無様に歪んでいる。
嫌なわけがない。むしろ目の前に仁王立ちして待ってやる。
だけど、隠れたのはお前じゃないか。
笑んでた口元も、ぐにゃりと歪む。
ころりと音を立てて、手から落ちた消しゴムがフローリングを転がる。
何だよ、不慮の事故って。どうせお前、ふらふらしながら歩いてたんだろ!? それで車に轢かれて死亡って……笑える。
そう思うものの、俺の視界は滲み、鼻と喉の奥が痛い。唇が震える。
「これ、あのこの引き出しに仕舞われてあったの。きっと出すタイミングを失ってたのね」
葬式が終わった後、半ば放心していた俺におばさんが渡してきた。
お前は引き出しを見る度に、どんな気持ちでいたんだろう。
それを知る術はもう無い。
『祈ってるよ。これから先、亮真が幸せになるように。僕のことなんか忘れてもええ。この手紙を破り捨ててもええ。ただ幸せであって欲しい』
ぽたり、と涙の粒が落ち、ブルーブラックのインクが滲んだ。
『亮真。今、亮真は笑ってるかな。泣いてへんかな。僕は近くにおれへんけど、いつでも亮真のことを想ってる。亮真の幸せは、僕の幸せやで』
涙のせいじゃない。この最後の文章は、震えてた。滲んで乾いた跡がある。
くしくも、俺はあいつが泣きながら書いたのと同じ場所で涙していた。
それほどシンクロするくせに、どうしてあの時、同じ気持ちを伝えられなかったのか。
惨めに嗚咽し、鼻を啜りながら、俺は机の上に便箋を置くと、腰を屈めて消しゴムを拾った。
そっ、とあいつの名前を撫でる。
「……今も想ってくれてるのかな」
俺は意を決したように、ぎゅっと消しゴムを握った。
数時間後、目の赤みと腫れが治まったのを確認し、俺は文房具屋へ足を向けていた。
色とりどりの便箋と封筒が並ぶコーナー。それを一つずつ、ゆっくり見ていく。
あいつなら、どんな便箋が似合うだろう。可愛い動物柄とか? いや、
「メルヘンやなー、亮真」
って笑われそうだ。
結局、あいつらしいあったかい太陽色の便箋と封筒を買い、外に出る。
一体、下書きだけで何回書き直すことになるのだろう。その度に、あの消しゴムは減っていく。
メールよりも、電話よりも自分の気持ちと向き合える手紙。
「俺はちゃんと、自分でお前に渡しに行くからな。仏壇の中で待ってろよ」
ふわりと風が髪をなびかせ、頬を撫でた。
「待ってるで」
そう、あいつの声が聞こえた気がした。