めざまし時計
「――朝ですよ」
ぼんやりとした意識の外から、優しい声が聞こえてきた。
いつもならぐずぐずと表に出てこない私の意識が、その声を聞いた瞬間にするりと表へ出てきた。
ぱちりと目を開ける。
最初に聞こえてきたのは安っぽいめざまし時計の音。最初に目に飛び込んできたのは真っ白な天井。続いて顔を横に向ける。真っ白な壁と真っ白な床。家具らしきものは私が寝ているこのベッド以外ないようだ。ゆっくりと上体を起こすと、女性の背中があった。綺麗な髪は黒くて背中まで伸びていて、着ている純白のドレスによく映えている。
私はその女性に声をかけた。しかし、女性はこちらの声に立ち止まりもせず、真っ白なドアを開けて部屋の外へと出ていってしまった。
ジリリリと地団駄を踏むように音を鳴らし続けているのは、枕元にあるめざまし時計。最近のデジタル式ではなく、目安針があるアナログ式のものだ。少しうるさい。もう今日の役目を終えているので乱暴に止める。
「ここはどこだろう」
ようやくこの真っ白な部屋が自分のものでないことに気がつく。不思議とパニックにはならず、心は落ち着いていた。
ベッドから出て、さっきの女性が出ていったドアへと近づく。すると「この扉の外を見たい」という強烈な感情が私を一瞬で支配した。理由はわからないけれど、この部屋にずっといてはいけないような気がした。
原因不明の感情に流されるまま、私は左手でドアノブを握る。人の温もりがちっとも感じられない冷たいドアノブだった。それを捻ってドアを開けようとした瞬間、誰もいないはずの背後に人の気配を感じて、私は振り返る。
そこには。
私と瓜二つの姿形をしたひとりの少女がぽつんと立っていた。少女は私のことを悲しげな瞳で見つめている。
「……えっと、ど、どちらさま?」
尋ねると少女はゆっくりと口を開いた。
「わたしは私。私はあなた。あなたはわたし」
よくわからないことを言っているけれど、少女の声は私のそれとよく似ていた。
眉が隠れる長さで切り揃えられた前髪、背中まで伸ばしただけの簡単な髪型、地味ではないけれど何か足りない顔立ち、長くも短くもない四肢に控えめな胸、さらには着ているパジャマまで同じだ。
ただひとつだけ違うところは。
少女の右手に包帯が巻かれていること。
「ドアの外に出るのはやめておいたほうがいいよ」
包帯に気を取られていると、少女のほうから口を開いた。すぐさま視線を右手から目元へと戻す。
「どうしてやめたほうがいいの?」
自分と同じ顔をした他人と話すなんて奇妙な感覚になる。自分が誰なのかよくわからなくなりそうだ。
「あなたが、いま描いてる未来の自分をすべて捨ててしまうことになるから」
「……えっと」
いまいち言っていることがよくわからない。描いている未来の自分とはなんだろう。将来の自分のことなんて意識して考えたことなかった。考えなくてはいけない年齢まできてしまっているけれども。
頭にいくつも疑問符を浮かべていると、再び少女が口を開いた。
「あなたは自分に嘘をつき続けることができる?」
「…………」
「少なくともわたしはあなたをそんな器用な人間だとは思えないの。それに、心の中ではまだ諦めたくないって思ってるんでしょ? ならわたしと一緒にこの部屋にいようよ」
まだ諦めたくない。その一言で少女が何について話しているのかがわかった。
少女の目は私の否定を拒否するような光を灯している。そんな目を向けられても私は怯むことなく言い返した。
「……あなたの言うとおり、本当は諦めたくないよ。でもね、いまの私のこの手じゃもうピアノは弾けないの。どんなに動かそうとしたって言うことを聞いてくれないんだもの」
後ろに隠していた右手を前へ差し出す。まだ腫れが完全に引いていない右手。いまでもたまにずきっと痛むことがある。
数ヶ月前、私は不運にも酒気帯び運転の車の交通事故に巻き込まれた。全身を強くアスファルトに打ち付けられたけれど命に別状はない。だっていまもこうして生きているんだから。
でも、命と同じくらい大事なものを私はその事故で失った。
ピアノを弾くためには欠かせない右手に重傷を負ったのだ。怪我した直後から隠されていた右手は、私の知らないあいだに姿を変え、ギプスを外した私に醜い姿を晒した。
特に損傷が酷かったのが人差し指と中指で、他の三本の指が少しずつ動くようになってきているいまでも、その二本だけは思うように動いてくれない。
たった二本の指が動いてくれないだけで、私の希望はなくなった。幼い頃から弾き続けてきたピアノの実力が認められて、音大の受験に向けて頑張っていたのに全部白紙に戻された。白紙に戻されたのは進学だけではなく、努力し続けた過去の私の存在もだ。
夢が絶たれたことを受け止めきれなかった私は、周りの人の制止も聞かずにピアノを弾こうと躍起になった。鬼の形相で毎日ピアノに向かった。動かそうとすると走る激痛にも耐えて鍵盤に触った。
けれど。
素人でも弾けるような簡単な曲ですら、完璧に弾くことができなかった。
そのことが私をさらに追い詰めた。
診てもらった病院の先生には「もうピアノは弾けないと思ったほうがいい」とまで言われた。けれど完全に「もう弾けない」と言われたわけではないとむきになり、砕けそうな心に鞭を打って、小さな小さな希望に縋ろうとした。
塵よりも小さな希望を求め続けて、いまに至る。
少女の前に差し出した右手。グーの形にして出しているつもりだけれど、人差し指と中指が曲がらないのでできそこないのチョキの形になっている。
「じゃあ、ピアノはもう弾かないの?」
一瞬の躊躇。
「弾かないよ。弾けないんじゃなくて、弾かない」
自分の目では見えない希望に縋るのは、もう辛い。
少女はそっと顔を伏せる。そして泣きだす手前のような震えた声で言葉を紡いだ。
「またピアノを弾ける可能性はゼロじゃないんだよ? それでも……」
「ゼロじゃないにしても、限りなくゼロに近いよね。私も自分で掴めるのかそうでないのかくらいの判別はつくの」
「…………」
私と少女はしばらく無言で見つめあう。
「それに、もうそんな夢を見ていられる余裕もない」
私がそう言うと少女は自分自身を納得させるかのように何度も小さく頷く仕草を見せ、顔を上げる。
「わかった」
両目から涙を流しながら、少女はパジャマの胸ポケットから鍵を取り出して私に差し出す。古びた洋館に似合いそうな鍵だ。
「ならわたしは止めたりしないよ。この部屋から、あなたが出ていくときがいつか来るって知っていたから」
鍵を受け取る。
私と同じ顔をした少女は、涙を流しながらも懸命に笑顔を作っている。自分が泣いているのか少女が泣いているのかわからなくなりそうだった。
「あなたは、どうなるの?」
「……わたしは、ずっとこの部屋にいつづけるの。誰もいなくても、ここがわたしの居場所だから。あなたが作ってくれた唯一の居場所」
少女の両手が私の右手を優しく包み込む。
「あなたがこの部屋に来ることはもう二度とないだろうけれど……わたしのことを忘れないで。あなたの中に、十年以上もいつづけたわたしのことを、ずっと覚えていてほしいの。いまは顔も見たくない存在かもしれないけれど、いつか、きっとあなたの力になってくれるから」
包帯の巻かれた少女の右手をそっと見る。
私だって薄々感付いていたはずだ、この少女の正体を。
私は少女を軽く抱いた。慰めるようにいたわるように私と同じ色の髪を撫でて、目尻にたまった涙を拭い、身体を離す。
「忘れないよ。ピアノを弾いていたことも、あなたのことも」
胸が痛い。静かな水面だった心に細波が広がって、なんだかじくじくする。油断すると私の目からも涙が零れ落ちそうだ。
少女の笑顔を見届けて、私は真っ白なドアを開ける。ドアの向こうはほんの一滴の絵の具を落としただけで、どんな色にも変わってしまいそうな危うげな色で満たされていた。
私はそんな不思議な色で彩られた地平線を遠くに眺めているだけで、どんより曇っていた心に太陽の光が差し込むように気持ちが明るくなっていくのを感じた。
部屋と外の境界線を跨ぐ。
右手でドアをゆっくりと閉めていく。部屋の中にいる少女から、一瞬も目を逸らさないまま。
だんだん狭くなっていく少女の姿を一秒でも長く脳裏と心に焼き付けるために、じっと見つめる。
そして。
完全にドアが閉まろうとする直前、その向こうから晴れやかな声が聞こえてくる。
「頑張って」
その言葉に返事をする暇もなく私の右手はドアを閉めきった。そして、少女から渡された鍵を鍵穴へと差し込み軽く捻ると、かちゃりと軽い音が鳴る。
その音と同時に、目の前の真っ白なドアと握っていた鍵が光の粉に変わって、地平線の向こうへさらさらと飛んでいってしまった。
きらきらと光りながら散っていく光の粉に手を振りながら、私は小さく呟く。
「おつかれさま」
ギリギリ肉眼で確認できるくらい遠くに、ドレスのような服を着た髪の長い人の姿が見える。
とても遠い場所にいるけれど、私が次に目指すのはあの場所なのだろうか。
でも不思議と嫌な気持ちではない。
晴れ渡ったこの心でなら、どこまでも歩いて行けそうな気がする。
○
私は目を覚ました。
最初に目に飛び込んできたのは見慣れた天井。続いて顔を横に向ける。淡いピンク色の壁と緑色のカーペットが敷かれた床。いままで買い集めてきたCDやレコード、音楽雑誌などが詰め込まれた本棚とくたびれた色をしている学習机。
上体を起こす。不思議なことに数秒前まで寝ていたとは思えないくらいに頭がすっきりしている。いや、すっきりしているのは頭だけではない、心もだ。胸の奥にあった何かが取れたような感覚がする。
そういえばめざまし時計が鳴っていない。枕元のめざまし時計は昨晩就寝した時刻を指したまま止まっていた。めざまし時計の力を借りずに目を覚ましたのなんて何年ぶりだろうか。ちょっとだけ嬉しくなる。
ベッドから出て踏みなれたカーペットの上を歩き、部屋のドアノブを左手で捻る。
一階のリビングからはニュースの音声と朝食の匂いがかすかに漏れ出している。今日の朝食はなんだろう、なんて考えながら階段を下りていく。
リビングに入ると食卓には既に朝食が並べられていて、両親が座りながら私に視線を向けていた。二人に朝の挨拶をしてから食卓についた。
テーブルの上に置かれた私の右手を見て、両親の顔が曇る。もうそんな顔は見たくない。
二人が私のことをどれだけ心配してくれているかは知っているし、無理やりピアノを弾こうとする私のことを想って「諦めろ」と言ってくれていたのも実は知っていた。
何より、私をピアノと出会わせてくれたことには感謝してもしきれない。
私は自分の右手に自分の左手を重ねて、二人に向けて口を開く。
「お父さん、お母さん、あのね――」