引いては満ちる、出来損ないの潮汐の魔術師
突然だが、僕は死んだ――辺り一面に広がる干潟で死んだ。
といっても、ここは閑静な住宅街に佇む一軒家の二階、五畳半の一室だ。
南向きの窓からは、温かな日差しがまるで孤独の中の神の祝福のように降り注いでいる。
だから、これはもちろん単なる例え話であるのだが――
僕は確かに、見渡す限り何もない、だだっ広い干潟に身を横たえていた。
――繰り返しておくが、これは単なる例え話。
ある出来損ないの魔法使いが見た、夢物語のような夢の話だ。
あれはいつのことだったか。僕が度を超した活発さでこの部屋の外、外の世界に出かけていっては、ゲームやSNSで知り合った友人たちと代わる代わる遊び回っていた時期であるのは間違いない。
その友人の一人である大変気立ての良い、捌けた性格のお姉さんにこう言われたことがある。
――――両極端な思考だから難しいだろうけど、―――と。
正直に言おう。ドキッとした。
胸キュンという意味でも的外れではないが、それは副次的なものであって、本当のところは僕の心を他の誰よりも正確にとらえているのではないか、という純粋な驚きだ。
そういった、人の心を理解できてかつ受け入れられて、その上でエールを送ってくれる女性。
僕にもう一度恋人ができるとしたら、そんな人だったら本当に救われる――と思うのだが現実はそう都合よくいかない。むしろ恋人ができる機会さえなくなってしまった。
閑話休題。
そう、僕の心は両極端だ。
それは例えるなら潮の満ち引きのような落差、あるいは距離でもって僕の行動を支配する。
――本当に、ひどいものだ。僕は調子の上がった満潮時には不眠不休でも友人たちと遊ぶ外向的な性格だ。
しかし、何かの拍子で潮が引いてしまうと途端に何もできなくなる。そう、何も、何一つ。
朝起きる。ご飯を食べる。身支度を整える。仕事に行く。仕事上がりや休みの日に友人と遊んだりもする。帰ってきて晩御飯を食べる。風呂を浴びる。そして寝る。
これら一日の行動の合間には、絶えず友人たちと連絡を取り合い、次はいつ遊ぼうか、などと予定を立てていく。
――という日常のこと一つ一つが、一切合切、それはもうばったりとできなくなるのだ。
そして何をしているかといえば、何もしていない。ただ自室にこもって寝て過ごす。趣味へのこだわりも放棄しているからだ。
実は、その理由は単純明快。
僕は高機能広汎性発達障害という障害を持っているからだ――と僕自身は思っている。残念ながら、専門的な知識を得る前に勉学からドロップアウトしてしまったので、疑問に思うことがあれば精神科医や精神保健福祉士といった専門家に尋ねてみるといい。素人の僕に責任を求められても困る。
それはさておき、この障害。日常生活の中の様々な場面で、これはこうする、こうなるべきだというような強いこだわりに意識をとらわれることが特徴の一つとされている。
僕がこの障害を引き合いに出すのもそこにポイントがあると考えるからだ。つまり、「こうしなければならない」がいくつも重なり合って、処理の限界、オーバーフローを起こしてしまうからではないか、と。
一度オーバーフローしてしまうと、この心はすべてを拒否する。体調の変化を友人に知らせることもできない。メールであろうが電話であろうが、とにかくできない。
活発なときなら中毒のようにログインしていたSNSも、発信するどころかログインさえできなくなる。
――そう、できないのだ。やる気がないわけでも、ましてや嫌なわけでもない。社会性を持つ人間としてしなければならないことがわからないわけではないのだ。
高機能とついているだけあって、この障害を持つ者は知的には問題なく、むしろ発達のムラの一部として健常者よりも秀でた何らかの能力を有していることさえあるくらいなのだから。
そうした潮汐のような僕の心は、いつしか僕の部屋そのものを潮汐の起こる浜辺へと塗り替えていった。
無論、ただの比喩だ。この家が満潮で海底に沈むことなどありはしない。
しかし、僕の心のありようとはそういうものなのだ。
僕の精神、それ自体が潮汐そのものになっている。
その様を現実に描き出すことが、障害というハンディを負う、出来損ないの魔法使いにできる唯一の魔法なのだった。
だから、僕は、僕の心は、すっかり干上がって、そこで死んでいるのだ。
皆様ごきげんよう、以前は魔法を専用デバイスで発動する系のファンタジー?小説を執筆していたエシャロットでございます。
今回は一転、その流れをわずかに引きながら、自身の経験を魔法というファンタジーの皮で包む「自伝的ファンタジーショートショート」なるものを書いてみようと思い立ち勢いに任せて書き上げてみました。
書き上げて振り返ってみるとファンタジー要素はほとんど影を潜め、高機能広汎性発達障害とは何かという持論を展開するだけの内容になってしまいましたね……。
ここからさらにファンタジー要素へと発展させられればよかった、という手抜きへの後悔もありますが。
この作品で訴えたかったのはこの障害を持つ私が感じている苦悩のほうなので、その部分はある程度表現できたと考えております。
ただし、あくまでも個人的な感想であり、障害者の全容に迫るとか、代弁するだとかの意図はございませんので悪しからず。